私の200万語:その3

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4856. 私の200万語:その3

お名前: ウルトラQの母
投稿日: 2005/1/15(22:02)

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英語快読 200万語(9)−OBW3とCER6

本の好みは人それぞれだと思うのだが、OBW3とCER6を比べると、私の場合、CER6の方がラクに読み進めるかも・…。というのは、英語レベルの問題というより、ストーリー展開の「好み」なのだと思う。

CER6はストーリーに引かれてぐいぐいと読める。OBW3はもちろん面白くないことはないのだが、CER6のようなスピード感がない。英語自体のスピード感っていうか…。

私には英語の良し悪しを論じる力などはないのだが、多分、英語自体もCERの英語が好きなんだと思う。

「違いは何か?」と問われれば、答えることは出来ないのだが…。

私にとっては、CERの英語はす〜っと入っていける英語だがOBW3の英語は私にはゴツゴツとひっかかりのある英語・・というか。まぁ、それでもPGRのシリーズよりは、OBWの方がずっと好きだし、OBWの中でもTim Vicaryのものはすごく好きだ。多分、リトールド物の英語に「ひっかかり」を感じるのかなぁ…。

日本語だったら、ある程度、「文体」の好みっていうのを語れるのだけれど、英語の場合は、出会う度、読む度に「あ、これは好き」とか「あ、これは読みやすい」とか、逆に「あれ? なんか読みにくいなぁ」とか、1回ごとに「感じる」ことしか出来ない。

英語における「文体」というものが分かっていない。

ま、難しいことは専門家に任せておいて、私は自分にとって読みやすいもの、面白いものを探してずんずん読んで行けばいいんだけどね。

58.2004年12月20日:On the Edge::OBW3:レベル3:11000語:701310語:☆☆☆☆:主人公は何物かに誘拐された。意識を失っていたけれど、目覚めると、そこは自分の家ではない。自分の髪の色がもとの色と違っているし、自分の両親だという「見知らぬ」大人がいる。自分は誰なんだ? 僕の名前はこんな名前じゃなかったはず? でも、やっぱり僕は「見知らぬ」両親の言うとおりの彼らの子? 主人公のアイデンティティはだんだん揺らいでいく。ミステリーとしても楽しめるし、「アイデンティティのもろさ」というような哲学的テーマを考える書物としても楽しめるかも…。

59.2004年12月23日:The Last Sherlock Homes Story:OBW3:レベル3:11000語:712310語:☆☆☆☆:イギリス犯罪史上最大の犯罪ともいえる切り裂きジャックによる連続殺人事件にホームズが挑む。これはドイルの作品ではなくて、別の人が1970年代に書いたもの。ワトスンが残した記録が彼の死後発見された、という形で書かれている。

60.2004年12月27日:The Crown of Violet:OBW3:レベル3:11069語:723379語:☆☆☆☆:直接民主主義時代のアテネが舞台。書き手はなかなかにフェミニストな視点もあり、「市民」の中に「女性」が含まれてはおらず、女性の行動がさまざまに制限されていたことへの問題意識が作品を貫いている。ソクラテスその人が登場人物に出てきたりして、当時のアテネの雰囲気が生き生きと感じられる。

61. 12月28日:Love Story:OBW3:レベル3:8594語:731973語:☆☆☆:大変若い頃に映画見たことがあります。その時はあんまり感じなかったけれど、これって「フェミニズムの第二の波」を準備することになったような状況? つまり、大学って「相手を見つける」ところになってて、女性の方は学業をやめてバイトで彼を支え、卒業と同時に「ジューン・ブライド」になるのが女の子の一つの「コース」となっていた・・というような状況。(このあたりの事情については、岩男寿美子他『女性学事始め』(講談社現代新書)をご参照下さい。ちょっと古い本ですが) アメリカ的にはOKなのかもしれないけれど、主人公の女の子のちょっと「意地悪っぽい」物言いが気になる。お金持ちのおぼっちゃまにはそれが新鮮だったのかもしれないけど。

