[掲示板: 100万語超 報告・交流 -- 最新メッセージID: 13567 // 時刻: 2024/11/23(21:44)]
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5593. 多読開始2周年報告(長文・乱文注意。「読み飛ばし」推奨!)
お名前: 慈幻 http://mayavin.txt-nifty.com/labotadoku/
投稿日: 2005/5/8(14:03)
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どうもご無沙汰しております。慈幻です。
本日、5月8日で、多読開始2周年となりましたので、
報告します。なお、非常に長い上、英語多読とは直接
関係のない話も多いので、適当に「読み飛ばし」て下
さるよう御願いします(笑)
多読1周年で300万語を通過して以来、語数を数える
のをやめたので正確な語数は不明ですが、英語に関して
は約400万語前後と思われます。
最初の1年で300万語読んだのに比べると、明らかに
ペースが落ちてます。これは、停滞していたのではなく、
他の言語、具体的には独語に浮気していたのが原因です。
昨年の3月から独語に翻訳された日本語漫画の多読を始
め、現時点で独語版漫画200冊以上、独語児童書20
冊余りを読み、独語でも100万語を達成しました。
という訳で、この1年で、英語100万語、独語100
万語、計200万語を読了したという計算になります。
1周年目に比べて約100万語少ないですが、これは、
現時点の独語の読速が英語の読速の約半分しかないため
で、多読に費やした時間は1年目とそんなに変わってい
ないと思います。
多読2周年を経た感想ですが、英語に関しては、このま
まやって行けば大丈夫だという確信がしっかりと出来上
がり、日本語の読書に大分近づきつつあります。
そして、収穫としては、英語だけでなく、外国語一般に
対する恐怖感が薄れたこと、「多読」という方法論やそ
れを可能にしている原理についても興味が湧いてきたこ
とが挙げられます。
■英語多読編
この1年ですが、今振り返ってみると、英語に関しては、
「アカデミックへの挑戦」と「時事英語への挑戦」とい
う2つのテーマにまとめられると思います。
ただ、そのために、「易しい児童書をを開拓する」という
のはすっかりおざなりになってしまい、全く新規開拓は
出来ませんでした。
○「アカデミックへの挑戦」
まず、「アカデミックへの挑戦」ですが、これは、「英
語で人文・社会系専門書の原書を読む」という目標へ向
かう足慣らしとして、人文・社会系学問の入門書を読む
というものでした。
300万語達成した時点で、大学新入生・一般社会人向
けシリーズであるA Very Short Introductionsが何とか
読めたので、引き続き、興味のある分野を読むことにし
ました。
1冊読むのに、早くて1週間、長い場合には1ヶ月近く
かかることもありましたが、再読も含め、
3 Buddhsim (仏教)
4 Literary Theory (文学理論)
6 Psychology (心理学)
12 Sociology (社会学)
15 Antholopology (人類学)
40 Jung (ユング)
55 Philosophy (哲学)
81 Emotion (感情)
93 Linguistics (言語学)
の計9冊を読了しました。
さらに、
Teach Yourselfシリーズの"Philosophy"
Wadsworth Philosophersシリーズの"On SOCRATES"
などを読みましたが、独語多読が軌道に乗り出し始めた
9月頃から英語の本はほとんど読まなくなったため、一
時中断します。
そして、独語多読で80万語を越えた辺りから、少しず
つ、本による英語多読も再開しましたが、いきなり何万
語にもなる本を読む元気はありませんでした。
そこで、何か短くて良いのはないかと探して見つけたの
が、Postmodern Encountersシリーズです。1冊1万語
前後と語数が少なく、本自体も薄いのが特徴です。
ちなみに、このシリーズも「ポストモダン・ブックス」
とかいうシリーズ名で日本語に翻訳されているようです
が、日本語の本は1冊も読んでないので詳細は不明。
現時点で読んだのは、
"Barthes and the Empire of Signs"
"Chomsky and Globalisation"
"Dawkins and the Selfish Gene"
"Derrida and the End of History"
"Edward Said and the Writing of History"
"Einstein and the Birth of Big Science"
