[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(20:44)]
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508. a X of a Yの構造から考察する英語と日本語
お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/10(20:32)
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a X of a Yの構造から考察する英語と日本語
1 定義
X,Yとも、名詞。
文章又は会話で、最初に、この構造が出現した場合を想定する。
a Xは、複数形Xsとともに、数字の基数の付いた場合を含む。
つまり、Xs of a Y、two Xs of a Yなどを含む。
the X及び冠詞のないYを除外する。
a Yは、複数形、数字の基数の付いた複数形のみならず、冠詞のないYを含む。
theYを除外する。
2 a X of a Y等の構造の把握
a X of a Yとして同じ形である以上、私は、構造は、1つであると仮定する。
3 本項の内容
この構造は、機能として、あるいは、(1)比喩(別に論ずる)を示し、あるいは、(2)個数を伴う概念を示し、あるいは、(3)日本語の「の」と同じ所有、占有、所属などの機能を示し、あるいは、(4)X=Yという同格を示し、あるいは、(5)日本語の「を」と同じ機能を示し、あるいは、(6)それ以外の機能を示すという関係にあると思われる。
そのいずれに該当するかは、(1)X及びYのそれぞれの単語の意味及びその相関関係に依拠するとともに、X及びYが、文頭ではなく、文中に所属する場合には、X及びYの前の文または単語に依拠するものと思われる。
4 補足
この形態は、私が読書する限り、すこぶる頻出するので、統一的考察をしたのである。
a X of a Y等の構造及び機能の統一的把握の可否及び可能な場合について、文献及びインターネット情報の提供があれば、幸いである。
なお、私は、いわゆる学校文法の是非の議論を望んでいないし、学校文法は。おそらく、これらの話題を細切れに論じているのであって、本稿のような統一的把握をしていないと想像する。
以上は、私の考えであって、他の人の考えを否定するものではない。
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比喩について
日本語では、「彼女は、天使だ。」という隠喩metapherにするか、「彼女は、天使のようだ。」「彼女は、天使のような女性だ。」という直喩simileにするかは、末尾に、「ようだ」を付加するなど、比較的簡明な形態である。
英語では、as, like, ofを挿入したり、語順の移動があったりして、言葉の挿入及び語順の移動等所要の作業は、日本語より、複雑だと思われる。
「話に乗る」「sound dangerous」は、動詞における隠喩metapherの一種である。
この手の隠喩は、日米とも、すこぶる多い。
隠喩と意識しない場合も多い。
この点については、日米彼我における発想の異同の理解が、必要となる。
また、比喩には、ある概念を象徴で表す、換喩metonymyがある。
たとえば、ホワイトハウスが、大統領を意味し、霞ヶ関が、中央官庁を意味する。
言葉自体は、概念の全体だが、意味は、その部分を指し、逆に、言葉自体は、ある概念の部分であるが、意味は、その概念全体を指す、提喩synecdocheもある。
前者は、たとえば、花と言えば、桜の花を指し、後者は、フリーランチといえば、文字どおりのタダ飯の食事だけでなく、タダの行為全体を指す類である。
これらも、日米の彼我における若干の発想の異同がある。
以上は、私の考えであって、他の考えを否定するものではない。
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510. 名詞の英単語における冠詞ないし複数形の役割と単語の意味の変化などについて
お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/13(22:49)
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名詞の英単語における冠詞ないし複数形の役割と単語の意味の変化などについて
名詞の英単語は、通常、5形態、つまり、X、a X、Xs、the X、the Xsの5種類に分類されるといわれる。