62. 2004年12月29日:Robinson Crusoe :OBW2:レベル2:7300語:739273語:☆☆☆(+):実は、『ロビンソン・クルーソー』は私の専門分野で昔から良く言及される素材だったりはします。私の属する(>あんまり自覚もないのだが。まぁ、先生筋をたどっていくと…ということで)「学派」(>今やその勢力は壊滅状態ともいえるが)の祖も、『ロビンソン・クルーソー』についてその著作の中で何度も言及されております。最近はポスト・コロニアルな状況の中で、「フライデーの位置付けってどうよ!」という研究も盛んなようであり、私の属する学派の祖は批判されたりもしております。

英語快読 200万語(9)−OBW3とシドニー・シェルダン

OBW3に何となく「ノリの悪さ」を感じたので、久しぶりにシドニー・シェルダンを読んでみることにしました。

その昔、大ブレークしていたシドニー・シェルダンをPBで読んでみて、その英語の歯切れの良さと分かりやすさ小気味のよい「テンポ感」にすっかり魅せられました。「原語で読むことの楽しさ」というのも初めて実感した。

当時は今よりもっと英語が出来なかったから、分からない単語ももっと一杯あったと思うし、英語の長文を読むのにも慣れていなかった…。でも、一度「原語」のスピード感を味わってしまうと、翻訳物で読んだ時に、そのスピードが翻訳者の頭の中を通り、思考の中を通り、腕を通り、別の原語になって紙に書かれたり、ワープロに打ち込まれたり、という、その過程でどうしても生じてしまう「減速感」がどうもイヤで、シドニー・シェルダンは翻訳は読んだことがありません。

多読を始める前にも何冊か読んでいますが、多読を始めてから1冊も読んでないなぁ。

私はPBはまだ読むと「どっと疲れる」ので、メアリー・ヒギンズ・クラークとかナスターシャ・クーパー、最近ではニッキー・フレンチの新作が出るたびに読むだけで手一杯という感じだったので。

しかし、久々にシドニー・シェルダンを読んでみたら、OBW3より読みやすいかも…。もちろんOBW3より長いし、知らない単語もOBW3よりいっぱいある。

だけど、ぐいぐいと引き込まれる「引き込まれ感」が違う。

OBW3も「リトールド」のものを中心に読んでいたためなのかな? 翻訳同様、そこの「人の手」が介在すると、「原作」の持つスピード感がどうしても損なわれてしまうのかもしれない。

それに何と言っても、シドニー・シェルダンは名うてのストーリー・テラーですもんね。GRの書き手にも良い人が沢山いるし、GRはGRとして楽しめるけれど、やっぱりシェルダンとGRの書き手では、「格」が違うのかも…。

63.2004年12月30日:Tell Me Your Dream: PB:レベル7:70000語:809273語:☆☆☆☆☆:これ、多分昔読んだことある…。結末全然覚えてなかったけど。ストーリーにぐいぐい引き込まれて、多分OBW3を読むよりも「ラク」に読めたんじゃないかと思う。

64.2005年1月2日:The Best Laid Plans: PB:レベル8:100000語:909273語:☆☆☆☆:こっちは、カゼでフトンの中でうとうとしながら読んだせいか、63よりも話に入っていけませんでした。多分ストーリーのラインが63より複雑で登場人物も多いためと思われます。

英語快読 200万語(10)−停滞期&人生の辛さ

100万語の時もそうだったのだけれど、「最後の10万語」って、「あと○万語で100万だ!」というのを意識してしまって、なかなか「自然体」で読めなかったりします。70〜80万語くらいまでは、語数を意識しないで読んでるんですけどね…。

さて、CERをほぼ読み終えて停滞気味だったのですが、私が思うに「停滞期」というのは、第一に仕事が忙しくて多読をする時間的精神的余裕がない、という時に必然的に訪れるものではあるが、第二に、好んで読んでいたシリーズを読み終わってしまって、次に「○○を読みたい!」というハッキリとした「意志」が芽生えていない時に訪れるものでもある。

で、今、ちょうどそういう「狭間期」なのですが、たまたま買ってあったジャクリーヌ・ウィルソンの少女向けの本を読んでみて、読み終わった後で、「あれ? ひょっとしたら?」と思って調べてみると、これが、彼女の本は実は大変な人気があることをSSSのHPにて発見。おぉ、そうだったのか…。

