ラテン語のはなし(2),逸身喜一郎著,大修館書店。日本語とラテン語・英語の違い。英語とラテン語の近似性。英語となったラテン語の慣用句(イディオム)。

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2488. ラテン語のはなし(2),逸身喜一郎著,大修館書店。日本語とラテン語・英語の違い。英語とラテン語の近似性。英語となったラテン語の慣用句(イディオム)。

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2014/4/7(23:47)

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1 ラテン語のはなし(2),逸身喜一郎著,大修館書店。日本語とラテン語・英語の違い。英語とラテン語の近似性。英語となったラテン語の慣用句(イディオム)。

2 今回も,私のわかる範囲で,考えてみよう。
 日本語は,動詞と形容詞,形容動詞は,変化する品詞として,ひとくくりとなる。名詞は,変化しない。「賢い」など形容詞といわれる品詞は,「賢くない,賢ければ」などと語尾変化する。動詞と同じようにである。「きれいだ」など形容動詞という概念もある。

3 ラテン語は,名詞と形容詞が,同様な変化をするので,ひとくくりである。動詞は,名詞や形容詞とは,基本的には,別の変化をする。ここが,日本語と異なる。
 しかし,動詞も,ときに,形容詞として変化する。何たることか。動詞も,語尾変化が,名詞に近づくのである。
 形容詞は,名詞的変化である。「的」とは,名詞と全く同じ変化ではないが,至極近似しているからである。
 代名詞は,形容詞的変化であり,形容詞とは,若干異なる。否,相当,異なる。しかし,いわゆる代名詞的変化といってしまうと,何のことやら,曖昧模糊とする,と私は思う。
 名詞は,5つの変化の形態がある。そのうち,第1から第3の3つの変化が基本である。
 前置きが長くなった。迂遠な基本の説明を飛ばし,いきなり,動詞も,形容詞の変化をすることから,始めよう。

4 19話。jacta alea est. 

 前回のラテン語のはなし(1)でも出たカエサルは,紀元前49年,ルビコン川を渡った。

 元老院に振られたカエサルが,振ったサイコロは,1個であった。サイコロが複数なら,語順を変えなければ,jactae aleae sunt.となる。

 動詞の基本4形態(こういう言い方は不正確であるが,文法用語を使用しないでおく)は,jacio,jacere,jeci,jactumである。
 4つ目のjactumから,jactus,jacta,jactumが産まれ,完了受動分詞と命名される。

5 「完了」「受動」「分詞」,それぞれを説明する。

 第1に,完了であるから,「賽は,投げられた」のである。現在ではない。英語のSpring is comeや,He is gone.と同じ用法であろう。ところで,この19話ではない別項になるが,ラテン語は,完了「能動」分詞はないから,分詞を使用し,一文にする場合には,「独立奪格」などという用法が出現する。この用法は,日本語に直訳すれば,極めて,わかりにくい。「父が殺され,母が再婚した。」と,分詞構文で簡潔に表現した場合,父を殺したのは,「母」である場合が多い。英語は,独立奪格のまねごとをしている。

 第2に,完了受動分詞は,「受動」であるから,「される」「られる」と訳すが,「〜する」という自動詞に焼き直して,日本語に訳した方が,わかりやすい場合もある。「勝つ」のように,日本語は,自動詞で,目的語がなくても成立するが,ラテン語や英語は,他動詞であり,目的語がなければ,成立しないという場合もある。

 第3に,分詞は,動詞と,それ以外,つまり,名詞や形容詞の機能に二分されていることをいう。機能の内容が,重要であるが,割愛する。
 このように文法用語の定義を知り,機能を理解しなければ,文法用語を云々しても,用語自体の訳の苦心が分からないし,中身も,ちんぷんかんぷんにすぎないかもしれない。

6 34話。amantes amentes.

 「恋は,思案の外」ということわざがある。ラテン語は,だじゃれと化する。「恋」「思案」は,言葉のだじゃれ,とまではいかない。「恋は,濃い」「恋は,故意」「恋は,鯉」「恋よ,こーい,来い」なら,だじゃれになるが,意味をなさない。「恋に分別なし」。なるほど!「ゴミを分別できない者は,分別がない」。なるほど?

