わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(05:53)]

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280. わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/20(01:31)

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主観の新茶さん、こんばんは。

やっぱり何が書いてあるのか気になって、おすすめの本、入手して少し読んでみました。(全12講中第3講まで)

おもしろい!

そしてまた、とてもわかりやすく書かれてますね。
(わかりやすいからおもしろいのか? ともあれ、)
いい本をご紹介くださって、ありがとうございました。

まったく、どこを読んでも「なるほど、なるほど」なのですが、特にこの部分に納得。


 欧州には自然法という考え方が昔からあります。これは「人間関係や社会関係,即ちしがらみ一般は,その自然本性上,必ず正義を実現する何らかの法則性に従っているはずだ。我々はこの自然本性上の法則性を認識し,この法則性に従って生きるべきだ。人間の作る実定法は,この法則性を実現するものであるべきだ」と概略できる考え方です。自然法思想は古代ギリシア末期のストア派に由来するものですが,やがてキリスト教の伝統に持ち込まれ,「我々が本性上従っているはずの法則性」は神が創造した法則と等値されました。これを明文化したものが実定法であるなら,法に訴えることはキリスト教の神への忠誠を証し,神への助力を願うことに他なりません。ホッブズやロックの近代自然権思想もこうした自然法思想の延長線上にあります。
 こうした自然法思想は日本ではなかなか受け容れられません。自然本性上従っている法則として平均的な日本人が理解できるのはせいぜい自然法則(古典力学や相対性理論,量子力学理論など)止まりで,法律もそうした法則性であるという考え方は馴染めないようです。これは日本が中国の法家思想(為政者が制定した法律を人民に課す,という考え方)の影響を長らく被り,実定法以上の超越的な法の存在を信ずる伝統がなかったためです。日本的な人間関係に自然本性があるとすれば,それはむしろ法律と対置される「しがらみ」です。この「しがらみ」を一種の「ことわり(理)」,「定め」と諦念して受け容れる精神風土なら,日本には昔からあるようです。(p.25-26)

ここでの「自然本性上従っているはずの法則性」は、イコール「実定法以上の超越的な法」であり、
イコール「あるべき法」で、イコール「正義」だと思いますが、
実定法をそうした正義に近づけようとする理想主義が、西欧の考え方にはあるようです。

"iustitia"や"Gerechtigkeit"と呼ばれる状態はあくまで理想状態であり,実現したかに見えたとしてもそれはほんの一時にすぎないでしょう。それにもかかわらずこうした理想状態を象徴として想定する,というところに,ヨーロッパ法文化の一つの基本特徴があります。こうした理想状態を理念として設定し,その理念を少しでも社会で実現したい。理念そのものに向かって社会を,現実を少しでも近づけたい。こうした力が,ヨーロッパではギリシア・ローマの昔から働いています。このことは,「法の目的は正義である」という文が雄弁に語っています。この文は,「正義」という理想状態が実在する,という強い確信と,その状態に社会を近づけたい,という固い意思とを,表しています。・・・
(中略)
 ・・・。同時多発テロ後に米大統領がビン・ラディン氏を念頭において"We need justice!"と叫んだ背後にも,この正義に関する理想主義が根付いています。
 では,「正義」と形容されてしかるべき状態は,具体的にどのような状態でしょうか。これに対する答えは拠って立つ正義論の中身によって変わってきます。また,その状態が国内の状態のことなのか,国際関係のことなのか,によっても答えが違ってきます。更に,「正義」の原産地であるヨーロッパ(アメリカを含む)では時代によっても答えが変わってきました。いずれにせよ,正義についての理想主義は,日本ではいまだに馴染みが薄い考え方かもしれません。「法はしょせん,人間が作ったものだ。紛争や社会問題が発生するたびに現行実定法が適用され,場合によっては法の欠陥が指摘される。新たな実定法の必要性が生じたら,法整備も行われる。その繰り返しが法と社会の歴史だ」という現実主義・歴史主義の方が,多くの日本人には性にあうようです。しかし,我々が明治以来導入してきた欧州起源の法文化は,以上のような理想主義を根に持っているのです。(p.15-16)