ローティーンからミドル・ティーンくらいの少女向けの本だけど、これがなかなかビターです。「生きる」ということは、どんな年齢の「人間」にあっても、なかなかに辛く切ないものなのだなぁと思わされる。

だからこそ、バレエが私の人生に与えてくれる「彩り」に感謝しなくては…と改めて思ったのでした。

65. 2005年:1月3日:Lizzie Zipmouth: 児童書:レベル2.5〜3:7000語:916273語:☆☆☆☆☆:母親と2人で暮らしているリジーは、母親の3度目の夫(>あるいはパートナー?)および義理の弟と同居することになります。でも、本当はリジーは母と2人暮らしがいい。リジーの母親の2度目の夫(>あるいはパートナー?)は、最初のうちは優しいフリしてたけど、そのうちリジーのことをどなったり、体罰を与えたりするようになったから。
 で、リジーは「絶対に口をきかない」と決めます。母親の新しい夫はまぁいい人そうだけど、「でも、だまされない」とリジーはガードを固める。ある日、夫の祖母の家に一家して訪ねます。このおばあちゃん、なかなかの頑固者。でも、このおばあちゃん、人形のコレクションをしていて、リジーとこのおばあちゃんは次第に心を通わせるようになります。
そんなおばあちゃんもある日脳梗塞だか心筋梗塞だかで倒れて、言葉が出なくなってしまいます。身動きも不自由になってしまい、リハビリ生活に入ります。「年を取ること」の残酷さも、子ども向けの本だけれど、隠さずにストレートに描かれている。

あぁ、子どもにとっても「人生というのは辛いのだなぁ」と思う。イギリスの児童書って、けっこうリアリズムで貫かれていてビターなんですよね。子どもにとっても「生きにくい」人生(>子どもは「逃げ場」や「逃げる手段」がない分、不幸な環境にある場合大人以上に辛い試練に耐えねばなりませんが)、大人ならなおのこと…。
色々思うにまかせぬことが多いけれど、人生ってそういうもんなのかもね…。
そんな「辛い」人生に、バレエという「彩り」を持てる私達は幸せなのだと言えるでしょう。「これをやっている時は楽しい」という物を持っているっていうのは、やっぱりとても幸せなことですよね。

66. 2005年1月4日:Bad Girls: 児童書:レベル5:31000語:947273語:☆☆☆☆☆:胸がつまるようなお話です。子どもも色々な悩みを抱えながら、しかし、それをどうしていいか分からず、苦しみながら生きているんだなぁ…と思う。
主人公のマンディは学校でいじめにあっています。しかも、そのいじめグループの1人は、ちょっと前まではマンディの友達だったメラニー。いじめのタネはマンディの両親が年取ってること。マンディは、両親が長い間不妊治療を重ね、ようやく授かった子どもだったのです。だから、マンディは両親からとても愛されている。
でも、マンディは自分の両親が他の子の両親みたいに「若くないこと」を恥ずかしく思ってしまう…。母親がマンディに「可愛い格好」をさせたがるのも内心うっとおしく思ってしまう…。 いじめはエスカレートして、母親は学校に訴えたりもします。しかし、学校側も適切な対処が出来ない。
そんなある日、隣の家にターニャというちょっと年上の女の子が来ます。隣の家の奥さんは、里親をやっているんです。マンディとターニャは仲良しになり、マンディはようやく心の安住を得ようとします。でも、ターニャは万引き常習犯。マンディはそのことでも苦しみます。
学年も変わり、最後の方で、新しい担任の先生が、クラス討論(サークル・タイムと彼女は読んでクラスを丸く座らせる)で「いじめ」をテーマに取り上げます。みんなぎょっとするのだけれど、彼女の手腕によって、みんなだんだん色々発言したり考えたりし始めます。 先生は「誕生日でみんなが祝福してくれてプレゼントをくれてとってもはっぴぃな時、あなたは人をいじめたいと思う?」と問う。「人をいじめたくなる時」はどんな時か、「いじめる子」も「かわいそう」なんだ…ということを、生徒たちに考えさせる。
まぁ、現実はそんな風にうまくは進行しないのかもしれないけれど、大人が適切な場所で適切な処置を取ってやれば、子どもの人生の苦しみの8割は解消できるはず…。前の担任の先生にも校長にもその「手腕」がなかった…。
マンディの母親もマンディを本当に愛しているけれど、マンディの微妙な心の揺れや、マンディの悩みを分かるだけの「知恵」というか、「感性」というか、そういうのが足りなかった。父親は割合マンディの心のありように近いところにいるのだけれど、仕事もあるし(>母親もパートで働いているけれど)、いつもマンディのそばにいられる訳ではない。
親も教師も、みんなが新しい担任の先生のように「知恵」も「感性」も「力量」も備えている訳ではない。熊沢誠先生が『女性労働と企業社会』で「中学の先生に必要なもの」としてあげている「人間力」をみんなが持っている訳じゃない。
大人も子どもも色々な「限界」を抱えながら、「人間力不足」のために、自分で自分を「生き苦しく」しているのかもしれないです。「中学の先生」以外の大人も、子どもと関わる立場にある人には「人間力」が必要だなぁ…としみじみ思う。親や教師に「人間力」があれば、どれだけ多くの子どもが救われるだろうに・…と思う。
大人も欠点や能力不足に悩みながら「自分の人生」であっぷあっぷしている訳なので(>私もその筆頭)、自分の子どもや自分の生徒の「危機」に、適切な時に適切な対処が出来ない。子どものサインを見逃さず、適切な対処が出来るよう、大人は「知恵」と「感性」を磨く必要があるなぁ…としみじみ思いました。

