[掲示板: 〈過去ログ〉過去ログ2(英語教育についての論争) -- 最新メッセージID: 983 // 時刻: 2024/11/23(10:46)]
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お名前: 駿台生
投稿日: 2002/2/13(11:48)
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〉中には京大の英語のように、極めて難解な英文解釈を課す大学もあるようですが、
〉そうした大学にどうしても入りたいというのでなければ、もっとまともな入試問題
>を出す大学を志望すれば良いのではないでしょうか。
京大の出題する英語がまともでないというのはまずいでしょう。英文の構造は複雑ですが、あの程度の英語はむこうの知識人の多くが書いているものです。わたしも多読は必要だと思いますが、複雑な英文を読み解く方法論なくして単に多くの英文をたくさん読むという幼稚なやり方では京大英語にはまったく対応不能、すなわち知識人教養人の書く英語はまったく読めないということなりませんか?
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お名前: sakigoro
投稿日: 2002/2/13(13:03)
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言葉足らずでした。
京大英語はまともでないというつもりはありませせんし、
その英語は多読だけで対処不可能いうつもりもありません。
私自身は、ほぼ多読オンリーで、受験の時には、あの程度の英語で
構文などで意味がとれないことはほぼないくらいにはなっていました。
ただし、犠牲になったものも大きかったですよ。 英語ばかりで
他の勉強は放棄してましたから。 読書をするのは楽しいので
つらい受験勉強を行ったという気持ちがほとんどありません。
あくまでも個人的な経験に基づく発言であり、私が行った勉強方法の有効性を
無邪気に他の人に無条件に一般化するわけにはいきません。
他の人だと、もっと少ない時間で実力をつけることができるかもしれないし、
逆に、もっと時間がかかるかもしれない。
ただ、大学入試までの時間が限られている受験生が多読ばかりで
あの難解な構文に対処できるようにするには時間が足りないこともありえる。
そうなった場合、状況が許すのなら、志望校の中でも、やさしめの英文を大量に
課す大学を目指した方が良いのではないかという気持ちからの発言です。
上智の外国語学部のように、大量の英文を課す大学でしたら、多読で対処する
方が有効でしょうし。
また、個人的経験からの勘ですが、私が多読を始めたのが高校3年になってからですから、
もっと早い時期からやっておけば、他の勉強も犠牲にすることなく
すばらしい実力をつけることは可能なのではないかと思います。
いずれにせよ、多読によって身につける英語感覚を優先したほうが、後々、実りの多い
ものになると思ってます。
ずっと英語を読みつづけてきて思うのですが、英文の意味がとれないのは
文法的なことよりも、単語にあることが多いのですよ。
それも、わりと簡単な基本単語に近いことも結構あります。
英語の歌詞なんかを読んでみると、難しい構文は使ってません。
でも、それぞれの言葉のもつイメージをきちんととらえてないと
わからないことが多いです。 こうした感覚を養うのは、大量に英語に触れていくしか
ないし、その一番の近道は多読だと思ってます。
あっ、でも駿台生さんは、多読の効果を否定しているわけじゃなくて、
肯定していらっしゃるのでしたね。 後半部分は余計でした。
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〉ずっと英語を読みつづけてきて思うのですが、英文の意味がとれないのは
〉文法的なことよりも、単語にあることが多いのですよ。
文章の質によると思います。小説や詩の場合は英文の構造も単語の辞書的な意味もしっているのになにをいっているのかよくわからないということがよくあります。こういうものを読めるようになる感覚は多読で養うべきなのでしょう。しかし、通常の書物の英語は、内容語より機能語の働きをきちんととらえているかどうかのほうが大事だと思います。
〉英語の歌詞なんかを読んでみると、難しい構文は使ってません。
〉でも、それぞれの言葉のもつイメージをきちんととらえてないと
〉わからないことが多いです。 こうした感覚を養うのは、大量に英語に触れていくしか
〉ないし、その一番の近道は多読だと思ってます。
その通りだと思います。
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お名前: まりあ
投稿日: 2002/2/13(15:57)
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>京大の出題する英語がまともでないというのはまずいでしょう。英文の構造は複雑
>ですが、あの程度の英語はむこうの知識人の多くが書いているものです。わたしも
>多読は必要だと思いますが、複雑な英文を読み解く方法論なくして単に多くの英文を>たくさん読むという幼稚なやり方では京大英語にはまったく対応不能、すなわち知識>人教養人の書く英語はまったく読めないということなりませんか?