「正義」の内容はいろいろであるにせよ、その「正義」に、社会や実定法を近づけよう、
という考え方や働きが、西欧の法文化にはあるということですね。

したがって、新茶さんのおっしゃる、

〉法は、お上が作ったから、守らされるのであって、正義とは必ずしも結びつかないという考えもありませんし、悪いことだと思うのは法を犯したからだが、なぜその法があるのか、理由がわからないというような言いぐさが通るという考えもありません。

これは、「あるべき法」と実定法とを混同した言い方だ、ということになると思います。
実際に定められている法(実定法)が不当だ、とは、西欧の考えであっても
当然に言えることだと思います。
ただそこから先、実定法は正義にかなったものでなければならないからとして
正義に近づけようという意識が働くか(西欧の場合)、
「正義」について考える風土が無いため、実定法を正義に近づけようという意識は薄く(または、無く)、
基本的には諦念というか、せいぜい愚痴やため息で終わるか(日本の場合)、
の違いがあるということだと思います。
 
 
久しぶりに頭を使ったような気がします・・・
学生時代、何となく聞いていたようなことも、いろいろ思い出しました。
良い本を教えてくださって、ありがとうございました。
それでは。


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316. Re: わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2008/10/25(10:08)

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たかぼんさんへ。主観の新茶です。

 上記した西欧の理念に依拠する限り、一定の国の政策が妥当でないと判断した場合には、SSS上においても、各々が提案し、話し合い、一定の方向性を決定し、共同して、適法な方法で、実際に言動に移すことが必要となる。

 それは、恥ずかしいことではなく、したくなければしなくてよいことでもなく、逆に、たとえば、はじめから無力とあきらめ、愚痴等をもって批判に対置していることが、または、無関心であるか、関心があっても適切な言動に移していないことが、恥ずべきことである。


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323. Re: わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/25(12:25)

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主観の新茶さん、こんにちは。たかぽんです。(「takapon」です。(笑))

〉たかぼんさんへ。主観の新茶です。

〉 上記した西欧の理念に依拠する限り、一定の国の政策が妥当でないと判断した場合には、SSS上においても、各々が提案し、話し合い、一定の方向性を決定し、共同して、適法な方法で、実際に言動に移すことが必要となる。

〉 それは、恥ずかしいことではなく、したくなければしなくてよいことでもなく、逆に、たとえば、はじめから無力とあきらめ、愚痴等をもって批判に対置していることが、または、無関心であるか、関心があっても適切な言動に移していないことが、恥ずべきことである。

それは新茶さんのお考えであり、古田氏の本では「恥ずべきこと」とは書いていなかったと思います。
(しかし、私が読み落としているだけかもしれませんので、該当箇所があればご指摘ください。)
古田氏がおっしゃっているのは、実際の法を「正義」に近づけようとする理想主義が西欧にはある、までだったと思います。
個人の、愚痴ることや無関心が、「恥ずべきこと」と西洋全体で見なされている、とまでは言えないのではないかと思います。
法改正のために本来とるべき適切な言動、というのが何なのかがよくわかりませんが(デモや陳情?)、
現に、どうしてこんな法律があるんだーなどと西洋人が(デモや陳情もせず)愚痴ってるシーンは当然に多数あるでしょうし、
今や膨大な量になってしまっている現代の法律に無関心であるからといって、それが「恥ずべきこと」であるという感覚が
一般であるとは言えないと思います。法律を知っていないと不利益をこうむることがある、というだけで。

