「停滞」の区分についての試論

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6076. 「停滞」の区分についての試論

お名前: 慈幻 http://mayavin.txt-nifty.com/labotadoku/
投稿日: 2005/7/4(22:18)

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どうも慈幻です。

"ありあけファン"さんは[url:kb:6012]で書きました:
〉みなさん こんにちは
〉ありあけファン@214万語(多読)/3万3000語(多聴)です

先日は、私の拙い論考に貴重なコメントを頂き、どうも有難うございま
した。

特に、「シャドウイング」と「キャッシュメモリ」(作業記憶・短期記
憶)の関連性というのは、私には全くの「盲点」だったので、非常に参
考になりました。

>今日,停滞を脱出したようです.
>5月半ばよりやや停滞状態で,特に6月18日からは語数的にはほぼ
〉完全に停止していました.
>今回は,1ヶ月以上の規模なので,久々の(たぶん1年ぶりの)中規
〉模の停滞です.

停滞脱出おめでとうございます。

状況からすると、後述する「三つ目の停滞」だったのではないかと推
測されます。

>停滞脱出のきっかけとなった作品は,ORT1の『At School』でした.
>何気なく手にとって,ペラペラとめくったのが引き金になりました.
>見る(読む)だけでは物足りなく,CDをかけてシャドウイング!
>そのまま,次々とORT1全部とORT1+,ORT2,...,と
>シャドウイングを混ぜながら,気が付いたらORTを何十冊も読んでしまっていました.

非常に興味深い報告です。

本に呼ばれて、その本が引き金になるというのは、潜在意識の情報が顕在
意識へ上昇する「活性化」の典型例のように見受けられます。

>今回の発見は,
>1.停滞は必ず(いつの間にか)やってくる
>2.停滞はひょんなことから簡単に脱出できる
>3.停滞によって新しい世界が広がることもある
>という,「停滞三原則」のようなものです.
>
>このうち,3番目の件ですが,
>久々に行ったシャドウイングがなんと新鮮なこと,新鮮なこと!
>そして,以前は unlearn がうまくいかなくて,どうしても自然に発音
〉できなかったところがどれもこれも,難なく流すことができ,よりス
〉トーリーの中に入っていきやすかったです.
>これは大きな驚きでした.

はい。これも興味深い報告です。

恐らく、「停滞」の間に、脳内のネットワークが再構成され、より最適
化されたネットワーク構造が形成されたのではないかと。

>これを機に,また多読の楽しみがひとつ,増えました.

はい。是非、そのまま楽しんで、私には理解できない「シャドウイング」
の世界を「垣間見る」助けとなって下されば幸いです(笑)

●「停滞」の区分に関する試論

(ひまぞさんや真空管さんなどと議論した内容を、私なりにまとめてみ
たものです)

多くの報告例で、「停滞」と一くくりにしてますが、実際は、幾つかに
区分すべきではないかと思います。

一つ目は、「一時的な肉体・心理的不調が主要因であるもの」。

これは、無理せず、最低でも1日、場合によっては3日から1週間くら
い休み、体力や気力が回復してから再会すれば良いでしょう。

二つ目は、「不安や恐怖など、否定的感情が強まることで『心理的障壁』
が発生し、学習効率が著しく低下・消滅したことが主要因であるもの」。

この場合、「ただ休む」だけでは、却って不安や恐怖が増幅されることも
あるので注意が必要です。

注意深く話を聞き、どのような「否定的感情」があるかを把握し、その
「否定的感情」を丁寧に解きほぐすという、非常に地道で気の長い作業
が必要な「停滞」で、恐らく、「多読挫折」の主要原因はこれではない
かというのが私の予測です。

ただ、残念ながら、このような「否定的感情」はなかなか口にすること
はできません。

従って、潜在的には非常に多くの人がこのような「否定的感情」を抱え
ていながら、報告例として目にすることは少ないのではないかと。

ちなみに、一つ目の「停滞」が、「だるさ」や「疲れ」のような体調や
気分に関する訴えが特徴だとしたら、二つ目の「停滞」は「不安」や
「焦り」、「恐怖」や「諦め」などの「自分の能力」に関わる訴えが特
徴という差異があるように見受けられます。

そして、三つ目は、学習曲線が一時的に定常状態に達する「プラトー現
象」、即ち、学習のレベルが非連続的に飛躍する前の、「脳のネットワ
ークの再構成が主要因であるもの」。

勿論、現実には、この三者は同時発生したり、あるものから別のものに
変化したりなどしているでしょうが、「モデル」としては、この3つに
区分できるでしょう。

自己分析や相談されてアドバイスする時には、これらが「目安」として
役立ってくれるのではないかと思います。

なお、この三つの「停滞」のうち、最も問題にしなければならないのは、
当然、二つ目の「否定的感情が原因となる停滞」です。

恐らく、この「二つ目の停滞」に対する「処方箋」をどれだけ充実させ
ることができるかが、「多読」の学習法としての価値を決めると思いま
す。

では、その「処方箋」を考える上で、何が重要でしょうか?

私は、学習手法や学習対象と学習者の「相性」をもっと重視すべきでは
ないかと考えています。

「多読」に限らず、「学習中に理解がすすまない、いくら考えてもわか
らない」、という状態になることがよくあります。

この状態は、

「学習者の能力がない」

のではなくて、

「学習課題や学習手法が学習者の状態と相性が悪い」

と考えるべきです。

と言うのも、多くの場合、学習者の状態(適正や習熟度)を無視した学
習課題や学習手法の提示が往々にして行われているからです。

「立つこともできない人間に、いきなり宙返りをやれ」と要求すること
は適切でしょうか?

「演歌とジャズの聞き分けすらできない人間に、いきなり作曲しろ」と
要求し、1フレーズすら作曲できなかったとして、それは「学習者の努
力不足」と言えるのでしょうか?

残念ながら、「学習の失敗」=「挫折」が発生した場合、現状では、
「学習課題や学習手法の提示の仕方」が問題にされることは皆無に近
く、「学習者の能力や努力不足」に「責任転嫁」されてしまうという
ことが多いように見受けられます。

そして、このような現状こそが、多くの学習において、「挫折者」が大
量発生する「構造的原因」になってるのではないかと。

その意味で、「つまらなくなったらやめる」という「多読三原則」の
「三つ目の原則」は、もっと重視され、その意義について深く論じられ
るべきでしょう。

ただし、学習者の方にも問題はあって、「分からない」なら「分からな
い」と、「できない」なら「できない」と素直に言うべきという側面も
あるのではないかと思います。

もっとも、体面を重視する日本では、そのように率直に「分からない」
・「できない」と認めることは難しいですが・・・(苦笑)

また、「何が分からない/できないか自分でも分からない」という「自
己分析能力の未熟さ」という問題もあります。

その意味で、「分からない」ことは「分からない」と発言することを奨
励する雰囲気や、自己分析の助けとなる様々な理論やモデルを充実させ
る必要があるのではないかと思います。

以上、用件のみですが、今回はこれで失礼します。


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