 ラテン語は,形容詞は,名詞化する。英語も,The rich are not always happy.などとなる。the poorで,貧乏人である。ロバート・キヨサキのベストセラー「金持ち父さん,貧乏父さん(Rich Dad ,Poor Dad)」は,「金持ち」は,「金+持つ」で,名詞+動詞の名詞化であり,「貧乏」は,名詞そのものである。英語と日本語は,形容詞が,形を変容しないで,すぐに名詞化できるかどうかで,全く異なる。

 「愛する」という動詞amo,amare,amavi,amatumの4型で,現在幹amaに,-nsを付加し,現在分詞として,amansにする。形容詞の第3変化である。amantesは,「性数格」を占うに,男性又は女性,複数,主格であり,かつ,擬人化させて,「恋している者達」である。一般には,「恋する者,分別をなくした者」と訳す。

 英語を,文章の頭から順に,戻ることなく,読むときに,「私は,愛する,あなたを,永遠に」などと,「てにをは」付きの日本語に,脳内変換することに慣れ,ラテン語を読む際に,ラテン語の「性数格」を把握しないで,常識で,「てにをは」を付けて理解していると,そのうち,少し進んだラテン語を理解できなくなると,著者の逸見は,忠告し助言する。もっとも簡略な例で言えば,Cleopatram amat Antoniusは,アントニウスが,クレオパトラを愛しているのである。約12年間の長きも。否,12年で,ローマに,生木を裂かれることなく,2人とも死んだ。

 omnis amans amens「およそ恋する者は,分別をなくした者」は,単数表現である。

 なお,amentes,amensの方を略説すれば,aは,否定。mens,mentis,feminineである。その心が分かったであろうか。労働意欲は,mentalメンタルな問題でもある。英語のmanagementは,「経営は,心である」ことを示している。なんちゃって。

7 38話。Carthago delenda est. 

 カルタゴCarthago,Carthaginis,feminine。

 ポエニ戦争のPoeniは,フェニキア人(複数)を指す。単数主格のPoenusが,複数主格で,擬人化される。p→fは,グリムの法則で理解できる。

 「〜されるべきである」は,義務ないし必要を表す日本語表現であり,かつ,受動である。日本語は,案外,受動を好む。「おまえは,〜すべきである」という能動より,婉曲で,柔らかいからだ。

 ラテン語は,述語にも,名詞修飾にも使う。「君が生かされるべき場所は,ここしかない」というように,日本語は,名詞修飾の自然な用法は,なかなか,思いつかない。

 動詞deleo,delere,delevi,deletumにおいて,現在幹deleにndumを付加し,delendum,「滅ぼすこと」という能動の意味の動名詞を作成する。それが,delendus,delenda,delendumで,動形容詞となる。第1,第2変化の形容詞と同じ変化である。わかりやすい。

 数学の証明終わり,「そのことが,証明されるべきであった。」のQ.E.D.は,quod erat demonstrandumである。基本4形は,demonstro,demonstrare,demonstravi,demonstratum。英語は,demonstrate,demonstrationである。

 あわれか?,クレオパトラ,ホラーティウスの品性や如何,「今こそ,酒が飲まれるべきだ」とは。nunc est bibendum. ビールを飲もう♪♪。4形は,bibo,bibere,bibi,potum。キリン・ビバレッジ(KIRIN Beverage)は,東証一部上場メーカー。beverageのveは,ラテン語から,フランス語を経由し,英語になるのに,b→vの子音変化がある。

 「国家を再建するために」を直截に,ad constituendum rem publicamならば,日本人にわかりやすい。しかし,逸見は,ラテン語の自然な表現は,ad rem publicam constituendam なのだという。順序の入れ替えだけでなく,dumと,damの違いが,大事だ。動名詞は,目的語を取る。わかりやすい。しかし,動形容詞である。受動の必要性の機能と意味だ。日本語の直訳は,不自然だ。

8 第8話。omnia vincit Amor, et nos cedamus Amori. また,恋だ。

 逸見氏の話は,恋でなければ,死だ,「いとし(いと死),こいし(恋死)」だ。逸見氏は,この課で,私が冒頭に述べた「単語の分類」を説明する。既に述べたから,割愛する。

 omnis,omne(男性女性,中性)は,第3変化の形容詞である。「全ての人のために」は,男性複数与格で,omnibus,オムニバス,ここから,omniを割愛し,bus,あろうことか,英語で,「乗り合いバス」になってしまった。同じオムニバスでも,中性の複数与格が,映画のオムニバス編である。

