[掲示板: 〈過去ログ〉本のこと何でも -- 最新メッセージID: 3237 // 時刻: 2024/11/23(20:58)]
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/14(19:46)
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杏樹"さん、お待たせしました。ハムレット談義の続きと行きましょう。
〉〉Hamlet談義に花が咲いていますね。質・量ともにShakespeare作品の最高峰なので、これから読む人には喜劇か、悲劇でも Macbeth や Julius Caesar など短めの作品から入ることをお薦めします。Hamletに登場する大臣もCaesarを演じたことがあるという設定になっています。
〉それは確かにそうです。ほかの作品の方がわかりやすいですね。いきなり「ハムレット」はディープすぎるかもしれません。
そうそう。舞台での上演や映画を観たり、Penguin Readers や Black Cat の副読本を読むなど、楽しく Hamlet に接近する方法はありますが、あれが Shakespear の典型的な作品だと思ってしまうのはまずいと思うんです。
〉〉今でも、原書の頁を開いて、台詞を朗読することが、年に1回ぐらいはあります。自分の解釈で好きなように読むのも楽しいので、とりあえず日本版のDVDが出るまで待てると思います。
〉原書朗読…すごいですねー。
Shakespeare は1巻本の全集 (Complete Works) がいくつかの出版社から出ており、ハードカバーの割に値段はそんなに高くないです。1冊入手して本棚に飾っておけば、原文を参照する機会も増えます。
〉〉それにしても、現代戯曲の話から Shakespeare そして Hamlet へと話がどんどん進展していくのは、やはり作品にそういう魅力があるからなのでしょうね。常識はずれに長くて、上演は大変なはずですが。
〉上演回数はものすごく多いです。いくつ見たやら…。
〉たいてい演出サイドで編集されます。その編集の仕方がまたどういう風にするか、というのが見所でもありまして。くどいセリフも多いので、削りがいもあります。
なるほど。難問に対する簡単な答ですね。
〉短めのものになりますと、よくあるのがフォーティンブラスをカットしてしまうこと。ホントに登場しないんですよ。最後は死屍累々でそのまま幕を降ろします。
当時の劇場には緞帳が無かったので、悲劇のばあい、死体、というか死んだふりをしている出演者をかついで退場する人物が必要です。Hamlet は死者の数が多く、身分も高いので丁重に運び出す必要があります。そのためにフォーティンブラスとその軍隊を登場させたという仮説もありますね。
〉いくつかそういうのを見たので、「ハムレット」を見るときは「フォーティンブラスは登場するか?」とドキドキしながら見るようになってしまいました。ちなみにローレンス・オリビエの映画にも登場しません。メル・ギブソンも映画でハムレットをやってますが、フォーティンブラスは登場しません。
たしかに、王子の死で終われば、話としてはまとまりが良いんですが . . . .
〉ハムレットもそうですが、シェイクスピア作品には本人による「定本」というものがなく、いくつかのバージョンがあって、それを再構成して現在のテキストが作られました。ですからもともとシェイクスピアがどんな本を書いて最初に上演したかわかりませんし、再演して書き直したかもしれませんし、かならずしもテキストどおりに上演することが「正解」とは言えない訳です。
学問的、理論的にそう考えることが可能だとしても、作品によっては、実際に読んでみて削るのは惜しいと感じる人もいます。僕はブラナーさんの Hamlet をまだ観ていませんが、たしか4時間ぐらいかかるんですよね。4時間かかっても、できればカットせずにやりたいと彼も考えたのでしょう。BBCのTV放送用に製作されたデレク・ジャコビさんのHamletも長かったように記憶しています。
Penguinなどから出ている原書は、読む戯曲として楽しめるように字の大きさや配列を工夫してあり、難しい文章のとばし読みに慣れている人であれば、中編の物語詩か小説でも読むような感じでHamletを読むことができます。そうやって読んでみると、どの文章も良く書けており、削るのは惜しいと僕も感じてしまいます。(そう思い込んでいるだけかも知れませんが。)
〉自由にテキストを編集してさまざまな上演のしかたがあるのもまたシェイクスピアの魅力ですが、「ハムレット」は特にその傾向が強いと言えるでしょう。(でもフォーティンブラスはカットしないでほしい)
変更しても原作者は怒らないし、現代の劇場にふさわしい形に変更することが望ましいばあいもあるでしょうね。Hamletはとにかく長いので、場所と時間によって生じるお金を考えると、削らざるを得ないばあいが殆どだと思います。
それから、死んだ王子を王として埋葬するようにフォーティンブラスは命令しますね。歴史や王位継承に関するシェイクスピアの考えがあの箇所に伺えるような気がします。墓石に王と刻まれ、後世の歴史には王として記録してある人物でも、本当は王子として死んだ例もあるのでしょうか。
〉ところで「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という芝居はご存知ですか?(また話を広げようとする…)
はい。Hamletを素材にした現代戯曲として、80年代には有名でした。読もうかなと思っていたころ、作者 Tom Stoppard さんは脚本家として映画界への進出を始めていました。彼が脚本を担当した戦争映画 Empire of the Sun (スピルバーグ監督) が公開されたので観に行ったんですが、今イチ面白いと思えず、しばらくはStoppard作品への熱がさめていました。そのあいだに「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」が映画化されたのは知りませんでした。
その後、Stoppard さんが脚本を担当した Shakespeare in Love が面白かったので興味が再燃しつつあります。近いうちに読むかも知れません。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/16(02:10)
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉杏樹"さん、お待たせしました。ハムレット談義の続きと行きましょう。
こんなに引っ張っていいんでしょうか?
〉Shakespeare は1巻本の全集 (Complete Works) がいくつかの出版社から出ており、ハードカバーの割に値段はそんなに高くないです。1冊入手して本棚に飾っておけば、原文を参照する機会も増えます。
そうですね。私もハムレット1冊ぐらい飾っておきましょうか。いつかは…という気持ちはあったので。
〉〉短めのものになりますと、よくあるのがフォーティンブラスをカットしてしまうこと。ホントに登場しないんですよ。最後は死屍累々でそのまま幕を降ろします。
〉当時の劇場には緞帳が無かったので、悲劇のばあい、死体、というか死んだふりをしている出演者をかついで退場する人物が必要です。Hamlet は死者の数が多く、身分も高いので丁重に運び出す必要があります。そのためにフォーティンブラスとその軍隊を登場させたという仮説もありますね。
そうなんですかー。
〉〉いくつかそういうのを見たので、「ハムレット」を見るときは「フォーティンブラスは登場するか?」とドキドキしながら見るようになってしまいました。ちなみにローレンス・オリビエの映画にも登場しません。メル・ギブソンも映画でハムレットをやってますが、フォーティンブラスは登場しません。
〉たしかに、王子の死で終われば、話としてはまとまりが良いんですが . . . .
