訂正

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8612. 訂正

お名前: 柊
投稿日: 2006/10/17(14:33)

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 こんにちは、柊です。
 皆さん、お答えいただいて、本当にありがとうございます。そちらの返事は、しばらく考えてから、改めて書きます。

 それで、本題とはあまり関係ないような気がするんですが、訂正というのは、シドニー・シェルダンのたとえについてです。
 具体的な作家名を出せば良かったですね。自分で読んでも、あれは書き方が悪かったと思います。すみません。
 例えば、結構売れていて、あまり読むために「教養」とか「文学的素養」がいらなそうな作家、私の好きな辺りでいうと、森博嗣とか有栖川有栖とか京極夏彦とか宮部みゆきとか。森博嗣と京極夏彦は結構ぶっ飛んでいるので、しかも再読で色々わかることが多いので、今回は置いておいて、
 「有栖川有栖が読めない」とか、「宮部みゆきが読めない」とか、日本語としてあまり使いませんよね、といいたかったのです。赤川次郎でもいいか。
 京極夏彦だと、「難しく書くから読めん」というかもしれないけど、そうじゃない作家で、例えば意味がわからなくて読み進められなかったとしても、「この作風は合わない」とかっていうよなと。
 日本語だと、作者の意図がわからずに面白くなかったと感じても、「わかりやすく書け」と思って気にしないのに、英語だと、誤読じゃないかとか、英語力不足かと考えてしまうのはなぜだろうか、と、書きたかったのです。
 途中で投げた作家が、amazonで評判がいいと、つい「ここがこうで、こうだから面白くなかった」とわざわざ考えてしまったこともありました。
 多分、勉強モードになるのだろうなと、今は思います。

 そういえば京極夏彦の最新刊「邪魅の雫」の作中で、作者の意図なんてものはわからないんだから、読者がどう受け取ろうとそれが正しい。誤読なんてものはない、みたいな論議がありました。
 
 


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8619. Re: 訂正

お名前: まつかわ1971 http://blog.alc.co.jp/d/3302216
投稿日: 2006/10/18(20:12)

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きちんと考えをまとめることがまだできていないので、誤解されてしまうかもしれませんが、
それを恐れずに書いてみることにしました。
僕が柊さんの言葉を読んで思い出したのは、少なくとも今の僕のレベルでは、YL以外の作品の
評価ができないことに対するはがゆさです。
やさしく読める/難しくて手がつけられない。このふたつ以外にも、
「この文体は自分の肌にあう」とか「難しい言葉を連ねてはいても、言いたいことはありきたり」
とか、日本語で小説を読む時にはある程度わかる相性というか、味わいというか、
そういったものが、理解できないでいるということ。
僕が小説をさかんに読むようになったのは、中学の後半のころからでしょうか。
それから20年ちかくたって、今の僕があるわけです。とてつもなく専門的な議論とか、
早口の若者言葉とかで理解できないことはあったとしても、日常生活で日本語で不自由を感じる
ことは、まずありません。その日本語の力があっての、今の文章を読む感性みたいなものが
あるんですよね。
多読を始めて、1年半になります。けっこうたくさん読んできたつもりですが、
英語のロックの歌詞はいまだ聞き取れず、英語で日常会話なんてしたことありません。
日本語で20年かかってやってきたことを、ふだん使う必要もない英語で実現するのは、
とても大変だと思います。もし、僕が60歳になったころ、「ライ麦畑」が英語で
読めるようになったとして、15歳のときに翻訳で感じたドキドキ感を僕の感性は
15のときそのままで味わうことはできないでしょう。気がついた今飛び込むしかない。
さきのばしにしていたら、ますます手遅れになってしまう。
あえて、僕たちはそれをはじめるわけで、しかもそれが苦行ではないかたちで、
つづけられるわけで。
きっと柊さんも日本語で読書するときの文章やストーリーを味わう感性を、
YLだけでははかれない英語の味わいみたいなものを、
つかめないのがつらいのではないでしょうか。
自分の悩みに、勝手にひきずりこんでしまって、すみません。


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8626. Re: 文章の感性(長文です)

お名前: 柊
投稿日: 2006/10/19(17:08)

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 まつかわ1971さん、こんにちは。柊(ひいらぎ)です

〉きちんと考えをまとめることがまだできていないので、誤解されてしまうかもしれませんが、
〉それを恐れずに書いてみることにしました。

 その勇気を見習いたいです。

〉僕が柊さんの言葉を読んで思い出したのは、少なくとも今の僕のレベルでは、YL以外の作品の
〉評価ができないことに対するはがゆさです。
〉やさしく読める/難しくて手がつけられない。このふたつ以外にも、
〉「この文体は自分の肌にあう」とか「難しい言葉を連ねてはいても、言いたいことはありきたり」
〉とか、日本語で小説を読む時にはある程度わかる相性というか、味わいというか、
〉そういったものが、理解できないでいるということ。
〉僕が小説をさかんに読むようになったのは、中学の後半のころからでしょうか。
〉それから20年ちかくたって、今の僕があるわけです。とてつもなく専門的な議論とか、
〉早口の若者言葉とかで理解できないことはあったとしても、日常生活で日本語で不自由を感じる
〉ことは、まずありません。その日本語の力があっての、今の文章を読む感性みたいなものが
〉あるんですよね。

 そうですね。特に、よく読んでいる分野だと、これはこういう感じの本だなという匂いが、1,2ページでわかります。視覚じゃなく、嗅覚になっているという。
 英語にも美しい文章だとか、リズミカルな文章(これは少しわかりやすい)、ぶっきらぼうな文章、その他色々あるのでしょうが、よくわかりません。
 実は私の場合は、日本人的な英語も、不自然な英語も、文法的に間違っている英語も、あまり区別できていません。多読前にあまり読まなかったので、出会った回数が少ないのかもしれませんが。