私は、さらに、the Xは、可算、不可算に応じ、2種類に、Xsは、Xsそのままと、twoなど特定ないし限定された数が付加される場合に応じ、2種類に分化されることを加味し、7種類存在すると考えるべきだと思っている。
a X of a Yは、5形態ないし7形態の亜種である。
それは、ともかく、英語の場合、5種類であれ、7種類であれ、ある英単語Xについての概念ないしイメージは、それぞれ、異なる場合も多い。
特に、aのない単数形、aのある単数形、さらに、生の複数形の3者は、概念の質的変化が、激しいものが多いと思われる。
これを日本語の概念ないしイメージに合致する単語があるか、似た単語はあるが、やや異なるかは、それぞれであるが、いずれにしても、その場合、日本語の言葉は、漢字の組み合わせ又は発音が、それぞれ大きく異なる場合が多いと思われる。
これに対し、小文字のsを付けたり、theを付けたり、また、冠詞を付けない単語にしたり、複数形にしたりすれば、概念が大きく変更するという英語の方が、形態において、遙かに簡明である。
しかし、形態は、簡明だが、意味は、コロッと変わるから、やっかいで、複雑である。
日本語の方が、異なる言葉が、豊富であるから、形態において複雑である。
言葉を覚えるのは、やっかいだが、漢字を見ることにより、意味の把握には欠けないから、理解に簡明である。
日本人は、英単語について、冠詞が付加されなかったり、複数になったり、定冠詞に複数形になったりした場合の概念ないしイメージの変更の発想把握というか、想像力というものが、その発想の環境下にある英米人以上に、要求されるのであると思われる。
読書は、これら単語の理解等を前提とし、知見を駆使し、未知を既知に変更することである。
以上は、私の考えであって、他の人の考えを否定するものではない。
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知識、知見、知恵、背景知識
知見は、一般的知見及び専門的知見に2分され、一般的知見は、日常的知見及び非日常的知見に分類される。
専門的知見は、一般に、非日常的知見に属する。
一般的知見は、一般人が、通常有する知見をいう。
専門的知見は、専門家がその職務上有していなければならないとされるものであって、たとえば、「医師等の専門家は、一般的知見ではなく、専門的知見で通説である見解に従って仕事に従事しなければ、責任を免れない」などという言い方がされる。
知見は、知識の体系的集積及び判断能力という場合が多いであろう。
日常的知見は、日常の生活で得られる知見であり、非日常的知見は、日常の生活では得られないような知見をいう。
知識について。
知識は、自分を含めた外界を認識し、理解した内容である。
知識は、専門的知識とはいうが、一般的知識とは、あまりいわず、この場合は、単に、知識という場合も多い。
「単なる知識だけではだめだ。知見を持て。」などという言い方をするが、知見と知識の関係は、知見は、知識を超える判断能力を指す。
知見は、体系的存在である。
知識は、必ずしも体系的存在ではない。
たとえば、健康に関する関心から、医学的な専門的知識の一部は、今や、一般人の中にも、これを有する人がいるが、専門的知見まで高まるものを持っている一般人は、きわめて少ないであろう。
しかし、一般人が、様々な分野において、概説的な専門的知識ないし知見を必要とされる時代に来ていると思われる。
なお、書籍では、専門的知見を意味するところを、誤解がなければ、専門的知識と置き換えることもあるので、その場合は、専門的知識と記載してあっても、専門的知見と読み替える。
「知識、知見、知恵」と並列させる場合もある。
この場合は、総合的判断を意味する場合が多い。
背景知識について。
背景知識という用語は、私は、20代から、使わないし、仕事でも使われない。
公的にも、私的にも、お目にかからない言葉であった。
私には、遙か昔、高校時代に、英語の勉強の際に、出てきた用語に思える。
インターネット等を見ると、背景知識という言葉は、現在も使われているようだが、特殊な使用法を除外し、一般的には、英語などの学習を行う際、背景知識が存在すると、英語が理解しやすいなどと使っているようだ。
背景知識という用語は、私の高校時代には、そんなに一般的用語ではなかったし、その後公的にも私的にも使ってこなかったから、もう廃れた言葉かと思っていたら、今でも、使われているようだ。
しかし、背景知識が、何を意味するか、判然としない。
私は、SSSにおいても、背景知識という言葉が出てくる際、その投稿者が、いかなる意味で使用しているのか、理解に苦しむことが多々あったことは否めない。
ただ、背景知識は、主として日常の生活に依拠して取得されるべきものと考えている見解であれば、得られる知識の内容は、一般的知識中の日常の知識に限定されると思われる。