"Freud and False Memory Syndrome"
"Nietzsche and Postmodernism"
"Thomas Sebeok and the Signs of Life"
"Umberto Eco and Football"
の計10冊です。
なお、このシリーズは1冊辺りの量が少なく、英語その
ものもせいぜい6〜7レベル程度ですが、内容そのもの
はかなり高度です。ですから、タイトルになっている哲
学者・思想家やテーマの入門書くらいは読んだことがな
いと理解するのは難しいです。
実際、FreudとかNietzscheとかの有名どころは、予備知
識を総動員して6〜7割は何とか分かりましたが、余り
馴染みのないEdward SaidやThomas Sebeokだと、下手す
ると理解度は3割行くか行かないかというところです。
○「時事英語への挑戦」
次に、「時事英語への挑戦」ですが、これは偶然の産物
というか苦肉の策が偶々上手くいったというものです。
昨年の9月頃、独語多読が軌道に乗り出した頃から、多
読の比重が独語に傾きだすと、英語の本を読むのが億劫
になり始めました。
しかし、全く英語を読まないで独語に集中すると、せっ
かく培った英語の多読力が落ちるような気がしたのも事
実でした。
そこで、毎日、少しでも良いから英語を読む時間をつく
れないかと考えていた時、「1日1分英字新聞」云々と
いう本の宣伝をする電車のつり革広告が目に留まりまし
た。
単純な私は、そのタイトルを見て、「英字新聞の記事な
ら、1つあたりは短いから、何とか読めるのでは?」と
考え、その本を立ち読みすらせずに、「英字新聞多読」
を始めることにしました。
とは言え、現実はそんなに甘くありませんでした。試し
にUSA TODAYやNY TimesなどのWEBを覗いてみましたが、
さっぱり読めませんでした。
そこで、日本の新聞の英語版なら何とか読めるのでは
ないかと考え、掲示板で話題に挙がっていたDaily
YomiuriのWEB版に挑みましたが、これも玉砕しました。
英字新聞を読むのはまだ早いのかと諦めかけていた時、
何故か「しまうま読み」のことを思い出しました。
「邪道かもしれないけれど、日本語で読んだ記事の英
語版なら読めるのではないか?」
早速、毎日新聞の記事のチェックを担当していた私は、
毎日新聞のWEBの英語版を開きました。すると、分から
ない単語は山のようにありますが、固有名詞や分かる
単語をつなげると、その記事が日本語で読んだどの記
事に対応しているのかは何となく分かりました。
これなら、独語版漫画を始めた頃の、「1ページ辺り
数語」という語彙認識率に比べれば、理解度は明らか
に上だと考えた私は、この「新聞しまうま読み」を続
けてみる気になりました。
それから数ヶ月、毎日「新聞しまうま読み」を続けた
結果、独語版漫画多読と同じように、徐々に語彙認識
率は上昇を始めました。
勿論、これは単純な英語力の向上だけではなく、以前
よりも時事問題に注意するようになり、日本語でも新
聞やTVのニュースから積極的に情報を仕入れるように
したことによる予備知識からのフィードバックも大き
かったと思います。
気をよくした私は、再び、USA TODAYやNY Timesなどの
WEBを覗いてみました。すると、数ヶ月前に比べると、
明らかに語彙認識率は向上していました。それでも、
正直、毎日読み続けるのは厳しいと感じました。
何か上手い方法はないか。そう考えた時、何故か、
「LR」のことが思い浮かびました。
「音に合わせて読むなら、音に押されて強制的に読み
進まざるを得ないから、習慣化できるのではないか?」
その直観を基に、「Website情報の広場」の投稿を色々
と検討した結果、毎日、「Voice of America」の記事
を最低1つ、できれば3つ程度「LR」=オーバーラッ
ピングすることにしました。
最初は、音と文字が一致せず、何処を読んでいるのか
分からないことも多々ありました。それでも、「新聞
しまうま読み」も継続しつつ、毎日、「Voice of
America」の「LR」を続けました。
やがて、音と文字が一致し始め出すと、後は簡単です。
内容を理解できようが理解できなかろうが、音に合わ
せて目を動かす。これを続けていると、音の速度に合
わせて文章を読んでも徐々に理解できるようになりま
した。
現在も、この「Voice of America」の「LR」は日課と
して続けていますが、日本の新聞でも話題に上るよう
な予備知識のある記事であれば、6〜7割は理解でき
るようになりました。
そして、その理解度は、他の英字新聞のWEB版でも同
様で、USA TODAYやNY Timesの記事でも、日本の新聞
の国際面で概要を知っている記事なら何とか読めます。