〉多読を始めて、1年半になります。けっこうたくさん読んできたつもりですが、
〉英語のロックの歌詞はいまだ聞き取れず、英語で日常会話なんてしたことありません。

 私も、先日、野球の試合を見ていて、日本ハムが買ってヒルマン監督(アメリカ人。テキサス出身だそうです)が優勝インタビューに答えた時、何を言っているかさっぱりわかりませんでした。「しんじられなーい」はわかるんですが、もっとややこしい、英語で答える部分がさっぱりわからない。
 最近野球に興味を持ったので、英語のリスニングで一番聞き取りたいのは、こういう場合です。通訳の人が訳すまで、何秒かしか待たないわけですが、それがとてつもなく長く感じました。
 リスニング教材に比べると、ずいぶんゆっくりと喋っていた(考えながらだからでしょうか)のですが、意味がわからなかった。

〉日本語で20年かかってやってきたことを、ふだん使う必要もない英語で実現するのは、
〉とても大変だと思います。もし、僕が60歳になったころ、「ライ麦畑」が英語で
〉読めるようになったとして、15歳のときに翻訳で感じたドキドキ感を僕の感性は
〉15のときそのままで味わうことはできないでしょう。気がついた今飛び込むしかない。
〉さきのばしにしていたら、ますます手遅れになってしまう。

 60歳で15歳の感性を書ける人もいるでしょうが、読む方は確かにわかりません。そしてまた、この本を15歳の時に読んでいたら、自分のその後の考えも変わったはず、と思ったら、60歳では遅く感じるでしょうね。
 15歳の時に読んでおいて、60歳になって、感じ方の違いを楽しむこともできないし。
 60歳になってからでも、原書が読める人も少ないのでしょうが、この掲示板にいると、忘れますね。

〉あえて、僕たちはそれをはじめるわけで、しかもそれが苦行ではないかたちで、
〉つづけられるわけで。
〉きっと柊さんも日本語で読書するときの文章やストーリーを味わう感性を、
〉YLだけでははかれない英語の味わいみたいなものを、
〉つかめないのがつらいのではないでしょうか。
〉自分の悩みに、勝手にひきずりこんでしまって、すみません。

 いえ、全く同じではないにしろ、そういうことは感じます。ので、ひきずりこまれたわけではないです。
 ストーリーはまだ、こうでこうだからと日本語の頭に戻って考えることができますが(理解度が高い場合に限る)、文章はそうはいかない。
 デイヴィッド・ハンドラー(翻訳も原書もすぐに絶版になる、マニアックな小説家)は、YL以外の部分で読みにくいという作家の代表格だと思います。なので、まだチャレンジしては失敗していますが。電話でしばらく喋って、唐突に「こんにちは」なんて言うから、英文の意味がわかっても、台詞の意味や場面の意味がわからないことが多そうです。

 英語で例を出すのは難しいので、日本語でたとえてみます。

 例えば、「非常に」と「とても」は違うし、「ひじょうに」とひらがなで書いても違う。「ひっじょーに」なんて書いたらさらに違ってくる。
 あるいは、酒井先生のよく使う「おめでっとー」も「おめでとう」とは違う印象を受けます。
 自分でこう書いていて、硬い印象を与える文章だなと、文章のあれこれについてほとんど分析せずに思ったりしますが、それも、色々な文章を読んでいないと身に付かないものでしょうし。
 とっさに思いついたのがこれだったので、京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)」から引用しますが、

 「能く知っているさ。知っているけど解らないんだ」

 などという文章は、まず、頭の部分が「よく」と読むことからして難しいですが、これはその直前でふりがなを振っているからいいとして、知っているけど解らないというのも、なかなかめんどくさい言い回しですし、同じ本の中でも「しっている」に「識」という字を当てて「識っている」にしていることもあって、その使い分けは、日本語がどうこうというより、同じ作者の本を色々読むしかない。(どこかで聞きましたね、こういう話)
 そして、京極夏彦の文章は漢字の使い分け(どうも一般的な現代日本語とは違う)を含めて全て一貫性があるので、他の人の文章も読まないと、これがどういう印象を与えるのかも、現代日本では珍しい書き方であるということさえ、気づかないと思います。

 京極夏彦ほど飛躍しなくても、同じ作家の本を何冊も読めば(場合によっては一冊でも)、この人はこの言葉に特別な意味を込めているというのは、自然にわかることですよね。
 もしかして自分が知らない意味があるのかと思って辞書を引いても載っていない。多分、その人の頭の中の辞書にだけ搭載されている意味があるのでしょう。
 大塚英志(マンガの原作だけでなく、小説や評論も書いています)の文章は、難しい言葉を極力使わないようにしていると感じますが、それでも、「屈託がない」という言葉については、独特の意味を持たせているのを感じます。
 これだと言葉の意味というより、どういう思想(感情でもいいかも)かということが分からないと、完全にはわかりませんが。
 あるいは、有栖川有栖は「上京」と書かずに「東京出張」と書きますが、これは大阪生まれで、「みやこ」と言えば京都だから、だそうですし。

 ここがどうしてもこの言葉じゃなきゃいけない。類義語では駄目で、この言葉でないといけない必然性がある、というところまで、英語の小説でわかったら、本望ですねえ。
 ただし、そこで成仏しないで、その後も楽しみ続けたいですけど。

 長文の上に、マニアックな引用で考えてしまって、失礼しました。


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