いえいえ、フォーティンブラスは必要です。
ハムレットはフォーティンブラスをデンマークの後継者に指定し、フォーティンブラスはハムレットを丁重に埋葬する、ということでおさまりがつくんです。「みんな死んじゃったよー」という状態で幕を降ろしてしまったら…まあそれも一種の効果的な終わり方かもしれませんが、中途半端な気がします。
〉〉ハムレットもそうですが、シェイクスピア作品には本人による「定本」というものがなく、いくつかのバージョンがあって、それを再構成して現在のテキストが作られました。ですからもともとシェイクスピアがどんな本を書いて最初に上演したかわかりませんし、再演して書き直したかもしれませんし、かならずしもテキストどおりに上演することが「正解」とは言えない訳です。
〉学問的、理論的にそう考えることが可能だとしても、作品によっては、実際に読んでみて削るのは惜しいと感じる人もいます。僕はブラナーさんの Hamlet をまだ観ていませんが、たしか4時間ぐらいかかるんですよね。4時間かかっても、できればカットせずにやりたいと彼も考えたのでしょう。BBCのTV放送用に製作されたデレク・ジャコビさんのHamletも長かったように記憶しています。
ブラナーはやりたいことを全部詰め込んだんでしょうね。
編集するのは単に「削る」のではなく、演出家がどんなハムレットを見せたいのか、という表現の手段でもあります。何を見せたいか、見せたいものを強調するためにはどういう演出をすればいいか…そういったことを総合的に考えて取捨選択をするのです。単に短くすればいい、ってものではなくて。
また、どんなにすばらしい「文章」でも、セリフとして人間の口から出ると、どうも自然な言葉になりにくい文章がシェイクスピアにはよくあります。それをより自然な人間の感情から出た言葉に聞こえるようにする、という場合もあります。シェイクスピアのセリフはかなり芝居がかった、見栄を切るような演技の方が合うんですが、そういう舞台ばかりでは演出も限られてきますので。
〉それから、死んだ王子を王として埋葬するようにフォーティンブラスは命令しますね。歴史や王位継承に関するシェイクスピアの考えがあの箇所に伺えるような気がします。墓石に王と刻まれ、後世の歴史には王として記録してある人物でも、本当は王子として死んだ例もあるのでしょうか。
日本語訳ですが、本を見てみましたが「王として埋葬する」とは書いていませんが…。
「彼こそは時を得ればたぐいまれな名君ともなったであろうに。彼の死を弔うには、軍楽を奏し、礼砲を放って、その悲しみを広く世に知らしめるのだ」
〉〉ところで「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という芝居はご存知ですか?(また話を広げようとする…)
〉はい。Hamletを素材にした現代戯曲として、80年代には有名でした。読もうかなと思っていたころ、作者 Tom Stoppard さんは脚本家として映画界への進出を始めていました。彼が脚本を担当した戦争映画 Empire of the Sun (スピルバーグ監督) が公開されたので観に行ったんですが、今イチ面白いと思えず、しばらくはStoppard作品への熱がさめていました。そのあいだに「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」が映画化されたのは知りませんでした。
「太陽の帝国」もストッパードなんですか?これは確かにスカでしたねー。
「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」も映画になってたんですか。私は舞台を2回見ました。本編ではあっさり殺されてしまう吹けば飛ぶような脇役をわざわざ取り上げて芝居にしてしまうところもまたシェイクスピアの、そして「ハムレット」の魔力ではないかと。
〉その後、Stoppard さんが脚本を担当した Shakespeare in Love が面白かったので興味が再燃しつつあります。近いうちに読むかも知れません。
私は舞台なら見たいですが、戯曲は日本語でもあまり読みたいと思いません。戯曲のまま読むと退屈そうなので…。一種の不条理劇みたいなものかもしれません。ローゼンクランツとギルデンスターンが二人でうだうだ、だらだらしゃべってる芝居です。最後はもちろん、いきなり二人にハムレットのすり替えた命令書の執行が…。
さて、3月に兵庫県立芸術文化センターで「ハムレット」をやるので見に行こうと思っています。モスクワのユーゴザーパド劇場の演出家、ワレリー・ベリャーコヴィチの演出で、ピッコロ劇団を中心にしたキャストです。ピッコロ劇団は兵庫県の県立劇団です。今度はどんな「ハムレット」に出会えるか楽しみです。
それでは…。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/16(08:56)
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杏樹さん、おはようございます。
〉こんなに引っ張っていいんでしょうか?