英語快読 200万語(11)−ジャクリーヌ・ウィルソンで200万語通過!
 
最後はジャクリーヌ・ウィルソンで駆け抜けるように200万語を通過!

「多読」って結局、「読みたい本」「好きな本」との「出会い」なのかも…。そして、その「出会い」は、こつこつ読み続けている途中に「自然に」訪れる。 ジャクリーヌ・ウィルソンの名前もきっとこれまでも何度もSSSのHPで見ていたのだと思う。でも、「時期が来るまで」は彼女の作品に出会えなかった…・。

やはり、その時の語数に応じた「アンテナ」の力というか、周波数というか、そういうのがあるように思う。「100万語未満」の時にはやはり「100万語超」の人たちが互いに推薦し合う本には反応できない…というか。その意味でSSSの掲示板で自分と同じくらいの語数の人のカキコミを読むのはとても参考になる。

あと、SSSの書評やら、色々なブックリストも。SSSのHPはディープなのでまだ探索しきれていないのだけれど、あちこちに色々な情報が詰まっていて、ふらふら歩いていると「あらま!」というような情報に出会って、そこから自分の「多読」の「道」が開けていくことがある。

ジャクリーヌ・ウィルソンの本は面白い。イギリス好きの私としては、色々イギリスの状況が分かってためになる。児童書だし、ティーン向けなので、多分日本で言えば「びみょう」みたいな表現も入ってるんだろう。だから、知らない表現もいっぱいあるんだけど。

面白くて、読みやすくて、切なくて、でも救いもあって、読後「暗く重い気持ち」にはならないんだけど、人生というのは誰にとっても生き難いものなのかも…と思わせる。読みながら色々と人生について考えさせられてしまう。