そもそも、よくわからないのですが、西洋における「恥」の観念は、道徳的・宗教的なものであって、
良心にもとるとか、神の教えに反する(神との契約に反する?)、ということだと思います。
現在の法律に不満を持っているが、デモや陳情などの行動をせず愚痴るにとどまったり、
現在の法律に無関心でいることが、良心にもとるとか、神の教えに反する、とまでは、
必ずしも言えないのではないかと思います。

西洋では、伝統的に、「正義」とは何かという議論が非常に膨大に細かくなされていて、
法律をその「正義」に近づけようとする社会的な傾向がある、ということではないでしょうか。
(その「正義」の多様性を認めない場合には、極端に走って怖いことにもなるが。)
個人の行動が「恥」であるかどうかは、その個人の道徳律や信仰に照らした問題であって、
どういう行動をとる(とらない)が一律に「恥」である、と言えることはないと思います。
ですから、たとえば、道徳や信仰を国家が強制するような時代においては、一律の「恥」はあったでしょうね。
たとえばナチスのような全体主義国家時代においては、一定の行動(or行動しないこと)が「恥」であると、
厳しく糾弾されることがあったのではないかと思います。

いろいろ考えさせられる問題ですね。


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328. Re: わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2008/10/25(13:55)

------------------------------

たかぽんさんへ。新茶です。
.
[url:kb:323]で書きました:
〉主観の新茶さん、こんにちは。たかぽんです。(「takapon」です。(笑))

〉〉たかぼんさんへ。主観の新茶です。

〉〉 上記した西欧の理念に依拠する限り、一定の国の政策が妥当でないと判断した場合には、SSS上においても、各々が提案し、話し合い、一定の方向性を決定し、共同して、適法な方法で、実際に言動に移すことが必要となる。

これは、古田さんの見解です。

〉〉 それは、恥ずかしいことではなく、したくなければしなくてよいことでもなく、逆に、たとえば、はじめから無力とあきらめ、愚痴等をもって批判に対置していることが、または、無関心であるか、関心があっても適切な言動に移していないことが、恥ずべきことである。

古田さんの見解では、最後の「は、恥ずべきことである」は、「は、妥当とはいえない」という程度のものであって、「は、恥ずべきことである」とは述べていない。

これは、私の見解であり、かつ、上記理念を理解する人の一部の考え方である。

「恥」という言葉は、神への、または、人類へのと考えるだけで、非難とは、結びつていない。

しかし、日本でいう「恥」は、人によって、非難と結びつく、相当性を欠く言葉である。
よって、私も、別の言い方をしたほうがよいと考える。

しかし、その言い方にとらわれず、意のあるところを汲まれたい。

〉それは新茶さんのお考えであり、古田氏の本では「恥ずべきこと」とは書いていなかったと思います。
〉(しかし、私が読み落としているだけかもしれませんので、該当箇所があればご指摘ください。)
〉古田氏がおっしゃっているのは、実際の法を「正義」に近づけようとする理想主義が西欧にはある、までだったと思います。
〉個人の、愚痴ることや無関心が、「恥ずべきこと」と西洋全体で見なされている、とまでは言えないのではないかと思います。
〉法改正のために本来とるべき適切な言動、というのが何なのかがよくわかりませんが(デモや陳情?)、
〉現に、どうしてこんな法律があるんだーなどと西洋人が(デモや陳情もせず)愚痴ってるシーンは当然に多数あるでしょうし、
〉今や膨大な量になってしまっている現代の法律に無関心であるからといって、それが「恥ずべきこと」であるという感覚が
〉一般であるとは言えないと思います。法律を知っていないと不利益をこうむることがある、というだけで。

〉そもそも、よくわからないのですが、西洋における「恥」の観念は、道徳的・宗教的なものであって、
〉良心にもとるとか、神の教えに反する(神との契約に反する?)、ということだと思います。
〉現在の法律に不満を持っているが、デモや陳情などの行動をせず愚痴るにとどまったり、
〉現在の法律に無関心でいることが、良心にもとるとか、神の教えに反する、とまでは、
〉必ずしも言えないのではないかと思います。