 「恋は,万物に勝つ」。vinco勝つは,他動詞であり,基本形は,以下,vincere,vici,victumである。amor,amoris,m.である。最初のamorは,主語となる。後半のamoriは,amor,amoris,amoriという3番目のもの,いわゆる与格であるのは,cedo,cedere,cessi,cessumという動詞からである。「我々は(nos),恋に,道を譲るべきだ」。そこに意思が表現されている。よって,「cedamus」という現在1人称複数の接続法となる。直説法なら,cedimusである。

 上記1行のラテン語は,ヘクサメトロスという韻を踏んでいる。

9 4話。non enim solum ipsa fortuna caeca est, sed eos etiam plerumque efficit caecos, quos complexa est.

 恋は,盲目。 Love is blind.じゃない。女神は,盲目であった。また,擬人法だ。形容詞の第1第2変化だ。これで,変化の説明は,終わりだ。残っている応用は,多いだろうが・・・。

 英語でおなじみの単語も多い。ただ,形容詞caecus,caeca,caecumは,英語では,blindが,代用してしまって,わずかに,caecitis,caecum,cecitis,cecumのみ,残っている。盲目のヤモリcaecilianも,そうだろう。

 英語に私訳せば,Because fortune herself is not only blind but also almost makes them blind , whom she has loved.である。

 英語は,not only 〜but also〜,ドイツ語は,nicht nur 〜sondern auch〜,フランス語は,non seulement 〜mais aussi〜,ピッタリ,non solum 〜, sed etiam と同じ用法がある。まねが,すごい。英仏独とも,ラテン語のまねが。それとも,この形態は,インドヨーロッパ語族共通の慣用法か。

 ipsaは,ipse,ipsa,ipsumという代名詞の一種である。強意の代名詞である。英語で言えば,himselfの類である。驚異である。性数格は,一致させねばならない。脅威である。

 eosがある。eus,ea,eumという形を想像すれば,形容詞的変化を類推できる。実際は,is,ea,idである。単数の属格と与格が,ほかの代名詞と同じく,独特の代名詞的変化をする。その変化の論理は,忘れにくい。しかし,同じ変化形が,重複する。そこが問題だ。しかし,eosは,男性複数対格しかない。

 中性単数主格から,id estは,略語,i.e.とする。すなわち,that isである。
 Idは,isdemである。女性なら,eadem,Edのはずである。英語に,identityがある。ibidは,ibidemである。日本の東証一部上場会社のイビデンは,社名変更前,揖斐川電気工業株式会社である。全く関係がない。

 quosは,前にやった。Domine,quo vadis?疑問詞も接続詞もあるが,ここは,関係代名詞qui,quae,quod で覚えるのが,正しいようだ。その変化は,当然のことながら,ここでは,省略する。

 私は,いつまで,記憶し続けられるだろうか?その変化を。やがて正確な記憶は,遠のいても,変化の論理くらいは,死ぬ最後まで,覚えていたいなあ。

10 12話。materiam superabat opus.〜に勝る,supero,superare,superavi,superatumは,amoと同じ,最も基本的な,第1類型である。

 主語は,opusである。以下,operis,neuterである。これからする仕事と,できた仕事=作品の双方の意味がある。英語のactが,ago→actumに由来するから,結果を表現するのみであるのと異なる。

 ベートーベンの作品131は,opus131,略して,op.131と記載する。operaオペラは,歌劇であるが,複数主格である。

 素質もすばらしいが,技量=努力によるは,もっとすばらしい。そう言われたいものだ。そう言われたくない人は,さしたる業績はない。何も,料理や芸術を指すのみではない。人の生き方の問題である。

 英語に慣用句として入った,magunum opusは,畢竟の大作である。関連する英語は,material,operationなど。

 superatに,baを挿入し,superabatとする。時制は,半過去(未完了過去),現在,未来という現在幹の群と,過去完了,完了,未来完了という完了幹の群に,二分される。baは,英語のbe動詞とつながりがある。存在を表現する。ラテン語は,baを,半過去に使用する。ラテン語において,物語は,半過去で停滞し,完了で進行する。

11 23話。hoc opus,hic labor est.また,opusだ。

 アエネーアースは,黄泉の国に行って,これから仕事をしなければならない。その仕事とは?