その場合。背景知識が役立つ読書は、日常知識を内容とする読書になろう。
「文化的背景知識」という言い方をしている文献もある。
この場合は、政治的、経済的、法律的、社会的、文化的、物理化学等の自然科学的、自然科学史的等の知識の中の、「文化的」要素に限定された言葉使いである。
背景知識は、むしろ専門的知見及び非日常的一般的知見を意味するという見解に依拠すれば、背景知識が理解を助ける読書の幅は、広がる。
以下は、本稿に関連が薄く、蛇足だが、
知見というのは、雑学ではなく、体系的な存在であるから、知見を駆使し、未知の事柄を既知に体系的に変更する読書が、読書といえるものである。
娯楽的な読書は、不可欠ではあるものの、換言すれば、刺身のつまに過ぎない。
私にとって、体系的知識ないし知見ではなく、単なる雑学は、ほとんど興味がない。
しかし、いわゆる雑学は、ほとんど全てが、その道の専門家から見れば、体系的知識ないし知見の一部であるから、雑学は、自らの概念装置を通じて、体系的知識ないし知見の中に存在させることになれば、雑学ではなくなる、という構造がある。
以上は、私の見解にすぎない。
もとより、ほかの見解を排斥するものではない。
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513. Re: a X of a Yの構造から考察する英語と日本語:誤記訂正
お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/11(20:44)
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誤記があるので、以下、誤記を改め、全文を掲載する。
〉 a X of a Yの構造から考察する英語と日本語
〉1 定義
〉 X,Yとも、名詞。
〉 文章又は会話で、最初に、この構造が出現した場合を想定する。
〉 a Xは、複数形Xsとともに、数字の基数の付いた場合を含む。
〉 つまり、Xs of a Y、two Xs of a Yなどを含む。
〉 the X及び冠詞のないXを除外する。
〉 a Yは、複数形、数字の基数の付いた複数形のみならず、冠詞のないYを含む。
〉 the Yを除外する。
〉2 a X of a Y等の構造の把握
〉 a X of a Y等として同じ形態である以上、私は、その構造は、1つであると仮定する。
〉3 本項の内容
〉 この構造は、機能として、あるいは、(1)比喩(別に論ずる)を示し、あるいは、(2)個数を伴う概念を示し、あるいは、(3)日本語の「の」と同じ所有、占有、所属などの機能を示し、あるいは、(4)X=Yという同格を示し、あるいは、(5)日本語の「を」と同じ機能を示し、あるいは、(6)それ以外の機能を示すという関係にあると思われる。
〉 そのいずれに該当するかは、(1)X及びYのそれぞれの単語の意味及びその相関関係に依拠するとともに、(2)X及びYが、文頭ではなく、文中に所属する場合には、X及びYの前の文または単語にも依存するものと思われる。
〉4 補足
〉 この形態は、私が読書する限り、すこぶる頻出するので、統一的考察をしたのである。
〉 a X of a Y等の構造及び機能の統一的把握の可否及び可能な場合について、文献及びインターネット情報の提供があれば、幸いである。
〉 なお、私は、いわゆる学校文法の是非の議論を望んでいないし、学校文法は。おそらく、これらの話題を細切れに論じているのであって、本稿のような統一的把握をしていないと想像する。
〉 以上は、私の考えであって、他の人の考えを否定するものではない。
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514. 田山花袋は、多読した結果、英語の内容を理解していたか。
お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/11(21:06)
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田山花袋は、多読した結果、英語の内容を理解していたか。
柳父章著「翻訳語成立事情」岩波新書を手がかりに、これを論ずる。
1 柳父章氏のホームページ
柳父氏が、ネットで公開されている社会批評は、寸にして要を得ていて、好感が持てる。
年を取るにつれて、ますます文章が短くなりつつ、論旨が明快になるようだ。
専門の翻訳者の仕事のみならず、社会科学などの知見の研鑽を積まれている証左であると思われる 。
2 柳父章著「翻訳語成立事情」の構成