また、TimesやNews Weekなどの英字週刊誌を週末に
図書館で覗いてますが、同じく予備知識のある記事
なら、6〜7割の理解度で読めるようになりました。
(なお、「LR」をこれだけやりながら、ヒアリング
もリスニングも全く試してみてないので、どの程度、
音に関して上達したかは不明です。
「Voice of America」の「LR」の理解度が8割を超
えたら、スクリプトなしでどの程度理解できるかの
練習を始めるつもりです。)
■独語多読編
「『多読』という方法論は、別に英語に限ったこと
ではない」ということは、英語で100万語を達成
したころから漠然と考えていました。ですから、当
初の予定では、英語で500万語を達成した辺りで、
独語多読に挑戦するつもりでした。
その予定が繰り上がったのは、大阪でのOFF会で、
優香さんに漫画多読の楽しさを聞き、勧誘をされた
からです。
調子に乗りやすい私は、その晩に、早速、辞書を片
手にドイツ・アマゾンに「ザールブルクの錬金術師」
と「スプリガン」の独語版を発注しました。
○独語版漫画多読
昨年の3月21日に、独語版の「ザールブルクの錬金
術師」全5巻が到着し、なし崩し的に独語版漫画多読
が始まりました。
大学時代に第二外国語で独語を履修していたとは言え、
既に文法も単語も記憶の彼方。「1ページ辺り数語」
という語彙認識率がせいぜいというのが正直な所。
しかし、天才・手塚治虫が築き上げた日本の漫画技法
は偉大でした。
台詞のほとんどを理解できなくても、「漫画の文法」
=「映像表現のルール」を把握していれば、絵を見て
いるだけで、状況や登場人物の大まかな心情は理解で
きてしまいます。
そして、作品に対する「愛」は奇跡をもたらします。
日本語で何回も読み返した作品は、絵を見ただけで、
台詞の大まかな内容や状況を蘇らせてくれるため、
絵と記憶が、未知語の意味を類推させてくれます。
とは言え、最初からそんなに上手くいった訳ではあり
ません。
昨年の3月から独語版漫画多読を始めたものの、認識
語彙率・読速ともに中々向上せず、5月辺りで、一旦、
停滞に突入してしまいます。
独語版漫画を手に取るものの、読みきれずに本棚に戻
すという時期が続きました。
この停滞から脱出できた契機は2つありました。
1つは、洋販が版権を持つ「絵で見る○○語」シリーズ
の独語版1巻を入手し、基本単語をざっとおさらいした
こと。
もう1つは、先達にして、漫画布教委員会委員長の優香
さんのアドバイスに従い、日常描写の豊富な作品、「カ
ードキャプター桜」や「ラブひな」などのシリーズを読
み始めたこと。
そして、8月辺りから、独語の語彙認識率がじわじわと
向上し始めました。絵と記憶に頼って読むのではなく、
独語で何となく意味が理解できるようになっているとい
う実感が湧いてきます。
さらに、語彙認識率の低い状況で多読を続けたことで、
「読み飛ばし」技能が磨かれることとなり、語彙認識率
の低さが段々と気にならなくなって来ます。
そうなると、独語版漫画多読が楽しくなり、英語の本を
ほとんど読まなくなりました。
そして、ほぼ1年後の本年3月21日、独語版漫画多読
で100万語を達成しました。
そして、本年4月27日、独語版漫画多読で200冊、
推定語数110万語を越え、独語版漫画多読の1区切
りを迎えました。
○独語児童書多読
独語版漫画で100万語を達成したので、独語の児童
書にも挑戦を始めています。
とは言え、いきなり独語原書児童書に挑むのは厳しい
ので、英語から翻訳された独語児童書から読むことに
しています。
独語児童書の記念すべき最初の1冊は、"Frog and
Toad"シリーズを1冊にまとめた"Das große Buch von
Frosch und Kröte"でした。
次に、Nate the Grateの独語版であるNick Naseを10
冊程読み、現在は、Magic Tree Houseの独語版である
Magiche Baumhausシリーズを読んでいます。
今後は、英語も含め、独語の易しい児童書シリーズの
新規開拓を目指したいと思っています。
■仏語多読編
独語版漫画多読が一区切りしたので、「漫画多読」の
方法論を洗練させるべく、本年4月29日に仏語版漫
画多読を開始しました。
とは言え、予算の都合や入手の困難さもあるため、仏
語版「NARUTO」の1巻と「名探偵コナン」の1巻を読
了し、ようやく1万語を通過した程度です。
取り合えず、フランス・アマゾンに発注中の本が届く
までは、適当に再読しつつ、簡単な仏語入門書を「多
読」的に斜め読みするつもりです。
仏語版漫画多読については、独語版漫画多読で培った
方法論の再検討もかねていますので、「漫画多読」に
拘らず、入門書の斜め読みやNHKのフランス語会話の
鑑賞、児童書の多読や仏語ラジオニュースの多聴なん