あまり長くなってもいけませんね。"Let us haste to hear it" というところでしょうか(Fortinbras)。
全体として、杏樹さんは Hamlet を、日常語で演じられる歴史劇のように捉えてらっしゃる印象を受けました。勿論、そういう上演のしかたがあっても良いし、20世紀以降の上演のしかたとしては、その方が自然なのかも知れません。
僕が知っている Hamlet は、せりふの殆どが韻文で書かれており、舞台での上演を想定して書かれた作品であるとしても、日本の例で言えば能や歌舞伎に、西洋で馴染みの例を挙げればオペラのような作品です。どういう上演がた望ましいかは違ってきます。
ハムレットがフォーティンブラスをデンマークの後継者に指定し、フォーティンブラスはハムレットを丁重に埋葬する、ということでおさまりがつくという歴史観は分かります。映画だったら、それを文字だけで表示するという方法もありますね。
〉編集するのは単に「削る」のではなく、演出家がどんなハムレットを見せたいのか、という表現の手段でもあります。何を見せたいか、見せたいものを強調するためにはどういう演出をすればいいか…そういったことを総合的に考えて取捨選択をするのです。単に短くすればいい、ってものではなくて。
実際には、必要なはずのフォーティンブラスを削ってしまう例もあり、それが定番的な解釈とされていたこともあるようですね。総合的に考えた取捨選択の方が望ましいのは確かです。
〉また、どんなにすばらしい「文章」でも、セリフとして人間の口から出ると、どうも自然な言葉になりにくい文章がシェイクスピアにはよくあります。それをより自然な人間の感情から出た言葉に聞こえるようにする、という場合もあります。シェイクスピアのセリフはかなり芝居がかった、見栄を切るような演技の方が合うんですが、そういう舞台ばかりでは演出も限られてきますので。
Hamletの原文に限って言えば、どの台詞も舞台で朗々と演じることを想定して書かれており、芝居がかっており、見栄を切るような演技が合います。それは古典劇として自然なことだと思います。勿論、そういう範囲での演出は限られてきます。
オペラの音楽をポップス風に編曲し、ミュージカルとして上演するのと同じように、現代語の散文劇として上演するのであれば、おっしゃるような再構成が必要になるし、そういう方法ならではの面白さもあります。「モーツァルトのオペラはブロードウェイでの上演に適さない」と主張する人がいても、僕は反対しません。
フォーティンブラスの台詞ですが、たしかに「王として埋葬する」とは書いてありません。クローディアスより丁重に扱うとすれば、それは王として扱うという意味に解釈するのが自然だという解釈のレベルです。
〉「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」も映画になってたんですか。私は舞台を2回見ました。本編ではあっさり殺されてしまう吹けば飛ぶような脇役をわざわざ取り上げて芝居にしてしまうところもまたシェイクスピアの、そして「ハムレット」の魔力ではないかと。
そうですね。月並みな結論になってしまいますが、これは否定できません。
〉私は舞台なら見たいですが、戯曲は日本語でもあまり読みたいと思いません。戯曲のまま読むと退屈そうなので…。一種の不条理劇みたいなものかもしれません。ローゼンクランツとギルデンスターンが二人でうだうだ、だらだらしゃべってる芝居です。最後はもちろん、いきなり二人にハムレットのすり替えた命令書の執行が…。
僕も Rosencrantz and Guildenstern Are Dead を日本語で読むつもりはありません。(もともと英語の作品を日本語で読む習慣はないので。) 何度も上演されたことのある戯曲であれば、原文が退屈ということはまずありません。ただし、英語の現代戯曲を音読することに慣れていて、Hamletの原文もある程度は知っている読者に限られるでしょうね。
〉さて、3月に兵庫県立芸術文化センターで「ハムレット」をやるので見に行こうと思っています。モスクワのユーゴザーパド劇場の演出家、ワレリー・ベリャーコヴィチの演出で、ピッコロ劇団を中心にしたキャストです。ピッコロ劇団は兵庫県の県立劇団です。今度はどんな「ハムレット」に出会えるか楽しみです。
またもや、やめられない展開になってきましたが、別スレッドにした方が良いかも知れません。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/19(01:06)
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉全体として、杏樹さんは Hamlet を、日常語で演じられる歴史劇のように捉えてらっしゃる印象を受けました。勿論、そういう上演のしかたがあっても良いし、20世紀以降の上演のしかたとしては、その方が自然なのかも知れません。
私は単に「芝居」として見ているだけです。
Ryotasanは「文学」として見ている度合いが強いようですが。
〉Hamletの原文に限って言えば、どの台詞も舞台で朗々と演じることを想定して書かれており、芝居がかっており、見栄を切るような演技が合います。それは古典劇として自然なことだと思います。勿論、そういう範囲での演出は限られてきます。
〉オペラの音楽をポップス風に編曲し、ミュージカルとして上演するのと同じように、現代語の散文劇として上演するのであれば、おっしゃるような再構成が必要になるし、そういう方法ならではの面白さもあります。「モーツァルトのオペラはブロードウェイでの上演に適さない」と主張する人がいても、僕は反対しません。
オペラは楽譜がありますから、曲を大きく変えることはありません。演出として現代風の衣装やシュールなセットを使ったりして上演することはありますが。
ただ、シェイクスピアは「ハムレット」に限らず、他の芝居に比べてずっと自由な表現が出来るんです。例えばチェーホフなら当時のロシアの時代背景がないと成り立ちません。基本的な時代や国の設定があり、それを越えて上演するのは難しいのです。
しかしシェイクスピアはどんなに時代や国を越えた表現でも成り立つんです。それは時代や国にしばられない普遍的な人間の姿が、他の芝居よりもずっとはっきり表現されているからです。
「リチャード3世」のような実在の人物の芝居でも、歴史上の人物としてではなく、強いコンプレックスゆえに人を陥れてでものしあがろうとする野望を持った一人の男の成り上がりと破滅の物語、として見ることが出来るんです。
ただ、それでも現代の衣装で、現代の「自然」な口調で演じた「ハムレット」には少々無理がありました。現代の自然な言葉にはなりえなかったのです。しかしそれを逆手にとって、叫んだり、わめいたり、あばれたりなど大げさな表現をしたものはけっこうはまってました。