67.2004年1月5日: Double Act:児童書:レベル5:☆☆☆☆☆:34000語:981273語: これも切ない…。子どもも自分のさまざまな感情の間で揺れる。ついつい言いたいことが言えなかったり、不安になったり、意地悪いこと考えてしまったり、嫉妬しちゃったり…。
 主人公は双子ちゃん。母を病気でなくし、父親と母方の祖母と「新しい家族」として暮らしていたのですが、そこに、父のガールフレンドが登場!
 イギリスでは離婚・再婚は日常茶飯事で、息子が通っていた保育園でも、「ファミリー」という絵が貼ってあって、そこには「ステップ・マザー」とか「ステップ・ファザー」とか、そういうのもごくごく自然に配置してあったように記憶しています。
 Qを連れてよく行った私立図書館の児童書のコーナーで見た「家族」というような本でも、「あなたの両親が離婚することああるかもしれない。人は愛し合っても、途中でもう愛し合えなくなることもある。でも、それでもあなたの両親はいつまでもあなたの両親だ」とか、「あなたのお母さんに新しいパートナーが出来るかもしれない。人を愛することはとても素晴らしいことだ。そのパートナーはあなたのことも愛してくれるだろう。あなたのお父さんももちろんあなたのことを愛し続けている。あなたを愛してくれる人が増えるのは素晴らしいことだ」とか、そんなようなことが書いてあって、「離婚再婚をネガティブにとらえないように、小さい頃から教育されるんだなぁ」なんて思っていました。
 でも、やっぱり、子どもは新しいパートナーを前に「違った人」みたになっちゃった父親を見るのはいやなのね。やっぱり、子どもの人生だって「きれいごと」じゃすまないのね。…という訳で、この双子ちゃんは、父親にも、父親のガールフレンドにも冷たい態度を取り続けます。
 生きていくってビターだ…。私も未だに自己肯定と自己否定の間を揺れながら生きているけれど、結局、大人も子どもも一生、ネガティブな感情にしばしば翻弄されながら生き続けるしかないのかも…。

68.2005年1月7日: The Worry Website: 児童書:レベル5:20000語:101273語:☆☆☆☆☆:スピード先生は、サークル・タイム(>ホームルームみたいなもの? でも丸くなって話すみたい)にみんなの悩みをみんなで解決する時間を設けていたのだけれど、でも、「おねしょが治らなくて」というのを正直にみんなの前で発表したウィリーはそのあとずっとからかわれることになってしまった。最近の小学生はIT能力も高いから、みんなが匿名で悩みを書き込み、それにまたみんなが匿名でアドバイスをするという、そういうサイトを先生は立ち上げた。色々な子どもが色々な悩みを書く。で、先生は「匿名で」のはずなのに、何故か誰が書いたか分かってしまって、こっそりとその悩みの解決のために力を貸してくれる。
 この話の一部は、実はネットで読めるようになってたらしく、著者は、子どもたちに「自分たちで同じ形式でお話を作ってごらん」というのをやった。そしたら15000も応募があって、とても優れた作品もいっぱいあったそうだ。そのうちの一つが採用されて、この本の中には収められている。それは、とてもリアルででもとても辛い話だ。その子は自分の悩みを書こうかな…と画面に向かう。でも、「本当の悩み」じゃなくて「にきびが出来はじめちゃったの」みたいなことを書く。彼女の「本当の悩み」は、父親の母親に対するDVだ。昔は良い父親だったんだけど、仕事を変わったのを機に父親も変わってしまう。最後その子は「結局のところ、他人には知られたくないことってあるのだ」と、話を締めくくる。
 この話を書いた子の文章力は子どもとは思えないほどすごい。主人公の苦しさが切々と伝わってくる。
 ジャクリーヌ・ウィルソンは、この話の主人公を登場させ、最後にもう一つ話を加えている。この話の主人公と障害を持つ女の子の友情の物語だ。
 日本の児童文学も優れたものがたくさんある。だけど、日本の児童文学ってもっと「きれい」な気がする。イギリスの児童文学は、「今」「現在」「子どもたちが苦しんでいる(かもしれない)状況」を、リアルに描く。子どもたちの中にある「いやな自分」もリアルに描く。大人たちの「いたらなさ」もリアルに書く。そういう「現実」が子ども向けのものに描かれている時、同じようなことに悩んでいる子たちは、「あぁ、自分だけじゃないんだ」と思ったりするかもしれないし、そういう物語の中で何らかの「救い」が示される時に読者が感じる「カタルシス」は、きれいな夢物語を読んで辛い現実から一時遊離した「カタルシス」とは異質なもののように思う。もちろん、きれいな物語はそれはそれとして子どもにとても必要なものだけど。
 彼女の作品を読むと、子どもの頃の自分や、子どもの頃から成長してない自分についても思い出したり、考えたりさせられるけど、「大人として」自分はどういうふうに我が子に向き合えばいいのか、子ども世代と向き合えばいいのか…そういうことも考えさせられる。


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