かも織り交ぜてみたいと思います。
■西語多読
西語に関しては、高校で1年程アルゼンチンに留学し
て以来、全く何もしていませんでした。何とか片言は
話せるようになった西語も衰えていく一方だったので
すが、それを維持する方法もわかりませんでした。
英語の多読を始めるようになって、何度か間違えて西
語の児童書を買ってしまいましたが、全く歯が立たず、
その度に本棚を飾るだけになっていました。
ところが、先日、何の気なしに手に取ったArnold Lobel
の西語版児童書が、さらっと読めてしまいました。試
しに、他のものも読んでみたところ、西語に関しては
全く何もしておらず、英語と独語の多読をしただけな
のに、何となく読めるようになっていました。
と、言う訳で、こちらもなし崩し的に本年4月30日
に児童書による西語多読を開始し、ようやく1万語通
過したところです。
こちらは、仏語版漫画多読のついでのつもりですが、
同じロマンス系の言語なので、英語や独語よりもフィ
ードバックは期待できそうです。
■今後の展望
英語・独語の多読を継続しながら、その合間を縫って
仏語版の漫画や西語の児童書を適当に織り交ぜながら
読んでいこうかと思っています。
取り合えず、外国語に対する恐怖感は大分薄れてしま
いましたし、英語と独語の読書に関しては、生活の一
部になりつつあるので、これをこのまま継続できれば
良いと思っています。
○「多言語しまうま読み」
普通、SSSの用語で「しまうま読み」と言うと、ある
作品を1巻ごと、もしくは1章ごとに日本語と英語
で交互に読んでいく方法とされています。
ただ、新聞記事などですと、全く同じ翻訳はありませ
んし、英語以外の言語でそういう読み方をするのは導
入時期にはつらいものがあります。
そこで、私がやっているのが、「全く同じ作品の同じ
箇所を時間をずらして読む」というものと、「同じ内
容を取り扱った記事を多言語で読む」というものです。
前者に関しては、例えば、「名探偵コナン」の1巻を、
日本語で読み、英語で読み、独語で読み、仏語で読む
とかいうようなものです。
ここで、重要なのは、時間を空けることです。出きれ
ば、日を変えると、「何となく内容は覚えてるけれど、
細かい文章は覚えていない」という状態になるので、
「訳読」にならずにその言語で頭に入ってきます。
実際、仏語版漫画に関しては、「語彙認識率が1ペー
ジ当り数語」という独語版漫画の多読開始初期と同じ
ですが、試しに前日に英語版を読んでみると、何とな
く話の流れを覚えていたので、心理的な負担はかつて
読んだ記憶を頼りに独語版を読んだ時よりも明らかに
軽かったと思います。
後者に関しては、新聞を利用するやり方です。例えば、
イギリスの選挙でトニー・ブレアが三選されたという
記事を日本語で読んだら、英語の新聞で読んで大まか
に内容を把握した上で、独語・西語・仏語の新聞でト
ニー・ブレアの名前を探し、その記事を分からなくて
も良いから斜め読みするというものです。
ポイントは、日本の国際面で大きく扱われている記事
を探すことで、そういう記事は大抵他の言語でも似た
ような記事があるし、見慣れた固有名詞が多いので、
「何となく分かった気になれる」ということです。
この方法は、私が英字新聞を読むために、同じ新聞の
日本語版と英語版を読むと言う「しまうま読み」の
「裏技」から着想を得たものです。少なくとも、ある
程度蓄積のある独語や西語に関しては、それなりに
効果はありそうですが、ほとんど蓄積のない仏語の
効果は未知数です。
なお、この「裏技」はある程度語数を読んで、一定
程度の言語蓄積と「読み飛ばし」技術向上がないと
厳しいと思います。
■多読論考編
多読について、私が考えた屁理屈を読んでみたいという物好
きな方のみお読み下さい(笑)
○多読と「言語獲得装置」
我々は普通3歳くらいになると片言ながらも言葉を話すよう
になります。
しかしながら、どの言語をとってみても、その文法は非常に
複雑な構造を持っており、子どもが非常な短期間で、複雑な
言語を習得することができるのはどうしてなのかを説明しよ
うとした場合、子どもの言語習得を学習によって説明しよう
とすると非常な困難にぶつかります。
例えば、私たちは、特に意識もせずに、「が」、「は」、
「に」、「へ」などの助詞を使っています。どういう場合に
「私が」がふさわしく、どういう場合には「私は」の方が適
切であるのかを我々は感覚的に理解していますが、それを系
統立てて説明できる人は皆無に近いでしょう。にもかかわら
ず、ほとんどの日本人は、誰に教えられるでもなく、それら
の使い方を自然に覚えます。
このように、我々がどのようにして「母語」=「第一言語」
を習得するのかという過程を真摯に考察することを通じて、
言語学者のチョムスキーは、言語を発話したり理解したりす
る実際のいとなみである