芝居のセリフは登場人物の心を表すものです。心から出た言葉としてセリフが口から出て、それを周りの人物が受けて反応して次のセリフになります。そうしたセリフやしぐさ、表情によって感情のやり取りが生まれ、登場人物の心情が変化していき、状況が変化していくのを感じられるのが芝居の面白さです。シェイクスピアは時代背景にこだわらないで演じられる分、登場人物の心情や性格がより強く感じられるお芝居になるんです。
〉またもや、やめられない展開になってきましたが、別スレッドにした方が良いかも知れません。
うーん、どうでしょう。そこまでずっと引っ張るつもりはないのですが…。今回もつい語ってしまいました。なんとか収まらないでしょうかね。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/19(09:09)
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おはようございます。長くなりましたが、杏樹さんの投稿は、僕にとっても、皆さんにとっても傾聴に値すると思うので、もう少し続けさせて下さい。
〉〉全体として、杏樹さんは Hamlet を、日常語で演じられる歴史劇のように捉えてらっしゃる印象を受けました。勿論、そういう上演のしかたがあっても良いし、20世紀以降の上演のしかたとしては、その方が自然なのかも知れません。
〉私は単に「芝居」として見ているだけです。
〉Ryotasanは「文学」として見ている度合いが強いようですが。
文学というか、学問としてシェイクスピアを研究する人も必要だし、娯楽として読書の対象とするのも面白いし、古典劇としての上演も時には必要だと思っています。勿論、今では現代劇としての上演の方が一般的になる方が自然だと思います。日本やロシアの時代劇として映画化された作品も迫力満点だし、オペラやミュージカルとしての上演もあった方が楽しいし、バレエとして上演される Romeo and Juliet も好きです。
〉〉Hamletの原文に限って言えば、どの台詞も舞台で朗々と演じることを想定して書かれており、芝居がかっており、見栄を切るような演技が合います。それは古典劇として自然なことだと思います。勿論、そういう範囲での演出は限られてきます。
〉〉オペラの音楽をポップス風に編曲し、ミュージカルとして上演するのと同じように、現代語の散文劇として上演するのであれば、おっしゃるような再構成が必要になるし、そういう方法ならではの面白さもあります。「モーツァルトのオペラはブロードウェイでの上演に適さない」と主張する人がいても、僕は反対しません。
〉オペラは楽譜がありますから、曲を大きく変えることはありません。演出として現代風の衣装やシュールなセットを使ったりして上演することはありますが。
原作を大きく変更せずに上演して成功した例もありますよね。僕が高校生の時に観た A Midsummer Night's Dream のミュージカル版は、台詞と歌詞が現代日本語で、衣装も現代風でしたが、原作からの省略はほとんど無かったです。(原作を読んだのは何年かたってからですが。) 忠実な翻訳と言っても良いくらいでした。それでも違和感は感じませんでした。
それから設定を現代風にした映画の Romeo + Juliet は御存知の方も多いでしょうね。あれも言葉の部分はほとんど原作どおりでした。短くしたり再構成したりはしていなかったと思います。
〉ただ、シェイクスピアは「ハムレット」に限らず、他の芝居に比べてずっと自由な表現が出来るんです。例えばチェーホフなら当時のロシアの時代背景がないと成り立ちません。基本的な時代や国の設定があり、それを越えて上演するのは難しいのです。
僕は観ていないんですが、チェーホフの戯曲を日本の話に翻案した上演は何度も行なわれて来たように記憶しています。失敗と判断するには上演回数が多いように思うんですが (^-^;)。
ヘンリク・イプセンの戯曲をアーサー・ミラーが英語文化圏の話に翻案した作品もありますね。僕はTV映画になったのを観ただけですが、失敗作ではなかったと思います。
〉しかしシェイクスピアはどんなに時代や国を越えた表現でも成り立つんです。それは時代や国にしばられない普遍的な人間の姿が、他の芝居よりもずっとはっきり表現されているからです。
うーん。シェイクスピアのどんな作品でもそうなんでしょうか? イタリアものは、ラテン的、それに近い雰囲気の設定に限定されると思うんですが。
〉「リチャード3世」のような実在の人物の芝居でも、歴史上の人物としてではなく、強いコンプレックスゆえに人を陥れてでものしあがろうとする野望を持った一人の男の成り上がりと破滅の物語、として見ることが出来るんです。
そうですね。僕は観ていませんが、日本の時代劇風にした上演もありましたよね。現代に設定した演出もあるのでしょうか? 実業家や政治家の話にしたらどんな感じでしょうね。
それから、Measure for Measure は、そのまま日本の時代劇にできると思います。公爵は遠山の金さんで決まりです。
〉ただ、それでも現代の衣装で、現代の「自然」な口調で演じた「ハムレット」には少々無理がありました。現代の自然な言葉にはなりえなかったのです。しかしそれを逆手にとって、叫んだり、わめいたり、あばれたりなど大げさな表現をしたものはけっこうはまってました。
でしょー。不自然な点もあり、面白い点もある。満点はつけられないけれど、色々あって楽しいと思います。
〉芝居のセリフは登場人物の心を表すものです。心から出た言葉としてセリフが口から出て、それを周りの人物が受けて反応して次のセリフになります。そうしたセリフやしぐさ、表情によって感情のやり取りが生まれ、登場人物の心情が変化していき、状況が変化していくのを感じられるのが芝居の面白さです。シェイクスピアは時代背景にこだわらないで演じられる分、登場人物の心情や性格がより強く感じられるお芝居になるんです。
なるほど。もともと舞台装置がほとんど無い劇場で演じることを想定して書かれた作品であることも、翻案しやすい要素の一つだと思います。
〉〉またもや、やめられない展開になってきましたが、別スレッドにした方が良いかも知れません。
〉うーん、どうでしょう。そこまでずっと引っ張るつもりはないのですが…。今回もつい語ってしまいました。なんとか収まらないでしょうかね。
シェイクスピアと音楽について書きたいことが少しあるので、それは音に関する掲示板の方に書こうと思います。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/20(00:03)
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Ryotasanさん、こんにちは。