言葉は教養の道具である以前にコミュニケーションツールです。
また物事を学ぶときには合理的な順序があると考えられており、
高次方程式の前に一次方程式を学びます。
英語を学ぶときにも、教養としての英語以前に、コミュニケーション
ツールとしての英語の土台をしっかりさせることが、近年特に必要に
なってきたと考えます。明治大正時代には、欧米の科学技術や知識を
導入するために、英語文献を読むための英語知識が一番大切でした。
そのために知識を読むことのみが重視され、インタラクティブなやり
とりや、ニュアンスを表現する・解釈することが看過されてきました。
今では多くの人が海外旅行に出かけ、インターネットの発達により
世界各国に友人を持つことも可能になりましたし、日本で手に入ら
ないものもオークションで競り落とせます。面白いゲームもあるよう
です。まず初めはこうした日常でのニーズに対応できる英語を学び、
その後さらに意欲のある人が、知識人の教養ある英語を目指せば良い
のだと思います。
万葉集も源氏物語も平家物語も知らなければ、教養ある日本人
とは言い難いからといって、外国人に電化製品の取説を読むための
日本語より先に古文を教える日本語学校があったとしたら、その
学校が親切だとお考えになりますか?
いきなり小林秀雄氏や江藤淳氏の日本語を読めるようになろう
として途中で挫折して日本語がちっとも読めなくなるより、まず
赤川次郎を読めることを目指せば、多くの人が目標にたどり着け、
日常生活も便利で楽しくなるだろうと思われませんか?
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お名前: 駿台生
投稿日: 2002/2/14(03:54)
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〉また物事を学ぶときには合理的な順序があると考えられており、
〉高次方程式の前に一次方程式を学びます。
当然である。しかし、合理的な順序だけでなく、方法論も必要である。一次方程式をたくさんといていればそのうち高次方程式も自然にとけるようになるなどということはない。多読していればそのうち複雑な構造の文も読めるようになるなどという保障はない。
〉です。まず初めはこうした日常でのニーズに対応できる英語を学び、
〉その後さらに意欲のある人が、知識人の教養ある英語を目指せば良い
〉のだと思います。
賛成。
〉万葉集も源氏物語も平家物語も知らなければ、教養ある日本人
〉とは言い難いからといって、外国人に電化製品の取説を読むための
〉日本語より先に古文を教える日本語学校があったとしたら、その
〉学校が親切だとお考えになりますか?
あなたは今の日本の英語教育を戯画化しすぎている。現状を改革しようという意志はよいが、敵を必要以上に貶めて自分を正統化するのはよくない。酒井も、伊藤和夫を中傷することでしか自分の立場を正当化できないはなさけない。
〉 いきなり小林秀雄氏や江藤淳氏の日本語を読めるようになろう
〉として途中で挫折して日本語がちっとも読めなくなるより、
いったいどこでそんなやり方をしているのか?高校や予備校でそういう教え方がなされているのか?もし行なわれているならばそれは大学という怠惰な人間(英語学者・英文学者)の巣窟においてであろう。
〉赤川次郎を読めることを目指せば、多くの人が目標にたどり着け、
〉日常生活も便利で楽しくなるだろうと思われませんか?