同著は、全10章、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」の順序で論が進められる。
このうち、新造語として、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「彼女」の7個を、転用語として、「自然」「権利」「自由」「彼」の4個を掲げる。
新造語は、翻訳に際して新たに作られた用語である。
転用語というのは、元の意味は、西洋語の原語と、微妙に又はかなり違うけれども、新造語を考案するまでないとして、改めて違う意味に使うようにしようと意図された用語である。
3 新造語も転用語も、英語など外国語の意味する内容どおりに把握されていれば、それでよい。
しかし、違った意味に使用するならば、それは、その英語などの意味が、わかっていないということである。
よく分かっていないと体よく言ったとしても、それは、オブラートに包んで社交辞令で言っただけであり、はっきり有体にいえば、まるっきり、分かっていない、つまり、まるっきり理解していないということである。
私は、そう思うし、柳父氏も、その趣旨で述べていると解する。同書9章自由の項P190
4 10章は、田山花袋の「布団」を俎上に載せ、柳父氏は、花袋が、「he」の意味も、「彼」の意味も、ともにわかっていないと述べている。
まさに、「heと彼とは、違う」のである。
柳父氏は、最終的には、花袋が、heの意味と、「こそあど」代名詞に由来する「かれ」とを混在させたという意味で、「かつて知らなかった重要な働きを担わせることになった」と述べているが、これは、決して、ほめ言葉ではない。
本書全体の内容を総合すると、花袋の英語理解に対する、痛烈な皮肉、否、痛烈な批判が存在するといって良いだろう。
5 田山花袋は、heの意味を誤解し、その言葉の本質が分かっていなかった。
しからば、他の用語は、如何。
6 9章の「自由」について検討する。
布団には、5箇所、「時雄の教訓は、キリスト教の教訓より、自由で権威あり」「一度肉を男子に許せば、女子の自由は、全く破れる」「貴下は、父としての主張あるべく、芳子は、芳子としての自由あるべく」「芳子を自分の自由にする、ある権利」「女の弱点を利用して、自分の自由にする」と使用される。
最初の「時雄の教訓は、キリスト教の教訓より、自由で権威あり」のうち、時雄の教訓は、「自由」は、「自分でやったことは、自分が全責任を負う。自ら考えて、自ら行う」と、小説の中に説明があるから、自由とは、時雄の教訓の方が、キリスト教の教訓よりも、その内容において、教訓の数が僅少である上、教訓の質において、厳格ではないという意味のようである。
2番目の「一度肉を男子に許せば、女子の自由は、全く破れる」とは、処女を喪失した当該女子は、男子に依存せずんばおかない精神状態になるし、親及び分別ある大人は、当該女子において処女であったときと同じような婚姻を薦めることはままならぬという精神状態になることなどから、他に良縁を得る可能性が喪失するという趣旨のようである。
3番目の「貴下は、父としての主張あるべく、芳子は、芳子としての自由あるべく」とは、芳子の責任を併有する自由というより、放縦なわがままの自由を意味する趣旨のようである。
4番目の「淑子を自分の自由にする、ある権利」とは、女学生淑子と男女関係を持った男子学生が、淑子を自分の支配下に置いて淑子の行動を支配する事実上の強制力を有するというような趣旨のようである。
5番目の「女の弱点を利用して、自分の自由にする」とは、男子学生が、女子学生の貞操を蹂躙した結果、互いに合意とはいえ、女子の方に弱みが発生して、事実上の支配権を有するという趣旨のようである。
これら5箇所は、freedom=自由の内容として、正しく使われているか。
以下の定義に照らし、正しく使われていないことは、明らかである。
7 freedom=自由の定義については、既に柳父氏の解説のみならず斯界の定評 ある文献を参照して説明したので、同じものを再説する。
自由は、freedom(又はliberty)英 等の翻訳語である。
自由も、新造語ではなく、中国古典の転用語である。
freedomの前半の原語fri-は、「仲間」であるが(参照・英語のfriend友達)、それは、「独立した個人としての集合体である仲間同士。責任観念を自覚した個人の集合体としての仲間達」という意味である。
-domは、「勢力範囲」「〜の世界」である。
独立した人格の集合体の範囲及びその行動可能な世界が、本来のfreedomである。
ところで、個人が自由放縦に権利を主張すると、他人の自由放縦を犯すこともあり、まずいことが起きる(いわゆるホッブスのリヴァイアサンの世界)。