できるだけ短くまとめようと思うのですが…。
〉原作を大きく変更せずに上演して成功した例もありますよね。僕が高校生の時に観た A Midsummer Night's Dream のミュージカル版は、台詞と歌詞が現代日本語で、衣装も現代風でしたが、原作からの省略はほとんど無かったです。(原作を読んだのは何年かたってからですが。) 忠実な翻訳と言っても良いくらいでした。それでも違和感は感じませんでした。
ミュージカル版って誰がやったものでしょう?原作に忠実に…とは、うまくできていたようですね。
〉それから設定を現代風にした映画の Romeo + Juliet は御存知の方も多いでしょうね。あれも言葉の部分はほとんど原作どおりでした。短くしたり再構成したりはしていなかったと思います。
〉〉ただ、シェイクスピアは「ハムレット」に限らず、他の芝居に比べてずっと自由な表現が出来るんです。例えばチェーホフなら当時のロシアの時代背景がないと成り立ちません。基本的な時代や国の設定があり、それを越えて上演するのは難しいのです。
〉僕は観ていないんですが、チェーホフの戯曲を日本の話に翻案した上演は何度も行なわれて来たように記憶しています。失敗と判断するには上演回数が多いように思うんですが (^-^;)。
〉ヘンリク・イプセンの戯曲をアーサー・ミラーが英語文化圏の話に翻案した作品もありますね。僕はTV映画になったのを観ただけですが、失敗作ではなかったと思います。
それは「翻案」ですね。一つの物語を時代や場所を置き変えて作り直すのはよくあることです。
しかしシェイクスピアは「置き換え」なしでいろんな演じ方が出来るんです。「NINAGAWAマクベス」は日本ものの衣装で演じますが、固有名詞はそのままです。安土桃山時代を基調とした衣装でマクベスとダンカンとかバンクォーとかいう名前なんです。そしてバーナムの森は桜吹雪で、兵士が持つ木の枝は満開の桜。
〉〉しかしシェイクスピアはどんなに時代や国を越えた表現でも成り立つんです。それは時代や国にしばられない普遍的な人間の姿が、他の芝居よりもずっとはっきり表現されているからです。
〉うーん。シェイクスピアのどんな作品でもそうなんでしょうか? イタリアものは、ラテン的、それに近い雰囲気の設定に限定されると思うんですが。
もともとほとんどセットのない状態で行われた芝居ですから、場所を限定する雰囲気は薄いです。ラテン色があったとしても、それを強く出しても消してしまっても演じることができます。
シェイクスピアを見ると結局時代の雰囲気や背景を越えた人物像が印象に残ることが多いです。
リア王は口のうまい娘にコロっとだまされ、おべっかを言えない末の娘を誤解してしまいますが、そういうことは現代でも起こりうることです。二人の姉に締め出されて荒野をさまようリア王は、王らしく堂々と演じてもいいですが、私は「風よ吹け!雨よ降れ!」と叫んでいる様を見て「あほなおっちゃんやなあ〜、こんな娘にだまされて…」と思いました。
シェイクスピアは「翻案」しなくても、遠い国の遠い時代の出来事としてではなく、普遍的な人間の姿を見せてくれるんです。それをシンプルな衣装やセットで見せることも出来ますし、時代設定に沿ってリアルなセットを組んで当時の雰囲気たっぷりに演じることもできます。つまりそこが「なんでもあり」で上演できるということです。
〉シェイクスピアと音楽について書きたいことが少しあるので、それは音に関する掲示板の方に書こうと思います。
見ましたよー。またもや私にエサを撒いているような投稿。私、中世〜ルネサンスの音楽、好きなんです。
とりあえずこのへんにしておきます…。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/21(11:09)
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杏樹さん、もう少し教えて下さい。
『蜘蛛巣城』や West Side Story のような翻案も僕は好きなんですが、今回は翻訳上演の話に限定しますね。
さまざまな演出の可能性を探ることに大きな意味があることは僕も認めます。ケルト風のマクベスやリア王などを期待しています。その上で、もう少し教えていただきたいのです。
安土桃山風の衣装や舞台装置というのは、シェイクスピアと同時代の日本ということですね。古典劇に近い雰囲気で、日本語での上演に伴いやすい違和感も少なくできます。時代を超えた表現の例になるのでしょうか。
シェイクスピアのイタリアものを英語や日本語で上演した例で、ラテン色を消しても成功した例は、どのくらいあるのでしょうか? (翻案は別ですよ。)
リア王に権力者の老害を読み取ることはできるし、現代風の翻案では成功例もあるようですが、翻訳の範囲内で現代風の衣装や舞台装置という例はどのくらいあるのでしょうか。ロシア語版の映画は良くできてきましたが、現代風ではなかったです。
教えていただきたいことは以上ですが、お時間のあるときに、別のスレッドでも結構です。
A Midsummer Night's Dream のミュージカル版、僕が観たのは、すぎやまこういちさんの作曲による上演でした。劇の途中で緞帳をおろさず、街の中も森の中も同じ舞台装置に手作業で細工するだけという方法で、最終幕の劇中劇も省略せずに行なっていました。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/22(01:18)
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉杏樹さん、もう少し教えて下さい。
…終わらない…。
〉さまざまな演出の可能性を探ることに大きな意味があることは僕も認めます。ケルト風のマクベスやリア王などを期待しています。その上で、もう少し教えていただきたいのです。
そういえば「ケルト色」の舞台って見たことないような。
〉安土桃山風の衣装や舞台装置というのは、シェイクスピアと同時代の日本ということですね。古典劇に近い雰囲気で、日本語での上演に伴いやすい違和感も少なくできます。時代を超えた表現の例になるのでしょうか。
あまり具体的なセットではありませんでした。印象的なのは大きな仁王像が数体置いてある場面でした。あとは割合抽象的な空間が多かったです。マクベス夫人がチェロを弾いたりしてました。
蜷川幸雄は一時和風の演出を好んでいたようです。和風の「リア王」もありましたし、佐渡の能舞台をイメージしたセットを作って「テンペスト」をやったこともあります。
〉シェイクスピアのイタリアものを英語や日本語で上演した例で、ラテン色を消しても成功した例は、どのくらいあるのでしょうか? (翻案は別ですよ。)
ラテン系の演目とはどんなものを想定していますか?