賛成。多読の必要性は認識している。
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396. Re: 複雑な英文を読むための方法論を欠いたSSS
お名前: まりあ
投稿日: 2002/2/14(08:56)
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〉〉多読していればそのうち複雑な構造の文も読めるようになるなどという保障はない。
私は絵本や少年少女文学全集など、日本語ばかり読んで
だんだん大人の本が読めるようになりました。英語で説明した
日本語の文法の本を読んで日本語が出来るようになったわけ
ではありません。
今でも読み続けられている、明治時代の英文法の名著と
されている本を書いた著者達も、文法書を読んで英語を勉強
したはずがありません、なにせご本人が書くまで無かった
のだから。
以上の理由から、英語を易しいものから段階的に多読
することで、複雑な構造の文も読めるようになると考えますが、
日本に育った日本人でも、各人の日本語能力には差がありますし、
難しい文章は読めない・読みたくない人もいるので、全員が
必ず、と保証することは無理でしょう。
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416. Re: 複雑な英文を読むための方法論を欠いたSSS
お名前: 呂 奉先
投稿日: 2002/2/15(15:24)
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〉〉〉多読していればそのうち複雑な構造の文も読めるようになるなどという保障はない。
〉 私は絵本や少年少女文学全集など、日本語ばかり読んで
〉だんだん大人の本が読めるようになりました。英語で説明した
〉日本語の文法の本を読んで日本語が出来るようになったわけ
〉ではありません。
日本語と英語の構造の違いがある、と言われればそれまでの
ことであるが、日本語を例にとって考えてみれば、
「小説をいくら読んだところで、論説文や評論文は決して
読めない」ということは、ごく当たり前の事実である。
文章の構成,使用している日本語のレベルが全く違うから
なのであるが、英語でも同じことは言えないのであろうか?
無論、多読の必要性を否定しているものではないが、易しい
ものから段階的に…と言ったところで、日本語における
小説と評論文のような、「文章の構造,単語のレベル自体が
全く違う文章」にぶつかったときに、どのように読めるように
なるのかが、非常に疑問ではある。
これが多読で克服できるというのなら、国語の授業の否定にも
なると思う(「日本語でも簡単なものから日本語の文章を読んで
いけば、どんな文章でも読める」という論理になり、難しい国語の
文章を読むための論理的思考の説明や、文章の構造を砕いていく
授業は不要という形になりそうなのだが・・・)のだが、いかが
であろうか?
今の一般的な日本人(国語教育を十分に受けていない人間)の使う
日本語は目茶苦茶で、酷いものである事実を考えると、多読だけで
まかなえるなどということは、口が裂けても言えないはずだと
思うが・・・。
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お名前: 呂 奉先
投稿日: 2002/2/15(15:36)
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私は仕事柄、海外の帰国子女の方と接する機会が多い。
帰国子女の方の中には、現地校に通われていた方も多く、
そういう方は、発音は抜群,日常会話は全く問題なし、
という人ばかりである。
ただ、彼らに英語で書かれた(ビデオなどの)説明書を
読ませると、全くといっていいほど読めない。
要は、「あの服きれいだよね」「今日なに食べた」など
という簡単な英語は、十分すぎるくらいに話せるが、
文の構造が少し複雑になっただけで、お手上げというわけ
である。
彼らは、生の英語に毎日触れており、我々などより遥かに
多くの英語を聞き、英文を読んでいるはずである。
しかし、その(文法的,教養的)レベルが低い場合、いくら
繰り返しても、難しい文章を読めないという証明だと思う
のであるが、いかがであろうか?
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お名前: SSS英語学習法研究会 事務局 古川昭夫
投稿日: 2002/2/15(16:40)
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〉彼らは、生の英語に毎日触れており、我々などより遥かに
〉多くの英語を聞き、英文を読んでいるはずである。
ビデオの解説書を読めないような
帰国子女がいるのは事実だと思います。
しかし、そういう人たちは、英文を読んでいないと
思います。 読む訓練をキチンとしなければ、
文盲の人がいるように、読めるようにならないのは
当たり前です。 そして、私達は、読む訓練として
「まずは易しいものを大量に読む」ことから始め
「徐々にレベルを上げていく」ことを推奨している
だけです。
〉しかし、その(文法的,教養的)レベルが低い場合、いくら
〉繰り返しても、難しい文章を読めないという証明だと思う
〉のであるが、いかがであろうか?
Graded Readers の教養的レベルが低いというのは
偏見だと思いますね。もちろん、易しいレベルのもの
には教養的レベルの低いものも多いのは事実ですが、
Level 4,5,6 の本は、それなりに知的レベルは高いと
思いますね。
例えば、The Coldest Place on Earth (OBW)は、
400語で書かれているけど、決して、知的レベルが
低いとは感じません。
易しい英文は、知的レベルが低いということ自体、
偏見ではないかと思います。
追記: 私も、文章を書いてお金を多少かせいでいますが、
内容のあることをできるだけ平易な日本語で表すよう
常に努力しています。
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420. Re: Graded Reader はレベルが低いか?