そこで、各人の自由を、仲間との契約(contract)により、幾分か制限し、その残り(residual)をもって、freedomの概念とした。
つまり、西洋にとって、自由とは、本来、残り、残余物であるといわれる。
この残余概念が、西洋のfreedomの本質である。
もちろん残余物といっても、それは、理念としてのものの言い方であって、その内容は、広い。
自由は、他人の権利を侵さないという責任を併有した概念である。
中国古典の自由は、これと異なり、「放縦」の意味も包含し、しばしば 「自由という概念のはき違え」があった。
自由という言葉は、明治以前は、民衆に流行して、使用された言葉ではない。
翻訳者達は、freedomの翻訳語として、「自由」以外もいくつか考案した。
しかし、言葉というものは、いくら為政者が力んでも、国民=民衆が使用しなければ、日常用語には、使われない。
今日でも、政治、経済、法律等の社会科学、化学、物理等の自然科学の用語は、一般国民が、広くは使用しないものもある。
freedomとその訳語は、明治初期から、民間の啓蒙者達も、盛んにこれを奨励した。
そして、「自由」という訳語は、むしろ、翻訳語として適当ではないという危機感も強かった。
「自分勝手も許される」「放縦でよい」、「勝手でしょ」、「何をやろうが自由だろ」、という意味で、民衆が使う危険があったから。
freedomには、自分勝手という意味はないし、何をやろうと許されるという意味もない。
だから、ほかの翻訳語も、いくつも考案した。
しかし、日常会話でも、自由のみ、翻訳語が生き残った。
「自由」のみ訳語が生き残ったのは、民衆が使ったから。
そして、民衆の使用する「自由」という用語は、「他人の権利を侵さない責任を合わせ併有する、残余物を意味する概念」としてではなく、「自分勝手が許される」「本来、人は、何をやろうが許されるはず、それが自由である」などとして理解されることがあり、実際にその意味で言動する輩も、また、多くいた。
8 田山花袋の無理解
freedom=自由は、まず、独立した個人でなければならぬ。
その意味では、ローマ時代においては、自ら生計を営むことができない子供をはじめ、大人であっても、独立して生計を営む力がないようでは、そもそも、自由を持っているとは言わないのである。
それだけではない、元来、自由は、他者から攻撃があった場合に、これを防衛するだけの力を持っていること、場合によっては、攻撃する力も有する独立性が存在することが、前提となっている。
また、自由とは、自ら言論を持って、自ら力を使用する場合には、その力の使用が、攻撃ではなく、正当な防御であることを説明できる能力が存在することを意味する。
もっとも、これは、ローマ時代の自由人を意味するのであって、現代とは異なるが、現代でも、責任を併有するというのが、自由の本質である。
10 田山花袋の「自由」の理解
花袋は、このような西洋の概念を理解していない。
花袋は、せいぜい、従来の日本の自由の意味を理解しているに過ぎない。
11 田山花袋の「布団」のほかの用語
布団には、「彼」「自由」だけではなく、「社会」「恋愛」「自然」「権利」が使用されている。
そして、その意味は、ことごとく、柳父氏の説く言葉の由来とは異なった、間違った使用例である。
12 田山花袋の英語
花袋は、英語で西洋の小説を多く読んだ。
この「多読」により、花袋は、西洋思想を日本の小説に取り入れることをもくろんだ。
布団は、その目論みに依拠した小説であり、幾多の西洋小説が引用されている。
私は、「読んだ」とは、日本語の文献であれ、西洋の文献であれ、最低限度、「作者の言説(それは、話のあらすじだけではなく、また、作者が説明していることだけではなく、本質は、その時代の思想であるから、作者でさえ、意識していない、知っていて当たり前の、空気のような思想であることもある)が、わかった」「理解できた」ことを必要とすると考える。
私は、単に巻を全うできたこと、つまり、終わりまで読んだことをもって、「読んだ」とは言わない。
もう少し詳しく説明すると、私は、本来は、「読んだ」とは、単に作者の言葉で作者の言説を説明できることではなく、「自己の概念装置」に言い換えて、自己の体系の中に、作者の言説を取り入れて説明できることであると考えているが、もし、そこまでいかないとしても、作者の言葉で作者の言説を説明できること、さらに、そこまでいかなくても、「作者の言説が、わかった」「理解できた」ことをもって、「本を読んだ」という意味であると考えている。
そのような私の理解は、柳父氏も、同じであると、私は、考えている。