 いやはや,成り余まれるもので,成り合わぬものを差し塞いだなどという程度で,幸せだった若いころの蜜月時代は,日本でも,良かった。その後の交際状況と,交際結果は,古事記と,アエネーイスでは,違う。交際の結末として,黄泉の国のディードーの記述は,古事記の黄泉の国のイザナミノミコトの記述に比べ,圧倒的に少ない。元来,アエネーイスと古事記では,全体的に,風土が違うとあらかじめ慮って読むべきである。自国の風土(政治,経済等の人間社会を含む)を知悉して,はじめて外国語や外国の風物を堪能できるのではないか。ああ,ここでは,そんなことが主題ではない。

 これ,それ,あれ,どれ。ここ,そこ,あそこ,どこ。こういう遠近感は,ある程度,万国共通であろう。hic,haec,hocは,hus,ha,humを考える。これに対し,あれ,ille,illa,illudは,illus,illa,illumを考える。「それ」は,どうするか。既に述べた。慣用句として,ad hocは,「今回,特別に」,「そのときだけ臨時に」などの場合に使う。

12 27話。Quid aliud est mulier nisi amicitiae inimica.苦沙弥先生の質問である。

 夏目漱石の「猫」は,寺田寅彦を模した寒月君の縁談失敗談(失敗して良かった談)である。もっとも,「猫」は,半分,実話,半分,創作らしい。寺田寅彦の随筆集中,「どんぐり」は,悲しい。実在の奥さんは,蒲柳の質であったのか,寅彦にとって,「災害は,忘れようにも,忘れられなかった」のかも知れない。ただ,後に再婚したと記憶する。また,脱線した。逸見氏のように,洒脱に脱力できたか? そんなことは,ここでは,どうでも良い。

 こういうラテン語文の構造は,日本語にない。不自然である。
 alius,alia,aliudは,「他の」という代名詞的形容詞である。
 quid,mulierは,既出した。

 amoから,amicus「友人」,第2変化,amicitia「友情」,第1変化へ。in+amicus,inimica,「敵」は,第1変化。英語のenemyと同じ造りである。

 AとBとの関係が云々され(以下,Xという),CとDとの関係が云々され(以下,Yという),同時に,XとYとが,比較される。こういう比較は,ラテン語の特徴であり,日本語では,不自然な表現になるほかないといえるが,後世,くだって,英語に採用され,今は,格調高く,粋な表現に使用される。

 九鬼周造の「いき(粋)の構造」の冒頭部分(私の言葉で言うと,たとえば,言葉の相対性の不可避性)を理解できなければ,そもそも,外国の言葉というものの構造や機能など,理解できないのではないか。

13 26話。(1)alii,alia. (2)inter alia.

 他は,いざ知らず,私は,どう考えるか。第1及び第2変化の形容詞と同じであると論理的に考え,alius,alia,aliumを想定する。実際は,alius,alia,aliudである。そして,多少の代名詞的変化がある。

 alli,aliaは,たとえば,集団が,ABCに分かれていて,A派の人々は,aという道を行く,B派の人々は,bというやり方をし,C派の人々は,cという方法を採るという場合である。各人各様,十人十色,蓼食う虫も好き好き,個人バラバラ,という場合には,本来,使えない。なぜなら,aliiは,男性複数主格で,aliaは,女性単数奪格である。複数の男性が,単数を従えた形だからだ。aliaの次に,viaだったかどうかは別として,一定の女性名詞が省略された慣用法だからだ。でも,英米人は,使っているだろうな,各人各様の意味に。

 aliud alii natura iter ostendit.なら,各人各様で良い。この場合のaliiは,同じaliiでも,なんと,男性単数与格だから。一人の男に,ある方向の道を,示しているに過ぎない。

 ラテン語は,格変化のほとんどない英語と比較し,性・数・格により,語尾が一々変化するが,それでも,同じものがある。覚えるときは,その分少ないが,理解するときは,どれなのか,かえって,災いする。英語にたとえると,名詞か動詞か,流れがわからない場合と同じようなものだ。だから,aliudも,alii も,形の上では,主語になるが,実は,文の内容から,naturaが,主語である。aliud iterは,つながり,対格,つまり,目的語となる。