むしろあまりラテン系を感じるような芝居は少ないように思いますが…。
シェイクスピアの芝居は現在では詳しい時代考証に基づいた衣装やリアルで具体的なセットを作るよりも、自由な発想でどこの国ともどこの時代とも言えないような衣装やセットで演じることが多いです。そういうところが時代や国の設定に縛られない自由な上演方法ができる、という意味です。
〉リア王に権力者の老害を読み取ることはできるし、現代風の翻案では成功例もあるようですが、翻訳の範囲内で現代風の衣装や舞台装置という例はどのくらいあるのでしょうか。ロシア語版の映画は良くできてきましたが、現代風ではなかったです。
上で述べましたように、シェイクスピアは具体的な時代設定を定めないで上演することが多く、はっきりと「現代に移した」コンセプトではなく単に衣装が現代風だった、と言うだけのことが多いです。ですからチラシやポスターでもわざわざ「現代に移して上演」とかいうことは書きません。
リア王なら全くセットのない舞台で、衣装も飾り気のないシンプルなもので上演したのを見たことがあります。だからこそいっそう「あほなおっちゃん」ぶりが際立って感じられました。
宝塚でやった「ロミオトジュリエット'99」も、特に現代という設定に移した上演を目指したわけではありませんが、衣装がほとんど現代的でした。ロミオはタイツではなくシャツにズボン。ジュリエットはお嬢さま風の白いドレスですが、ひざ丈。ジュリエットの母親はロングドレスですが、現代のカクテルドレスのような細いシルエットでしたし、マーキューシオは迷彩服で、ケンカにはやる若者のイメージを表していました。
藤原竜也の「ロミオとジュリエット」は金網やフェンスを使ったセットで現代風でした。最近ではタイツ姿のロミオって見ませんね。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの来日公演「オセロー」は、オセローが将軍であることからか、現代の軍隊の基地のような雰囲気でした。衣装も完全に現代ものもでした。登場人物はカーキ色の軍服を着てました。その中で違和感を感じさせないギリギリのところで「オセロー」を成り立たせていました。
そのあたりは俳優の力量も大きいです。演技に説得力があれば舞台に引き込まれて納得できてしまいます。
これが喜劇になるとますます奔放な演出が行われ、「なんでもあり」の状態になります。「夏の夜の夢」ではアセンスの若者たち、妖精の世界、村芝居の人たち、とイメージを分けるためにそれぞれ違うコンセプトの衣装を用意することもあります。
〉A Midsummer Night's Dream のミュージカル版、僕が観たのは、すぎやまこういちさんの作曲による上演でした。劇の途中で緞帳をおろさず、街の中も森の中も同じ舞台装置に手作業で細工するだけという方法で、最終幕の劇中劇も省略せずに行なっていました。
すぎやまこういちですか。ドラクエの…。そんなのがあったのなら見てみたかったです。
それではこのへんで…。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/23(08:02)
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杏樹さん、ご教示ありがとうございました。
僕がイタリアものと呼んでいるのは、イタリアを舞台にした Romeo and Juliet や Two Gentlemen of Verona、The Merchant of Venice、Much Ado about Nothing、Othelo などです。ほかにもまだあるかも知れません。
ただし Othelo は主人公が北アフリカ出身で、軍隊内や夫婦間の人間関係が中心になるので、イタリア風にしなくても成立するようですね。
The Tempest の登場人物はほとんどがイタリア人ですが、場所は妖精の住む孤島に設定してあり、ファンタジー色も強いので、あまりイタリア・ラテン風にしなくても成り立つようです。
和風の演出は日本語の台詞と相性が良いのだと思います。「テンペスト」は、すでに申し上げたように、ミラノの公爵で魔法使いでもある人物が追放され、孤島で暮らしているという設定ですが、能の様式を確立した世阿弥が佐渡へ流されたことと重ねて蜷川さんは演出したのかもしれませんね。(世阿弥は魔法使い?)
シェイクスピアの戯曲は、As You Like It など場所を特定できない例外もありますが、かなり多くは、地球上のどこが舞台なのか、人物たちがどこ出身なのかを、台詞に出てくる地名で分かるようになっています。観客を遠い世界へ連れて行ってくれるような疑似体験として上演されていたのではと僕は感じているんですが、最近の舞台上演では、そういう効果をあまり重視していない様ですね。
ありがとうございました。今後もいろいろ教えて下さい。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/25(00:04)
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉僕がイタリアものと呼んでいるのは、イタリアを舞台にした Romeo and Juliet や Two Gentlemen of Verona、The Merchant of Venice、Much Ado about Nothing、Othelo などです。ほかにもまだあるかも知れません。
シェイクスピアの場合、イタリアものと言っても実際のイタリアを描いたと言うより、単に地名として出てくるだけ程度の内容なので、イタリアらしさを強調してもしなくても成り立ちます。
〉和風の演出は日本語の台詞と相性が良いのだと思います。「テンペスト」は、すでに申し上げたように、ミラノの公爵で魔法使いでもある人物が追放され、孤島で暮らしているという設定ですが、能の様式を確立した世阿弥が佐渡へ流されたことと重ねて蜷川さんは演出したのかもしれませんね。(世阿弥は魔法使い?)
確かにそうですね。佐渡とプロスペローの流された孤島が重なります。世阿弥までは思いつきませんでしたが…。
〉シェイクスピアの戯曲は、As You Like It など場所を特定できない例外もありますが、かなり多くは、地球上のどこが舞台なのか、人物たちがどこ出身なのかを、台詞に出てくる地名で分かるようになっています。観客を遠い世界へ連れて行ってくれるような疑似体験として上演されていたのではと僕は感じているんですが、最近の舞台上演では、そういう効果をあまり重視していない様ですね。
地名は「出てくるだけ」で、その土地を特定するような、物語の場所を限定するような描写には乏しいです。シェイクスピアの時代はイタリアの地名が出てくるだけでエキゾチックなイメージがかきたてられたのかもしれません。
やはり最近の演出ではシェイクスピアが遠い世界のお話ではなく、普遍的な人間の感情や行動を描いていることを感じさせることが多いです。私はシェイクスピアにはこうした舞台で触れてきたためか、「古典」というイメージがあまりありません。シェイクスピアが古典とか、難しいとかいうのを聞くと「?」状態になります。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/25(07:50)
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杏樹さんの投稿は情報量が多く、考えさせる内容が多いですね。
〉シェイクスピアの場合、イタリアものと言っても実際のイタリアを描いたと言うより、単に地名として出てくるだけ程度の内容なので、イタリアらしさを強調してもしなくても成り立ちます。