「言語運用」(“linguistic performance”)
と人間が言語を理解したり運用したりするための根本的な
「言語能力」(“linguistic competence”)
を区別しました。
「言語能力」それ自体は人という種に生得的に備わっており、
文化や言語の別を問わず普遍的に存在すると考えたのです。
そして、その「言語能力」の一つとして、「人は厳格な文を
産出する生得的な装置」、即ち、
「言語獲得装置」(“Language Acquisition Device”:LAD)
を備えていると主張しました。
言い換えるなら、人間には元々「言語を理解する能力」が生得
的に備わっているからこそ、短期間で母語を習得できると言う
ことであり、人間が言語を習得する為には、その言語が実際に
使用されている場に居合わせ、大量な使用例を体験するだけで
良いということです。
ただ、従来の第二言語習得研究においては、この「言語獲得装
置」を認める立場の研究者であっても、暗黙の内に、「言語獲
得装置」が機能するのは幼少時だけであり、成人の「言語獲得
装置」は機能しないということを前提しています。
しかしながら、多くの社会人が、即ち、成人が多読により英語
を習得しているという事実を考えると、多くの本を読むことで、
実際の使用例を大量に体験し、母語=第一言語を獲得するよう
に外国語=第二言語を習得することが可能だということになり
ます。
そうすると、成人の「言語獲得装置」は、実際には眠っている
だけで、適切な条件さえ整えれば機能させ得るということにな
り、従来の第二言語習得研究に対して、理論的な面でも、非常
に大きな一石を投じる画期的な方法論であるとも言えます。
○多読を開始できる条件
SSSでは、多読を始める前提として、日本の中学1年生レベ
ルの英語力、つまり、アルファベットは問題なく読めて、基
礎的な単語・文法はある程度理解していることを、「英語多
読開始の条件」としています。
これは、逆に言えば、全くの白紙状態から多読開始が可能に
なる状態までに学習を進展させる方法論は未開発であること
になります。
そして、このことが、英語以外の言語で多読をする際に意外
に大きな落とし穴になっているのではないかと思われます。
と言うのも、「日本の中学1年生修了レベルの英語力」とい
うのが、意外にあなどれないこと、そして、他の言語に比べ
て、無意識に英語に接している機会が圧倒的に多いことがあ
げられます。
第一に、日本の中学1年生レベルの英語力ですが、大学の第
二外国語の授業は、中学1年生の英語の授業に比べて、圧倒
的に時間数も宿題も少なく、訳読であれ、授業での音読であ
れ、総合的なその言語との接触量は大学の第二外国語の授業
の方が少ないです。
さらに、余程の意志力の持ち主でない限り、独学や語学スク
ールで英語以外の外国語を学ぶ場合、果たしてその接触量が
中学1年生レベルの英語力に匹敵すると言える場合と言うの
が意外に少ないのではないかと思われます。
第二に、その後、中学で3年、高校で3年、大学で2年と、
英語はずっとついて回ります。進学しないとしても、英語は
日本の社会に様々な形で関わってくるので、他の言語に比べ
ると、無意識の内に接触している量は、普通に考えているよ
りも意外に多いと考えられます。
このように考えてくると、英語以外の言語で多読を始めるに
は、その前にそれなりの言語接触量を必要とすると考える方
が妥当です。その意味で、ある言語で多読を始める場合には、
簡単な入門書で、一定の文法や単語について、予備知識を仕
入れてから、というのが現実的と言えます。
勿論、「のだめカンタービレ」のヒロインであるのだめ嬢の
ように、その場面を見ただけで、台詞や物語の状況が把握で
きるくらい熟知した作品で該当の言語での多読を始めるなら、
話は違ってくるでしょうが。
○多読と"MIE"(Manga in Education)
英語の多読においては、GRを始め、様々なレベルの学習書
が豊富に存在しますが、残念ながら他の言語はそのような
学習書は英語ほど充実していません。
また、ドイツ、フランス、スペインなどの絵本は、ハード
カバーの高価なものが多いため、多読導入に絵本を使用す
るのは、潤沢な資金を必要とし、個人で実践するのはかな
り困難です。
それに対して、日本の漫画を各国語に翻訳したものや、そ
の国の漫画は、絵本に比べれば安価で、1冊あたりの語数
もそれなりにあるため、個人で多読を実践する場合に、有
効な教材足りえる可能性を秘めています。
実際、私は独語は独語に翻訳された日本漫画だけで100
万語達成しました。翻訳の関係もあるので、単純に英語と
の比較はできないのでしょうが、ab7/8(対象年齢7、8
歳の意味)と書いてある独語の児童書がそれなりに読め
る程度には独語の読解力が向上しました。
