[掲示板: 〈過去ログ〉音のこと何でも -- 最新メッセージID: 3373 // 時刻: 2024/11/24(18:52)]
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お名前: 慈幻 http://mayavin.txt-nifty.com/labotadoku/
投稿日: 2005/6/24(00:59)
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どうも慈幻です。
〉こんにちは、バナナです。
〉面白そうなので、多少コメントいたします。
早速のコメント、どうも有難う御座います。
〉〉1 英文を黙読する。
〉〉2 「英文の視覚像」として入力。
〉〉3 「英文の視覚像」を「英文の聴覚像」に変換。(「脳内音読」)
〉〉4 「英文の聴覚像」を「和文の聴覚像」に変換。(「翻訳」)
〉〉5 「和文の聴覚像」を「具体的な身体感覚」に変換。(「理解」)
〉〉(1 犬が出てくる絵本のページを読む。
〉〉 2 「Dog」という「映像」が入力。
〉〉 3 「ドッグ」という「音声」に変換。
〉〉 4 「いぬ」という「音声」に変換。
〉〉 5 「犬」を撫でた手触り、顔を舐められた感触、抱きしめた時に感じた体温などを思い浮かべる。)
〉〉多読に慣れてくると、徐々に、4の「翻訳」の処理は必要なくなります。
〉〉そして、「速読ができる人」は、3の「脳内音読」の処理も必要ないということになります。
〉〉つまり、「Dog」という「文字」を見た瞬間、直接に自分の優位な感覚へ変換できるようになっている訳です。
〉ここ、納得というところもあり、多少違和感があるところもあります。
〉納得!なのは、上の5の説明。
〉なるほど!と思います。
〉違和感について、うまく説明できるかどうかわかりませんが。
〉上の「入力装置」〜「基本アプリケーション」までに一応区分できると
〉しても、その一連の装置+アプリケーションは、
〉私のイメージでは
〉『「日本語用のもの」と「英語用のもの」は、それぞれ別にある』
〉のです。
〉慈幻さんはどのように捕らえていらっしゃるでしょうか?
私の考えでは、当初は「日本語用のもの」しか存在しなかったのが、
大量の英語に触れている内に、「英語用のもの」が出来上がってくる
のではないかと考えています。
その意味で、多読実践者で、それなりに読まれた方については、「英
語用のもの」が出来上がりつつあるか、既に出来上がってるのではな
いかと推測しています。
〉多読やシャドウイングを通して
〉・入力装置(耳、目)や出力装置(口や手?)だけを
〉 アプリケーションやOS(英語を英語として処理する能力)と
〉 切り離して強化することはできないなし、そのまた逆もそうなの
〉 ではないかな
〉と思うようになりました。
〉多読とかシャドウイングをしてるうちに、
〉すこしずつそれぞれのレベルが上がっていく
〉(分析能があがっていく?解像度が上がっていく)
〉そんなイメージがあります。
入力装置や出力装置だけを強化することができるとは私も思っていま
せん。
私の表現が悪くて誤解されたと思うのですが、要は、「多読」で「入
力装置」と「演算装置・記憶装置」を鍛えたとしても、それがそのま
ま「出力装置」へのリンクを鍛えることになる訳ではない、というこ
とです。
と言うのも、脳機能障害とかの研究ですと、失語症にも色々と種類が
あり、ある程度は機能分化が起こってるというのが定説になっている
からです。
例えば、ウェルニッケ野に障害が起こると、他者が話している言葉は
理解できなくなりますが、自分が話すことはできます。
逆に、ブローカ野に障害が起こると、他者が話している言葉は理解
できますが、自分では話すことができなくなります。
このような例を考える限り、
入力 − 演算・記憶
と
演算・記憶 − 出力
はある程度機能的に分化しているため、一方ができるようになる
からと言って、自動的に他方ができるという訳ではないのではな