すみませんが、これは理解できません。シェイクスピアの戯曲、原文ではイタリア以外の場所に設定された作品でも台詞はみんなイタリア風だし、明らかにイタリア人と分かる名前の人物は脳天気だったり血気盛んだったりして、芝居として成り立ちやすいと僕は感じています。(本当のイタリア風というより、英国の人から見てのイタリア風かもしれませんが。)
〉確かにそうですね。佐渡とプロスペローの流された孤島が重なります。世阿弥までは思いつきませんでしたが…。
能とシェイクスピアでは、ほかにも類似点がいくつかあります。能にも地名が織り込んであることが多いです。いくつかの作品に幽霊が登場することも似ています。
〉地名は「出てくるだけ」で、その土地を特定するような、物語の場所を限定するような描写には乏しいです。シェイクスピアの時代はイタリアの地名が出てくるだけでエキゾチックなイメージがかきたてられたのかもしれません。
すいませんがこれも理解できませんでした。A Midsummer Night's Dream であればアテネと近くの森で話が展開し、ギリシャ神話的な世界が期待されます。結果的にギリシャ神話というより妖精たちの世界になってしまったのは誤算かも知れませんが、異教的な世界を見せたかったのだと思います。
〉やはり最近の演出ではシェイクスピアが遠い世界のお話ではなく、普遍的な人間の感情や行動を描いていることを感じさせることが多いです。私はシェイクスピアにはこうした舞台で触れてきたためか、「古典」というイメージがあまりありません。シェイクスピアが古典とか、難しいとかいうのを聞くと「?」状態になります。
最近の日本で行なわれている演出で、日本の観客に理解しやすい側面を前面に出そうとするのは賛成です。いろいろな解釈があって、普遍性に注目する方法は必須だと思います。ほかに色々あっても良いと思いますが。
古典ときいて中世やルネサンスの音楽や、バッハをモーツァルトの音楽を連想する人もいます。モーツァルトの音楽を聴いて、分かりやすく楽しいと感じる人もいるし、実際に演奏してみると近代の作品より難しいと感じる人もいます。そういう古典の中にシェイクスピアを入れてもそんなにおかしくないと思います。
モーツァルトの例が典型的だと思いますが、古典にはある種の分かりやすさもあります。僕はシェイクスピアより前の時代の作品や、19世紀の英文学も読みましたが、複雑さという点では19世紀後半から20世紀初頭が最も難解で、時代が溯るほど理解しやすいと感じています。
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お名前: 杏樹
投稿日: 2007/1/27(00:30)
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉〉シェイクスピアの場合、イタリアものと言っても実際のイタリアを描いたと言うより、単に地名として出てくるだけ程度の内容なので、イタリアらしさを強調してもしなくても成り立ちます。
〉すみませんが、これは理解できません。シェイクスピアの戯曲、原文ではイタリア以外の場所に設定された作品でも台詞はみんなイタリア風だし、明らかにイタリア人と分かる名前の人物は脳天気だったり血気盛んだったりして、芝居として成り立ちやすいと僕は感じています。(本当のイタリア風というより、英国の人から見てのイタリア風かもしれませんが。)
私は日本語の舞台と戯曲しか知りませんので、原文のセリフがイタリア風になっているというところまではわかりません。
私が感じた範囲では、イタリアの情景を詳しく描写したり、当時のイタリアでないと成り立たない展開だったり、ということはあまりないように思いました。シェイクスピア自身もリアルなイタリアを書こうとしたわけではなく、イメージの世界のイタリアを書いたように思います。ですから、イタリアらしさを強調するように演じることも、場所を特定しないような演じ方をすることもできるわけです。
〉〉地名は「出てくるだけ」で、その土地を特定するような、物語の場所を限定するような描写には乏しいです。シェイクスピアの時代はイタリアの地名が出てくるだけでエキゾチックなイメージがかきたてられたのかもしれません。
〉すいませんがこれも理解できませんでした。A Midsummer Night's Dream であればアテネと近くの森で話が展開し、ギリシャ神話的な世界が期待されます。結果的にギリシャ神話というより妖精たちの世界になってしまったのは誤算かも知れませんが、異教的な世界を見せたかったのだと思います。
「アテネ」は日本語では英語読みの「アセンズ」と訳されるので、まずそこでギリシアのイメージが弱まってしまうんです。それに当時ギリシア風の服装ではなくシェイクスピアの時代の服装で演じられていたことも考えられます。アテネやギリシアと言いつつ、違う時代や場所の衣装やセットで演じても問題はありません。
ギリシア古典劇だと神託や神々は神聖で重要なものであり、それらが重要な意味を持ったり登場人物の行動や思想に大きく影響を与えますが、「夏の夜の夢」ではギリシアの神々や神託はそこまで大きな役割はしていません。
Ryotasanのおっしゃるとおり、妖精の世界になってしまったことに問題があるでしょう。しかもそれはケルト的な妖精なので、異教的世界と言ってもギリシア的世界とは離れてしまいました。
ボトムたちなどは、シェイクスピアの時代にイギリスの村でイベント的にお芝居をやっていた村人たちがいたことを髣髴させます。
〉〉やはり最近の演出ではシェイクスピアが遠い世界のお話ではなく、普遍的な人間の感情や行動を描いていることを感じさせることが多いです。私はシェイクスピアにはこうした舞台で触れてきたためか、「古典」というイメージがあまりありません。シェイクスピアが古典とか、難しいとかいうのを聞くと「?」状態になります。
〉古典ときいて中世やルネサンスの音楽や、バッハをモーツァルトの音楽を連想する人もいます。モーツァルトの音楽を聴いて、分かりやすく楽しいと感じる人もいるし、実際に演奏してみると近代の作品より難しいと感じる人もいます。そういう古典の中にシェイクスピアを入れてもそんなにおかしくないと思います。
そういう「古典」ならシェイクスピアもはいりますね。
〉モーツァルトの例が典型的だと思いますが、古典にはある種の分かりやすさもあります。僕はシェイクスピアより前の時代の作品や、19世紀の英文学も読みましたが、複雑さという点では19世紀後半から20世紀初頭が最も難解で、時代が溯るほど理解しやすいと感じています。
確かに…。時代が下るほど難解になったり理屈っぽくなったりということはありますね。不条理劇などは現代の産物ですし。
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お名前: Ryotasan
投稿日: 2007/1/27(08:56)
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杏樹さん、おはようございます。
長くなりましたが、多読をする人にとって何らかの参考になりそうな感じもあるので、もう少し続けます。
シェイクスピアの作品を日本語で上演するばあい、出演者も日本人ですから、無理にイタリア風の演出をするより、日本人から見て普遍的に思える要素を強調した方が、演劇としてうまくいくということのようですね。台本も、Athensを「アテネ」とせずに、あえて英語風にすることで、地方色を隠したりすることもあるのですね。