〉西洋では、伝統的に、「正義」とは何かという議論が非常に膨大に細かくなされていて、
〉法律をその「正義」に近づけようとする社会的な傾向がある、ということではないでしょうか。
〉(その「正義」の多様性を認めない場合には、極端に走って怖いことにもなるが。)
〉個人の行動が「恥」であるかどうかは、その個人の道徳律や信仰に照らした問題であって、
〉どういう行動をとる(とらない)が一律に「恥」である、と言えることはないと思います。
〉ですから、たとえば、道徳や信仰を国家が強制するような時代においては、一律の「恥」はあったでしょうね。
〉たとえばナチスのような全体主義国家時代においては、一定の行動(or行動しないこと)が「恥」であると、
〉厳しく糾弾されることがあったのではないかと思います。

〉いろいろ考えさせられる問題ですね。


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331. Re: わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/25(15:24)

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主観の新茶さん、こんにちは。

〉〉〉 上記した西欧の理念に依拠する限り、一定の国の政策が妥当でないと判断した場合には、SSS上においても、各々が提案し、話し合い、一定の方向性を決定し、共同して、適法な方法で、実際に言動に移すことが必要となる。

〉これは、古田さんの見解です。

そうですか?
どこに書いてありますか? ページ数だけでもお願いします。

〉〉〉 それは、恥ずかしいことではなく、したくなければしなくてよいことでもなく、逆に、たとえば、はじめから無力とあきらめ、愚痴等をもって批判に対置していることが、または、無関心であるか、関心があっても適切な言動に移していないことが、恥ずべきことである。

〉古田さんの見解では、最後の「は、恥ずべきことである」は、「は、妥当とはいえない」という程度のものであって、「は、恥ずべきことである」とは述べていない。

「は、妥当とはいえない」というようなことも、古田氏は書いていますか?
西洋には実際の法を「正義」に近づけようとする理想主義の傾向がある、
という事実を述べられているだけで、日本と西洋とどちらがいいかという問題には、
言及しておられないように思うのですが?
もし言及しておられるような箇所があれば、ページ数をお示しください。

〉これは、私の見解であり、かつ、上記理念を理解する人の一部の考え方である。

いえ、新茶さんは「西欧の理念」を誤解されていると思います。
上に書かれている理念は、つまり民主主義のことだと言えると思いますが、
国家など権力が民主主義的に運営されなければならないということ、これは今の西欧の理念の一つだと思いますが、
だからといって、個人が無関心であったり愚痴だけ言ってることが妥当ではない、とは必ずしも言えないと思います。
つまり、それは「西欧の理念」だとは言えない。
すなわち、個人が法律に関心を持たなければならないとか、法律に不満があれば行動(デモとか陳情?)を起こさなければならない、
といった行動律が「西欧の理念」だとは言えないと思います。
何かしないと実際上の不利益を受けることがあるから行動する、というだけのことで。

〉「恥」という言葉は、神への、または、人類へのと考えるだけで、非難とは、結びつていない。

えっ? いや、「恥」という言葉は、もろに、非難と結びついた言葉でしょう。

〉しかし、日本でいう「恥」は、人によって、非難と結びつく、相当性を欠く言葉である。
〉よって、私も、別の言い方をしたほうがよいと考える。

「恥」という言葉は、西洋であっても日本であっても、非難に結びつく言葉だと思います。
ただ、何に対する「恥」かで、大きく異なるのではないかと思います。
大ざっぱに言えば、西洋の場合は宗教的な道徳が元にあって、それに反する場合が「恥」、
日本の場合は、その地域・その時代etc.の「空気」みたいなものに反するのが「恥」、
ということではないかと思います。

〉しかし、その言い方にとらわれず、意のあるところを汲まれたい。

どのへんに新茶さんの意があるのかはよくわかりませんが。。。


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