いかと考えています。
実際、英語に関しては、私は400万語近く読み、読む分には全
く支障はありませんし、聴く方にもそれなりに効果は出てると思
いますが、話す方には特に何の効果も感じてないからです。
〉1.慈幻さんのおっしゃる「入力装置〜アプリケーション」は
〉 別々というよりは、一体のものであり、僕としては
〉 『一体のシステム』としてイメージしている。
ですから、「入力装置−アプリケーション」は一体と言えるかも
しれなくても、「アプリケーション−出力装置」は別物となって
いる場合もあるし、
〉2.「日本語用のシステムと英語用のシステムは、別である」
「英語用のシステム」が別と言えるまで確立されてるかどうか、
またその確立の程度や性能は個々人によって違う、というのが、
私が主張したかったことです。
〉僕は、シャドウイングをインプットの訓練としてやってます。
〉「発音がよくなると、耳がよくなる」という意味で。
そこに関しては、私がシャドウイングができないため、よく分か
らないところです。
ただ、現象面から考えると、シャドウイングの訓練は、
1 「音」そのものとして集中して「聴く」
2 聴いた「音」をそのまま「口」で再現しようとする。
3 「入力−演算・記憶」と「演算・記憶−出力」との間のリンク
を強化する。
という独自の3つの側面があるにも関わらず、それらの側面が無自
覚に混同されていると言う印象を持っています。
シャドイングには、「聴く」訓練も含まれているのだから、イン
プットの訓練になるのは当然という気もするのですが、その辺は
どうなんでしょうか?
〉その理由なのですが、
〉「なんで面白いのかが分からない」
〉っていうのが、理由じゃないかなと思ってます。
〉僕、シャドウイングを始めてからしばらくは、
〉やったり、やらなかったり。
〉だってね、あまり面白くないのですもの。
〉「快感」がよくわからなかった。
〉でも今は「私のシャドウイングの快感って何なのか?」っていう
〉のが見つかったように思っています。
〉一言でいうと「音(まね)の楽しさ、音を出す快感」です。
〉(あくまで僕の場合ですけど)
〉振り返ってみると、この快感は、いろいろな音を聴いてみて
〉すこしずつ「ああ、これはいい音だな」とか「ああ、この
〉声はかっこいいな」とかそういう経験を積み重ねてきて、
〉そういう「快感」という気持ちになるということを「獲得してきた」
〉ように思っているのです。
〉「ああ、この快感は、1年前の僕に、分かれというのは、やっぱり
〉 無理だよな。」と。
そうなると、シャドウイングとは、「音」に関する感覚、つまり、
「聴覚」が優位な人向けの訓練であることになり、私のように「聴
覚」がそれほど優位でない人には向いてないということで、私の主
張に同意頂けるという理解で合っているでしょうか?
〉〉1 メロディーも、歌詞も簡単
〉〉2 でも、リズムもメロディも綺麗
〉〉3 さらに、歌詞が喚起するイメージも綺麗
〉〉という、独断と偏見と趣味による「多唱三原則」をでっち上げ、「英語で歌おう! ポップス編」なんかを参考にしながら、
〉おおー、いいですね。
〉「多唱3原則」は「英語カラオケ:歌選択の3原則」としても
〉つかえそうですね。
〉〉1 メロディーも、歌詞も簡単
〉 ->僕にもできる
〉〉2 でも、リズムもメロディも綺麗
〉 ->僕の下手な歌も、カバーしてくれる
〉〉3 さらに、歌詞が喚起するイメージも綺麗
〉 ->歌に酔えば、なにも怖くない
〉ってどうでしょう。
そうですね。バナナさんがおっしゃるとおり、「歌選択の基準」と考えた
方が妥当ですね。
そうすると、「多唱三原則」としては、
1 下手糞で当たり前と開き直ろう
2 間違っても気にしない
3 自分が楽しければそれでOK
とかの方が良いでしょうか?(笑)
以上、要件のみですが、今回はこれで失礼します。
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