このような理解によれば、田山花袋氏は、確かに、西洋小説を英語で多く読んだし、これを糧に、新たな小説をものしてやろうと意気込み、翻訳語をちりばめ、西洋小説を引用し、新時代の男女の道を説く小説を書いたのであるが、その実、西洋思想の概念は、「よくわかっていなかった」のである。
つまり、全くわかっていなかった。
翻訳語は、明治20年ごろまでほぼ出尽くしたのであるが、そのころ翻訳した福沢諭吉らは、英語など外国語の内容を的確に把握し、翻訳語の内容の適切性、問題点を把握していた。
それより後の世代に下り、情報の取得としては有利な立場にあったはずの田山花袋は、これを理解できていなかった。
その違いは、どこにあるか。
私は、田山花袋と、明治初期の翻訳者たちとは、西洋の思想の由来、内容を記載した書物をきちんと読んでいたか否かの違いが大きいことは、歴然としていると考える。
私は、この理は、現代でも、同じであると考える。
私は、現代においても、英語をはじめ西洋の思想を理解するには、まずは、古典のきちんとした翻訳をサイドリーダーとして読みつつ、きちんとした学者らの概説書を読み、西洋の思想を理解しなければ、英語の理解もおぼつかないと考える。
もっとも、翻訳語をちりばめ、ともかく、当時としては、男女の関係について、センセーショナルな小説を書けたことは間違いないから、その程度で十分ではないかという見解であれば、いかんとも仕方がない。
ところで、私は、柳父氏が、読者に、私のような感想を引き出させるため、そのヒントとして、田山花袋の小説を掲載したのか、はたまた、田山花袋の英語の理解度について、どう考えるに至ったかか、聞いてみたい気がする。
柳父氏が、福沢諭吉になぞらえることが可能であるのであれば、現代の英語の使い手と称する人達が、田山花袋の陥穽にはまっている可能性高きにあらずとはいえないと思われるからである。
以上は、私の見解を同じくする多くの書物にも負っているが、基本的には、私個人の見解であるとともに、他の見解の主張自体を排斥するものではない。
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翻訳の可能及び不能について
私は、昨年であるが、2008年2月27日発刊の中倉玄喜訳のカエサル著「ガリア戦記」を読んだ。
中倉氏は、同書108ページ以下において、亡き文芸評論家小林秀雄氏の言として、大要、「ガリア戦記の訳文は、読みづらいが、原文の名調子が、わかった。」旨の感想を引用している。
もとより、小林氏の読了したガリア戦記は、中倉氏の訳文ではないが、同氏の矜持として、原文を正確に翻訳できるし、むしろ日本語で読んだがゆえに、かえってガリア戦記を正しく理解する旨述べているのがわかった。
私も、中倉氏の意見に賛成である。
私が最近読んだいくつかの本も、同趣旨の見解が多い。
これに対し、反対説もある。
反対説の極論は、「英語を日本語に翻訳するのは、常に正確ではない」というものである。
しかし、私には、この見解は、英語読解力及び日本語変換能力等の不足に依拠するものとしか思えない。
ただし、市販の翻訳物、すべてが、正確な翻訳ではないこと、あたかも、たとえば、医者の診断、すべてが、正確な診断でないことと同じく、驚くことではない。
一般的には、名著でなくなるに連れ、翻訳家の質も、名翻訳家でない確率が高くなると思われる。
また、私は、自然科学、次いで、社会科学、一部の人文科学は、英語その他外国語のままで読んでも、日本語で修行を積んでいる限り、または、修行を積んでいなくても慎重に読む限り、理解可能であるが、小説(児童小説を含む)、エッセイ等の方は、必ずしも理解が正確にできないと思われる。
したがって、私は、小説、エッセイ等の方が、むしろ、翻訳家による翻訳の必要性が高いと思う。
近時、発刊された諸書籍の中にも、同趣旨の見解があり、私は、その見解のほうが良識ある見解であると再認識した。
なお、読んだ本の中には、言語の本質は、文法ではなく、語彙の豊富さの中の適切な選択と、文体にあるという見解があった。
文体は、言語の本質である、という点に、意を新たにした。
もとより、以上は、私の見解であり、他者の異なる主張の存在を否定するものではない。
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異なる言語間の概念説明の長さの相違について
たとえば、英単語Xは、通常、日本語Yという概念で訳されているが、本当は、少し違って、Zであると説明される場合がある。
この場合、Yより、Zの方が、語数が長いことにより、概念の内容が説明されることが多い。
かく認識する限り、Xの訳語は、はじめから、Zと考えるべきなのである。
英語の単語が短いからと言って、必ずしも、日本語の言い換えも、短くしなければならないということは、毛頭ないと考える。
この理は、文章も同じである。