 ラテン語の英語慣用句は,英語をたくさん読んで,自然に覚えようったって,そうは,イカの金玉であろう。ラテン語の仕組みを知らずに,そうそう,覚えられるものか。それができると嘯くのは,ウソブクブクのタコ入道,夜郎自大である。

 次,行こう。英語のalternativeを遡ると,ラテン語のalterに辿り着く。二者択一を意味し,3つ以上の選択肢がある場合に使わない。真の友は,alter idem=もう一人の自分である。英語は,alter egoで,辞書に載る。副詞aliasは,英語で,「偽名,別名」。alienは,英語で,自分とは別の他の人,さらに,外国人,異邦人から,遂に,現代で,宇宙人の意味にまで昇格。alibiは,英語で,アリバイ。では,バイバイ。いや,今回も,まだ,早い。

14 28話。nullius addictus iurare in verba magistri.

 この文章のうち,英語に入った単語は,見当が付くだろう。とはいえ,私は,まだ,この文章は,わからん。逸見氏の解説では,わからんかった。私は,逸見師のことばに,わかったふりをすべく,縛られていない。私は,この文章の主語が,男性の「私」ではないかと思う。それで良いなら,わかったことになる。しかし,自信がない。だから,わからんものは,わからん,といっておく。こんな短い文章でも。なぜなら,この文章には,主語も,述語も,欠けている。あるのは,形容詞addictus,それに,形容詞を修飾する,動詞の不定詞iurare,それに in nullius verba magistriという前置詞構文があるのみだからである。nulliusは,語形からして,主語では,あり得ない。

 ラテン語は,単語の語尾変化という構造の変化で,単語の機能が異なり,また,単語同士が遠く離れていても,同じ語尾変化で,結びつき,修飾することを把握しなければならないから,語尾変化の構造と機能を理解しなければ,全く,解読不能であろう。かつ,それが,一応解読できたからといって,ラテン語のあらゆる構造と機能の完全理解は,難しいことだし,著者独自の単語の意味の相対性があるから,分かるとは限らない。

 nullus,nulla,nullum=no,not anyであり,solus,sola,solum=onlyであり,unus,una,unum=oneであり,totus,tota,totum=wholeであり,neuter,neutra,neutrum=neitherであり,uter,utra,utrum=eitherであり,alter,altera,alterum=otherであり・・・・・・。

15 25話。キケロの文章である。「友情について」。

 逸身氏の引用文が長い。まだ,続くのか。次回に続け,ここは,サヨナラ,と自分でも言いたくなる。そういえば,この25話は,強意代名詞ipseの話題だ。もう,述べた,既出だ。やーめよ。

 この本の中から,英語に入った慣用句のみ紹介する。

 ipso facto。His innocence was proved ipso facto.私の論理では,byやto beは,不要である。なぜなら,奪格という形態のみで,理由の表現として機能すると思うからだ。ipse dixit。独断かな。

 inter se。They insisted on doing those things inter se. いくら自分たちの間でも,本来は,「我々の間だけで」「君達の間で内々に」というのに使うのは,seの3人称性から,おかしいと思う。

 per se。sui generis。Her tallent in music is exellent per se. She has sui generis charactor. sui generisの位置は,genus,generis,n.で,属格だから,独特な特殊な配置ではなく,ここで良いと思う。

 英作文は,私が作ったものだから,大目に見てね。正しい論理というものは,合理的推論であって,私の中では,いつでも,反証を許容すべく,論理立てているに過ぎないのだから,ね。英作文は,論理展開の一つに過ぎないのさ。たとえ,瞬間的反射的に出てくる場合でさえ,誰でも。ご自分で,良い作文例を考えてね。

 25話の例文,一応,書いとこ。

 ipse enim se quisque diligit,non ut aliquam a se ipse mercedem exigat caritatis suae,sed quod per se quisque sibi carus est.

                                                       第2回 終了

  8月11日投稿し,誤字等若干を訂正した。

  本日,読み返したら,ラテン語の綴りミスが見つかった。まだ,探せば,ミスはあると思うが,もう直す気はない。

  平成26年4月7日,著者名が,逸身ではなく,逸見と間違っていることに気が付いて,訂正した。大変,失礼をした。

       


▼返答


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