ただ、この漫画による多読という方法論は、まだまだ荒削
りであり、とても万人向けと言えるものにまでなっていま
せん。
実際、最初の20冊くらいは、1ページ辺り数語という異
常に低い認識語彙率に耐えなくてはなりません。
これを乗り切るには、「のだめカンタービレ」のヒロイン、
のだめ嬢のように、絵を見ただけで台詞がでてくるくらい何
度も読み返した作品を導入につかうとか、他の言語で数百万
語を読んで、「読み飛ばし」技能に磨きをかけてから挑戦す
るとかの工夫が必要になります。
その意味では、全くの多読初心者に、いきなり漫画多読を薦めた
として、果たして何人が実践できるかと言うと大いに疑問です。
また、この方法論にはもう一つ大きな問題があります。
それは、漫画多読の最大の敵は資金であるということです(爆)
漫画1冊辺りの値段は5〜6ユーロ、日本円にして平均600円
程度と、英語の児童書と比べてそれほど割高と言うことはありま
せん。
しかし、如何せん日本アマゾンでは品切れが多く、勢い、ドイツ
アマゾンに発注することになります。そうすると、送料がかかる
ため、1冊平均で1000円くらいとなります。
従って、漫画多読だけで100万語を達成しようとすると、漫画
150〜200冊、即ち15〜20万が必要となります。
GRや児童書による英語多読の必要資金が10万くらいということ
を考えると、かなり割高になります。
この2点から、漫画多読については、今後、方法論を洗練させて
いく必要があると思われます。
なお、"MIE"とは、「新聞を教育に有効活用しよう」という"NIE"
(News in Education)という某新聞社の標語をもじったもので
す(笑)
○多読と語用論
「語用論」(pragmatics)とは、言語学の一分野で、一言でいえば、言
葉とその意味を、私たちが普段行っているコミュニケーションの場面
に即して、即ち、言葉の用いられた状況や文脈を踏まえて考えていこ
うとする学問のことです。
例えば、次のような会話を想像してみてください。東京に住むA君の
ところに、大阪にいる友達のB君から電話がかかってきたという場面
です。
B君 「東京の天気はどう?」
A君 「今、外は大雪だよ」
さて電話が終わった直後、A君は母親からおつかいを頼まれ、次のよ
うに答えました。
母親 「ちょっとおつかいに行ってきてくれない?」
A君 「今、外は大雪だよ」
A君の返事は、どちらの場合もまったく同じものです。しかし、その
意味はB君に対するものと母親に対するものとでは異なります。
B君への返事が意味しているのは、まさに文字通り、“今、外では大
雪が降っている”ということでしょう。
しかし、母親への返事が意味していることはそれだけではありません。
言外に、母親の頼みごとに対する拒否、つまり“おつかにいは行きた
くない”といったことも意味しています。このような“拒否”という
意味は、どう考えてもB君への返事の場合にはありません。
つまり、同じ「今、外は大雪だよ」という言葉が使われていても、そ
の意味は、状況やコンテクストによって、少なからず違ってくるので
す。
そして、まさにこの「語用論」上の「意味」を理解しようとすること
を重視し、そのことによって外国語を自然に習得することを目指すの
が「多読」だと言えます。
これに対して、従来の外国語学習においては、コミュニケーションの
状況やコンテクストに関わりなく決まる言葉の意味─「文字通りの意
味」(literal meaning)─をあつかう分野である「意味論」(semantics)
を前提とし、単語の文字通りの意味や文法規則を重視していると言え
ます。
○多読と物語論
「物語論」(Narratology)とは、文学理論の一分野で、「物語」を「言
語学」や「記号学」をモデルに、その構造や機能の観点から分析しよう
とする学問です。
言語学において、有限の「音」を一定の規則によって組み合わせること
で、無数の言葉を生み出すという事態は、言語の構成要素として、「音
素」、「語」という下位レベルを想定し、それらが「文法」という一定
の規則によって組み合わせられることで、理論的にはほぼ無限に等しい
「文」が生み出されるという事象として分析されます。
同じように、物語論においては、有限の文や絵や音を組み合わせること
で、人々に「事件」を語り、様々な感情を引き起こすと言う事態は、
「機能」や「シーン」という下位レベルを想定し、それらが「物語文法」
という一定の規則によって組み合わせることで、理論的にはほぼ無限に
等しい「物語」が生み出されるという説明を試みようとしています。
先に語用論の議論において示したように、非常に大雑把に分類するな
らば、ある「文」の「意味」は、その文が持つ「文字通りの意味」
(literal meaning)と、「文脈における意味」(contextual meaning)