お名前: 呂 奉先
投稿日: 2002/2/15(17:40)
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代表自ら、私の稚拙な質問にお答えいただいたことに
対して、まず深く御礼を申し上げたい。
ただ、私の「日本語力不足」を露呈しているようで
非常に恥ずかしいことなのであるが、私の思う疑問点とは
少々離れてしまっているように思える。
誤解があるようだが、私はSSSなどで読まれている
文章のレベルが低いとは決して申し上げてはいない。
むしろ、教養レベルの高い文章も多いと思っている。
ただ、日本語では、いくら小説を読んでも、論説文は
読めないように、英語でもいくら多読を繰り返しても
文法的,語彙的説明が無ければ、そういった壁に
ぶつかるのではないか?それを、多読だけでどのように
突破するのか、ということを知りたいだけである。
日本の英語教育が酷い方向に進んでいる現在(無論
日本語教育も数学教育もであるが。要は教育全てか?)
多読という方法は、非常に有効な方法であると思っている。
それだけで、見えない壁を突破できるのであれば、
それは素晴らしいことであると思う。ただ、学習に
「万能薬」といったものは存在しないはずで、「多読が
全て」といった考え方に、違和感を覚えているだけである。
There is no royal road to learning.
であると思うのだが…。
〉そして、私達は、読む訓練として
〉「まずは易しいものを大量に読む」ことから始め
〉「徐々にレベルを上げていく」ことを推奨している
〉だけです。
〉Graded Readers の教養的レベルが低いというのは
〉偏見だと思いますね。もちろん、易しいレベルのもの
〉には教養的レベルの低いものも多いのは事実ですが、
〉Level 4,5,6 の本は、それなりに知的レベルは高いと
〉思いますね。
〉例えば、The Coldest Place on Earth (OBW)は、
〉400語で書かれているけど、決して、知的レベルが
〉低いとは感じません。
〉易しい英文は、知的レベルが低いということ自体、
〉偏見ではないかと思います。
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お名前: SSS英語学習法研究会 古川昭夫 http://www.seg.co.jp/fakio/
投稿日: 2002/2/15(22:59)
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多読が万能だとはだれも言っていませんよ。
多読が、英語習得の基本であり、その基本を
おろそかにして、難しいものを辞書を片手に
読んだり、書いたりしても、力は伸びないと
いっているだけです。
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お名前: SSS英語学習法研究会 古川昭夫 http://www.seg.co.jp/fakio/
投稿日: 2002/2/15(22:57)
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〉〉〉〉多読し〉「小説をいくら読んだところで、論説文や評論文は決して
〉読めない」ということは、ごく当たり前の事実である。
〉文章の構成,使用している日本語のレベルが全く違うから
〉なのであるが、英語でも同じことは言えないのであろうか?
日本語の場合、小説を読んでいれば、自然に論説文や評論文を
読めるようになると思いますけど。
少なくとも、僕自身、論説文や評論文の読み方というのを
学生時代に勉強したことはありません。
〉小説と評論文のような、「文章の構造,単語のレベル自体が
〉全く違う文章」にぶつかったときに、どのように読めるように
〉なるのかが、非常に疑問ではある。
単語はともかく、文章の構造というものが違うとは思えません。
〉これが多読で克服できるというのなら、国語の授業の否定にも
〉なると思う(「日本語でも簡単なものから日本語の文章を読んで
〉いけば、どんな文章でも読める」という論理になり、難しい国語の
〉文章を読むための論理的思考の説明や、文章の構造を砕いていく
〉授業は不要という形になりそうなのだが・・・)のだが、いかが
〉であろうか?
実際、不要だと思います。もちろん、大学の専門レベルでの
話は別ですが。 解説を聞かないと分からない文章というのは
悪文というものでしょう。
日本語でも、簡単なものから順々に難しいものまで読んでいけば
自然に、難しい日本語の文章は読めるようになります。
〉今の一般的な日本人(国語教育を十分に受けていない人間)の使う
〉日本語は目茶苦茶で、酷いものである事実を考えると、多読だけで
〉まかなえるなどということは、口が裂けても言えないはずだと
〉思うが・・・。
それは、まさに、日本語をたくさん読んでいないからだと思います。
たくさん小説とかを読んでいる人の文章は比較的マシなのではないでしょうか?