ただ、シェイクスピアのイタリア的、あるいはラテン的な側面は、わざわざ原文を読まなくも感じることはできます。
たとえば Romeo and Juliet です。この作品の graded reader で表紙の写真にも使われている有名な映画の監督はイタリア人で、音楽を担当した作曲家もイタリア人です。主題曲もどことなくイタリア風でした。
90年代になってこの戯曲はまた映画化され、今度はメキシコで撮影されたので、全体にラテン風の雰囲気がみなぎっていました。冗談ですが、ロミオを演じている俳優さんの名前も、まるでイタリア人の様な名前でした。
ほかにも、映画化にあたって、イタリアで撮影された作品はいくつかあるようです。
イタリアから遠い北欧を舞台にした Hamlet でさえ、最初に登場する人たちはイタリア人のようです。その中の一人は最後まで登場して、事件の目撃者となります。イングランドの観客たちは、イタリア人に案内されてデンマークへ旅するのです。
又、僕が注目しているイタリア風とかギリシャ風の要素は、本当のイタリア風やギリシャ風と言うより、当時の英国人から見た範囲のギリシャ風やイタリア風であることも事実です。アテネの市民社会を描くつもりで、イングランドの村人たちの素人演劇になってしまったり、神々を描くつもりで妖精たちの話になっています。マクベスほどケルト的ではないと思いますが、ウェールズやアイルランドの話のように演出してもおかしくはないでしょうね。(ただ、ロンドンの近くという設定では難しいかもしれません。)
僕たちは東京や大阪のような大都市から遠いところに住んでいるので、生の舞台を観る機会は少ないです。演劇鑑賞会も、個人では入会できません。東京まで芝居を見に行くとすれば1日がかり、あるいは泊まりがけということになり、劇場は観光コースのようなものです。
シェイクスピア時代にも、僕たちのようなお上りさんたちがロンドンの劇場で芝居を観たのかも知れません。せっかく国際都市まで来たんだから、芝居も長いのを観たいとか思ったかも知れません。
これは、新幹線や高速道路を利用して「東京」ディズニーランドへ行った人が、ヨーロッパ風の城や、ミシシッピ川の蒸気船を真似た観光船や、ニューオーリンズ風のジャズを演奏する楽士さんたちを目の当たりにする体験と似たようなものかもしれません。
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Ryotasanさん、こんにちは。
〉長くなりましたが、多読をする人にとって何らかの参考になりそうな感じもあるので、もう少し続けます。
すでに開き直ってたりして…。時々あるんです、某aさんと歴史の話を始めたときとか、いつまでもレスをつけて、タイトルが縦になっていって…。
〉シェイクスピアの作品を日本語で上演するばあい、出演者も日本人ですから、無理にイタリア風の演出をするより、日本人から見て普遍的に思える要素を強調した方が、演劇としてうまくいくということのようですね。台本も、Athensを「アテネ」とせずに、あえて英語風にすることで、地方色を隠したりすることもあるのですね。
そういうことですね。
特に日本では蜷川幸雄が有名で、シェイクスピアをたくさん上演しており、いずれも原設定の舞台をほとんど無視して独自の世界を作っているので、日本の演劇界に与えた影響は大きいと思います。
また20世紀末ごろには東京のグローブ座で「グローブ座カンパニー」の公演がよく行われていまして、「カンパニー」と言っても劇団方式ではなくプロデュース方式ですが、おもしろい演出のシェイクスピアを上演していました。なにしろ名前の通りシェイクスピアの上演のために作られた劇場ですから、シェイクスピアの演じ方としてはこれも影響が大きかったと思います。
私は関西に来た公演しか見ていませんが、上杉祥三が全身緑に塗って妖精パックを演じて、舞台を引っ掻き回して死ぬほど笑わせてくれたことなどが印象に残っています。
〉ただ、シェイクスピアのイタリア的、あるいはラテン的な側面は、わざわざ原文を読まなくも感じることはできます。
…やっぱり戯曲を読むより舞台優先なので、演出に左右されてしまってるかもしれません。上でも書いたとおり、戯曲だけ読むと言うことはなくて、舞台を見て面白かった、よかった時に気が向いたら舞台を思い出しながら読んでるだけですので…。
〉たとえば Romeo and Juliet です。この作品の graded reader で表紙の写真にも使われている有名な映画の監督はイタリア人で、音楽を担当した作曲家もイタリア人です。主題曲もどことなくイタリア風でした。
ゼフィレッリ監督で、オリビア・ハッセーが出てた映画ですか?(GRは見てないので…)
私はこれが「ロミオとジュリエット」初体験でした。昔、ビデオも普及していない時代、2本立ての名画座がありまして、そこで見たんです。(封切じゃありませんよ)。パンフレットも持ってます。時代考証がちゃんとしていて、でも若くてみずみずしいロミオとジュリエットが公開当時は新鮮だったそうですが。
〉90年代になってこの戯曲はまた映画化され、今度はメキシコで撮影されたので、全体にラテン風の雰囲気がみなぎっていました。冗談ですが、ロミオを演じている俳優さんの名前も、まるでイタリア人の様な名前でした。
これは見てません。
〉ほかにも、映画化にあたって、イタリアで撮影された作品はいくつかあるようです。
〉イタリアから遠い北欧を舞台にした Hamlet でさえ、最初に登場する人たちはイタリア人のようです。その中の一人は最後まで登場して、事件の目撃者となります。イングランドの観客たちは、イタリア人に案内されてデンマークへ旅するのです。
当時はイタリアが流行最先端だったのかもしれません。それでイタリアを意識した芝居作りになったんだったりして…。
〉又、僕が注目しているイタリア風とかギリシャ風の要素は、本当のイタリア風やギリシャ風と言うより、当時の英国人から見た範囲のギリシャ風やイタリア風であることも事実です。アテネの市民社会を描くつもりで、イングランドの村人たちの素人演劇になってしまったり、神々を描くつもりで妖精たちの話になっています。マクベスほどケルト的ではないと思いますが、ウェールズやアイルランドの話のように演出してもおかしくはないでしょうね。(ただ、ロンドンの近くという設定では難しいかもしれません。)
〉僕たちは東京や大阪のような大都市から遠いところに住んでいるので、生の舞台を観る機会は少ないです。演劇鑑賞会も、個人では入会できません。東京まで芝居を見に行くとすれば1日がかり、あるいは泊まりがけということになり、劇場は観光コースのようなものです。
それは残念です。でも地方都市でも市民会館があって、移動公演が来たりすることがありませんか?
私はおっかけでいくつか地方都市の市民会館や公民館をまわったことがあります。ハコもの行政で槍玉に挙げられそうなピカピカ豪華なものから、年数がたってガタがきていて、スポットライトの数も足りないような貧相な会館までいろいろ見ました。(なんで雑談を広げてしまうんだろう…)
〉シェイクスピア時代にも、僕たちのようなお上りさんたちがロンドンの劇場で芝居を観たのかも知れません。せっかく国際都市まで来たんだから、芝居も長いのを観たいとか思ったかも知れません。
そうかもしれません。想像すると面白いですね。
〉これは、新幹線や高速道路を利用して「東京」ディズニーランドへ行った人が、ヨーロッパ風の城や、ミシシッピ川の蒸気船を真似た観光船や、ニューオーリンズ風のジャズを演奏する楽士さんたちを目の当たりにする体験と似たようなものかもしれません。
なるほど。
といったところで、このへんで…。