とに大別されます。言い換えるなら、ある「文」は、他の「文」との相
互的な関係によってしか「文脈における意味」(contextual meaning)
は決定することができないことになります。
そして、「物語論」という観点からすれば、「物語」の構成要素たる
「機能」や「シーン」は、複数の「文」が組み合わさることで成立し
ます。従って、これらの「機能」や「シーン」も、他の「機能」や
「シーン」との相互的な関係によってしか「文脈における意味」
(contextual meaning)は決定することができないと考えるべきで
しょう。
このように考えるならば、ある作品、即ち、「物語」における一つの
「語」の「文脈における意味」(contextual meaning)はどのように
決定されると言えるでしょうか。
例えば、「起」・「承」・「転」・「結」という、4つの「シーン」
で構成された非常に単純な「物語」を想定してみましょう。
4つの「シーン」は、1つ以上の「事件」によって構成されます。
「事件」とは、ある「舞台」において、誰か/何かによって「変化」
が起きることです。例えば、「起」では、登場人物や状況を分かりや
すく「提示」するべく、その登場人物の性格や環境を象徴する「事件」
が起こります。不幸な人物なら、ちょっとしたアクシデントが起こる
でしょうし、幸福な人物なら、彼の幸福さを示すちょっとした良いこ
とが起こるでしょう。
各「シーン」は、1つ以上の「機能」によって構成されます。「機能」
とは、「事件」を構成する「登場人物の行為」や「状況の変化」を指
します。例えば、「失恋」という「シーン」は、最低でも、「意中の
ヒロインに告白する」、「ヒロインに振られる」という2つの「機能」
を構成要素として必要とします。
各「機能」は、1つ以上の「文」によって構成されます。例えば、
「告白」という「機能」は、最低でも、「あなたが好きです」のよう
な「告白」をしていることを示す「文」を構成要素として必要としま
す。
各「文」は、1つ以上の「語」によって構成されます。例えば、「あ
なたが好きです。」という「文」は、「あなた」・「が」・「好き」・
「です」という4つの「語」によって構成されています。
非常に簡略化すれば、以下のように図示できるかもしれません。
物語
シーン − シーン
機能 − 機能 − 機能
文 文 文 文 文 文 文 文
語 語 語 語 語 語 語 語 語 語 語 語
さて、ある「物語」において、一つの「語」の「意味」はどのよう
に決定されるのでしょうか。
勿論、その「語」にも「文字通りの意味」(literal meaning)はある
でしょう。しかし、厳密に言うならば、その「語」の「文脈におけ
る意味」(contextual meaning)は、その「語」が属する「文」・
「機能」・「シーン」・「物語」全体の文脈との関連でしか決定で
きないと言うべきです。
例えば、「嫌い」という「語」を考えて見ましょう。この「語」の
「文字通りの意味」(literal meaning)は、「あるモノや人などに対
する否定的感情」であると言えます。しかし、「物語」、特に「恋愛」
を主題とする作品において、この「嫌い」という「語」の「文字通り
の意味」(literal meaning)を理解したところで、「物語」を楽しむ
には不十分です。
ある「物語」におけるヒロインの「あなたなんか嫌い!」という台詞
が何を意味しているのかは、その「シーン」の「物語」における位置
で全く変わります。
この台詞が「物語」の前半、例えば「起」にあたる「シーン」で出て
きたならば、ほぼ「文字通りの意味」(literal meaning)かもしれま
せんが、紆余曲折の末、「物語」の最後にある「結」にあたる「シー
ン」で出てきたならばどうでしょうか。「嫌い」という「語」の「文
字通りの意味」(literal meaning)の正反対である「好き」という感
情だけでなく、それを素直に表せない彼女の性格やヒーローとの微妙
な関係、さらには、その「物語」が終わった後に起こるであろうヒロ
インとヒーローとの痴話喧嘩じみた騒動までも予感させ得るのです。
このように、ある「物語」における一つの「語」は、「文」・「機能」
・「シーン」・「物語」という「文脈」を抜きにして理解することは
出来ません。
逆に言うと、その「物語」における様々な「文脈」を把握していれば、
「語」の「文字通りの意味」(literal meaning)を知らなくても、「文
脈における意味」(contextual meaning)を理解することが可能とも
言えるのです。
具体例を挙げましょう。"Stirb”という独語があります。私は、未だに
この「語」が、文法的にどういう意味なのかを正確に説明することはで
きません。恐らく、「死ぬ」を意味する動詞"Sterben"が変化した形の