私自身、専門的な国語教育は全く受けていませんが、
普通の国語の教師よりよっぽど分かりやすくて説得力のある文章を
かけると自分では少なくとも思っています。
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430. Re: 複雑な英文を読むための方法論を欠いたSSS
お名前: SSS学習法研究会 河手真理子
投稿日: 2002/2/16(00:01)
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呂 奉先様
ご意見ありがとうございます。
「小説をいくら読んだところで、論説文や評論文は決して
読めない」ということは、ごく当たり前の事実である。
というのは本当に事実でしょうか。
国語の点数が悪いと嘆く子に、小・中・高の国語の先生は、「本をたくさん読みなさい」と言います。何人もの先生にそう言われてきました。
だったら、英語も同じだと思うんです。
小説と言っても内容やレベルはいろいろあります。
わたしは、ふつうの文学作品をたくさん読んでいれば、論説文や評論文も読めると思います。
もちろん、使われる語彙は違うでしょう。
そのときは、キーワードとなるような、言葉を調べれば文章を理解するという意味では読めると思います。
ある程度文章を読めるようになったら、むしろ一般的な論説文のほうが易しいということはありませんか?
「一般的な」とつけたのは、「専門書」ではなく、という意味です。
子供に本を読ませるときに、最初に文の構造などは教えません。
ただ、ひたすら字を読んで内容を楽しませるだけです。そういう読み方をしていても、小学校高学年以上、
中学、高校になれば、その年齢にあった論説文、評論文は読めるようになります。
もちろん、内容と読む人の知的レベルが合致していることを条件に話しています。
子供たちや、ここで多読を始めようと思う好奇心の旺盛な大人たちは、ある程度、文章が軽快なリズムをもって
本を読めるようになると、自分の好奇心を満足させようと、いろいろな内容、分野の本に手をだしたくなるでしょう。
自分の読みたい分野の本があって、英語の文字に対する拒否感がなくなっていれば、いくつかのキーワードを辞書でひくことによって、その本は読めるようになると思います。
Greaded Reader を段階的にたくさん読もうというのは、そういうことができるようになるための、最初のステップとしてお薦めの方法であるという主張です。
一見時間がかかりそうですが、一番近道の方法であると思っています。
英語の本がすらすら読めるようになるには時間がかかるものだと思います。
もちろん、わたしたちのお薦めする方法が、すべてであるというふうに押しつけてはいません。
ほかに本が読めるようになる方法も多数あることでしょう。
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440. Re: 複雑な英文を読むための方法論を欠いたSSS
お名前: 呂 奉先
投稿日: 2002/2/16(16:30)
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〉「小説をいくら読んだところで、論説文や評論文は決して
〉 読めない」ということは、ごく当たり前の事実である。
〉というのは本当に事実でしょうか。
〉国語の点数が悪いと嘆く子に、小・中・高の国語の先生は、「本をたくさん読みなさい」と言います。何人もの先生にそう言われてきました。
〉だったら、英語も同じだと思うんです。
私は、上記内容(自分の発言)は事実であると思っている。
実際、小学生や中学生の時期に「国語が得意」と言っている
子供たちが、高校の国語の授業で行き詰まる様を、何度も
見ている。
高校国語とそれまでの国語の違いは、扱われる文章の違い
すなわち、評論,論説文を中心に扱うか、小説を中心に扱うか
の違いである。
実際、評論文における作者の意図の読み取りは、小説における
主人公の気持ちの読み取りとは、全く質の違うものであり、
高等国語教育では、そういった質の違う読み取り方を教える
ことも重要だと感じている。
無論、本をたくさん読むことにより、絶対的な文章読解能力は
向上するのは間違い無い。ただ、その「絶対的能力」だけでは
どうにもならない壁にぶつかってしまう、ということである。
その壁を破るために、日本語の場合、語彙的,文法的な説明を
要すると申し上げているのである。
この部分で全く違う意見をお持ちであれば、これ以上の議論は
成立しない。あくまでもこれは、私の考えで絶対的なものでは
ないとは思っている。
ただ、たった1つ断言できることがある。
それは、日本語も英語も同じ言語であるということ。
つまり、日本語能力の向上に役立つことは、英語でも役立ち、
そのまた逆も真である。
その能力向上の1つの方法として、多読は大きな力をもっている
ことは間違いないはずである。
以上、お騒がせいたしました。