たとえば、英語の文章Xを、日本語Yに翻訳する場合、Xと同じくらいの長さと時間で言い換えることができるものもあれば、ときには、Xより、著しく短く、あるいは、著しく長い場合もある。
日本語の文章としての一定の概念を英語に変換する場合も、同じである。
日本語で説明するより、著しく長短、これ振幅する場合もあるのである。
特に、日本語は、主語を省略するなどの一定の特徴が存在する上、抽象名詞の主語性が、英語に比して少ないなどの形態も存在するなど、さまざまな相違がある。
ある著者曰く、日本語をよく知ることにより、その相違を認識できるとともに、その相違に驚くことなく、処理できるのである。
その相違に驚く必要がないというのが、当該著者の強調する点である。
私は、その態度が、自国の言語及び他国の言語を正当に理解する態度だと思う。
以上は、様々な情報に触れ、さらなる思考の深化を望まぬものではなく、また、異なる見解の存在を否定するものでもない。
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異なる言語の概念の対応の多様性について
ここでは、主に、一個の単語の内包概念を考察する。
これは、ある言語の1個の単語が、別の言語では、複数の概念の単語に分岐する場合である。
たとえば、説明概念として、英単語Xが、日本語2つに対応する場合がある。
これは、類義語全てを1つと考え、類義語ではない、異なる概念が、2つあるという趣旨である。
たとえば、英単語5個、X1,X2,X3,X4,X5が、日本語の単語Y1、Y2Y3に、分岐する場合もある。
この場合、たとえば、X1は、Y1、Y2に対応し、X2は、Y2のみに対応し、X3は、Y1、Y3に対応しているが如くである。
これらは、いろいろ複雑な形態がある。
この問題は、明治期前後の新造語、転用語について、定義の再確認の必要が発生しているという、近時の論者の主張とも、大いに重なるところである。
英語のX単語は、日本語のY単語の訳ではなく、Z単語にすべきであるというのも、これら大きな問題の一徴表である。
英語など外国語の単語と、日本語との複数対応の問題は、国を始め、江湖の関心事となり始めているというのが、私の認識である。
これらは、専門家集団によるコンセンサスの問題でもある。
以上は、様々な情報に触れ、さらなる思考の深化を望まぬものではなく、また、異なる見解の存在を否定するものでもない。
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異なる時点間の異なる言語の翻訳について
X言語 Y言語
過去 X1 Y1
現在 X2 Y2→Y'2
将来 X3 Y3
過去は、たとえば、江戸時代でも、明治初期でも良い。
たとえば、英語の文章Xを日本語の文章Yに変換する場合、それが、江戸時代であるか(江戸時代の言葉で訳すと想定する場合を含む)、現代であるか、また、将来の一定の時点であるかによって、使用される語彙の豊富さと内容、その文体、さらに言葉を組み合わせて思考できる各人の概念操作は、大きく異なるから、翻訳も、大きく違うのは、当然と考える。
人々は、その時代に規定されて、その時代の全部又は一部の思考形態の中で、生きているのである。
また、同時代にあっても、今述べたように、使用される語彙の豊富さと内容、その文体、さらに言葉を組み合わせて思考できる各人の概念操作は、相当異なるから、翻訳も、相当大きく違うのは、当然と考える。
Y2→Y'2は、同時代の同じ言語間で、理解したことを要約したり、ほかの言い方で同じ内容に言い直したりする思考を意味するが、それすら、あっと驚く、理解の齟齬すらある。
これら全てが、言語理解の隘路である。
これによってこれを見るに、異時点にわたる異なる言語を、現在の時点に現在の言葉で翻訳する隘路は、隘路のうちの一つにすぎないと評価し得るのであって、ことさら驚くに足りないし、また、ことさら強調すべきものでもない。
具体的諸事情に応じ、隘路が存在する事態も発生するし、存在しない場合も発生するが、真摯に隘路を弥縫すべく努力すれば足りると解する。
ある意味では、翻訳は、日本語としては、つたないものであっても、原文が彷彿と蘇り、その原文なら、自分であれば、こうイメージし訳すであろうという想像さえ可能な翻訳が良い場合も多いといえるであろう。
もとより達意の名文で、正確に翻訳されているにしくはない。
以上のことは、翻訳と書いたが、実は、巷間、英訳や和訳などという狭い意味ではなく、外国語及び日本語の認識理解そのものに係わるのである。
以上は、もとより私の見解であり、また、様々な情報に触れ、さらなる思考の深化を望まぬものではなく、また、異なる見解の存在を否定するものでもない。