1種だと推測していますが、時制がどうとか態がどうとかいうのはさっ
ぱりです。
しかし、この「語」がどういう「文脈」で出てきたかははっきりと覚え
ています。
一つは、独語版「ベルセルク」で、「黒の騎士」と呼ばれる主人公が、
復讐の手がかりを求めてある街に赴き、そこを支配する魔族と戦ってい
る時、満身創痍になりながら、敵である魔族よりも恐ろしい形相で剣を
構え、今にもそれを振り下ろそうとする時、彼が"Stirb”と叫びます。
もう一つは、独語版「るろうに剣心」で、「人斬り抜刀斎」の異名を持
つ主人公が、彼の後を継いで「暗殺」を手がけた「黒笠」と呼ばれる男
にヒロインを人質に取られ、ヒロインに掛けられた「死の暗示」を解く
にはその男を殺すしか方法がないという状況で、刀を大きく振りかぶり、
目に殺気を滾らせた彼が"Stirb”と叫びます。
これ以外にも何度か見かけましたが、「武器を構えた登場人物が、敵に
向かって叫ぶ」というのが共通していました。つまり、「物語」の「文
脈」から考えれば、"Stirb”という独語は、日本語の「死ね!」という
表現に相当するだろうということが容易に把握できます。
このように、「物語」の「文脈」から、一つの「語」の、「文脈におけ
る意味」(contextual meaning)把握することは十分に可能です。そし
て、それらの経験を積み重ねることで、逆に、その「語」の「文字通り
の意味」(literal meaning)に到達することも十分に可能なのではない
かと思います。
そして、ある「物語」において、一つの「語」の「意味」が他の「機能」
や「シーン」などとの関係性、即ち、「文脈」との関係でしか決定でき
ないということは、より上位レベルの構成単位にも当てはまります。
「文」も「機能」も「シーン」も、その「物語」における「文脈」によっ
て、その「意味」は決定されます。従って、その「語」の「意味」が「文
脈」から把握することが可能であるように、「文」も「機能」も「シーン」
も「文脈」からの把握が可能であることになります。
そして、正にこの『「文脈」による「意味」の把握』が可能であるからこ
そ、「分からないところは飛ばす」を「語」よりも上位のレベル、「文」・
・「機能」・「シーン」のレベルで行ったとしても、その「物語」の把
握は十分に可能です。
実際、通常の「物語」であっても、1ページ辺り数語や数文の未知の部分
があったとしても、読むのに支障はありません。そして、「物語」の規模
が大きくなるほど、一つの「語」や「文」の「文脈」における重要性は低
下します。極論を言えば、1段落、さらには1ページ丸ごと「読み飛ばし」
たとしても、その「物語」を楽しむことができます。
つまり、「分からないところは飛ばす」=「読み飛ばし」が可能なのは、
「物語」というものが、その構造として各構成要素が密接に関連している
ため、一部を理解できなくても全体を把握することが可能であると性質を
有しているからだと言えるでしょう。
○「携帯留学」としての多読
NOVAのCMで「駅前留学」というフレーズがありますが、これに対抗して多
読は「携帯留学」とでも呼びたいと思います。
つまり、本を読むというのは、その本を通じてその言葉に触れると言うこ
とですから、外国語のレッスンを「留学」と見做せるなら、外国語の読書
も「留学」の一種と見做せるだろうと言う理屈です。
とは言え、そう言うだけでは面白くないので、ちょっとした数字遊びを。
英語多読の最初の目標として、100万語読むというのがあります。
これがどれくらいの量かというと、普通の日本人が英語を読む速度は、
1分間に120語程度ですから、1時間では7200語です。従って、
100万語読むのに、大体140時間掛かる計算です。
では、この140時間というのは、どのくらいの時間か、比較例を考え
て見ましょう。
高校生の交換留学を振興するAFSという団体において、「何語であれ、
3ヶ月滞在すれば、分かるようになる」と言う経験則があります。
そして、実際、私の経験に照らしてみても、大体3ヶ月くらいで何と
なくスペイン語が分かるようになったと記憶しています。
人が起きているのが、大体、1日8時間ですから、3ヶ月の留学とい
うのは、720時間の読書に相当するとしましょう。そうすると、こ
れを語数に換算すると、大体、500万語くらいとなります。
逆に、100万語=140時間というのは、留学にすると17日間くら
いの滞在期間に相当します。
短期の語学留学が2週間=14日くらいですから、100万語多読を
「携帯留学」というのも、あながち間違いではないかもしれません(笑)
以上、長文・乱文となりましたが、今回はこれで失礼します。
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