[掲示板: 100万語超 報告・交流 -- 最新メッセージID: 13567 // 時刻: 2024/11/23(17:56)]
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1436. Re: う・・ん。・・・もう少し早く・・君と・・出会えてたら・・僕は・・・ (優しい微笑を目尻に浮かべて)
お名前: 酒井@SSS
投稿日: 2004/4/3(00:07)
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秋男さん、たこ焼きさん、こんばんは!
〉〉 う〜む。やっぱりおもしろい話になってきた。(笑)
〉〉 西欧では、人々はお互い直接に結びつかず、媒介するひとつの
「点」がある。
〉〉 日本では、人々は直接に結びつき、「点」ではない「場」
みたいなものが、
〉〉 媒介するのではなく包み込むようなかっこうになる。
〉〉 ということでしょうか。
〉なるほど!
〉西欧の「点」のイメージ! これには深い感銘をうけましたー。
〉超越的な「点」を通して、他人との関係を結ぶのですね。
〉日本の「場」のイメージについても、確かにそうだな、と思いました。
〉この「包み込む」という表現が、要ですね。
〉包み込まれて、全体が一体となっているので、
〉他者と直接に結びついているように感じる・・・
〉ということでしょうか。
〉秋男さんが感じていることとおそらくは同様のことを、
〉たこ焼的に言えば、
〉「日本では、自分と他人との境界があいまい」
〉といった表現になります。
〉自分は他人であり、他人は自分なのです。
〉つまりは、自分を自分と感じるように、
〉他者を自分と感じ、皆が集まった全体をも自分と感じることができ、
〉逆に、自分の中に、全体を感じることもできるのです。
〉秋男さんの「包み込む」の正体は、
〉「自他の区別のあいまいさ」なのかもしれませんね。
さんせー! 似たようなことを「どうして英語が使えない?」に
書いています。
もしお持ちでなければ本屋で(いまはもうなかなか見つからない
かな?)立ち読みを!200ページから203ページあたりです。
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1440. Re: 「どうして英語が使えない?」買ってきましたー!
お名前: たこ焼
投稿日: 2004/4/3(21:53)
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酒井先生、こんばんはー。たこ焼です。 〉さんせー! 似たようなことを「どうして英語が使えない?」に 〉書いています。 さっそく今朝、書店を巡って、 「どうして?」を手に入れてきましたー。 多読を始めた頃、「快読」を読んだ直後に、 「どうして?」も購入しようかとも思ったのです。しかし、 あの頃は、少しでもお金があったら、即GR!でしたので、(笑) 「いつか、もっと資金に余裕があるときに買おう」と 購入を延期に・・・そしてそのままズルズルと今まで忘れてましたー。 すいませんです。(ちょっと汗) まだ、ちらちらとしか拝見していないのですが、 ひとこと感想を述べさせてもらうと、 「あー、どうしてもっと早く読まなかったのか!」 です。 とても痛快で面白いですー。あっ、でも、この本の痛快さは、 ある程度多読が進んでからでないと味わえないかもしれないですね。 そうそう、 「孤立した文の無味乾燥さ」という表現で、 「言葉の最小単位は物語」に通じる考えも ちゃーんと書いておられたのですね。(大汗) また、 「学校英語という名の人工言語」での、「人工言語」という表現や 「コンピューター言語」との対比にはすごく驚きました。 大納得! 感動です。 〉もしお持ちでなければ本屋で(いまはもうなかなか見つからない 〉かな?)立ち読みを!200ページから203ページあたりです。 Iは「わたし」か?・・・の項目ですね。 秋男さんやたこ焼が書いたことと同じようなことが また別の表現で書かれてあり、とても興味深いです。 確かに、「自分の捉え方」の英語・日本語での違い、ですね。 秋男さんが「包み込む」、 たこ焼が「自他の区別のあいまいさ」などと表現してますが、 酒井先生の表現も、なるほど!です。 たこ焼なりに先生の表現を要約させてもらうと、 『日本語の「自分」とは自分そのものではなく、 他者との係わりの上に乗っている「関係性」のこと』 かなと思いました。 『縦につながる関係性。その無数にある関係性の収束点が「天皇」である』 との先生の見方には、そうか、そのようにも見えるかな、と思いました。 たこ焼の見方は、こうです。 『皆が集まった全体をも自分と感じるとき、 そのこころの中の「全体」を、外在化したイメージとして象徴するのが「天皇」』。 そしてこのパターンが、日本における「権威」のあり方なんだと思います。 また、 「共通するところのある人と話すときも、 実は自分と話しているのかもしれないのです。」 との文章を発見し、とても嬉しくなりました。 実は、最近のたこ焼は、この辺についていろいろと考えているのです。 文中の「自分と話している」は、日本語と英語を区別する とても重要な視点だと思います。 英語は「discussion」を得意とする言葉で、 日本語は「対話」を得意とする言葉のように思うのですが、 日本語の「対話」では、他者と話すのではなく、 実のところ「自分と話している」のではないでしょうか。 つまり、 「自分のこころの中の他者」「自分とは明確な区別が付かないような他者」 と話しているように感じることがあります。 ではでは〜♪