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10828. 英訳『坊っちゃん』で300万語通過! そして通過本選定理由
お名前: 泊義 http://eigomonihongomo.blog22.fc2.com/
投稿日: 2008/5/10(15:54)
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皆さん、こんにちは。 泊義です。 先日、『英文版 坊っちゃん - Botchan』(訳:J. Cohn)を読み、累計語数が 300万語を突破しました。200万語から一年以上、多読開始から三年以上経って います。 ( 『英文版 坊っちゃん』の感想は、ブログに書きました。お読みいただけ れば幸いです。 [url:http://eigomonihongomo.blog22.fc2.com/blog-entry-96.html] ) もっとも途中、英語ゲーム(北米版ゲーム)をプレイしていた時期があり、 英語ゲームは語数カウントに含めなかった、という事情もあります。含めて いれば、プレイした英語ゲームの「語数」は数十万語はあったでしょうから、 もっと早く300万語を達成していたはずです。 英語ゲームをなぜ語数に含めなかったかと言うと、語数カウントをどうしたら よいか迷ったことが一つあります。そしてもう一つは、300万語は100万語以上 に私にとってはエポックになると考えていたので、本だけの語数カウントに してみた次第です。 今回の300万語通過報告では、私の多読エポックと位置づけた「300万語通過 本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ意図・理由について書いて みたいと思います。そして、これは最近多読について私が考えてきたことにも つながります(だからこそ、英訳『坊っちゃん』を「300万語通過本」に 選んだのですけど)。 まず、SSSウェブサイトでも紹介されているように、『現代読書法』(1906年) において漱石が「多読」を推奨していることがあります。多読の原点である 漱石への敬意、というのが理由その一。これは、単純ですね。 理由その二からは、私が多読に感じている魅力にもつながってゆきます。 こんなことを思っている人が他にどのくらいいるのか、またどのくらいの人が 賛同してくださるのか、全く不明です。しかし、せっかくですので思い切って 書いてみます。 漱石は、明治の英文学者であり、西欧文化と日本文化の相剋に苦悩し続けた人 でもあります。「現代日本の開化」で、《現代日本の開化は皮相上滑りの開化 である》と述べました。 この問題は、今なお継続中なのではないか、という見解があります。 《われわれの悩みの大半をすでに明治人は味わっている。つまりわれわれは ほとんど(その本質的な部分では少しも)新しくない。それを知らないのは ただ不勉強のゆえである。》関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』 (双葉文庫) この関川夏央さんの文章に、私は同意する者です。 ではこれが、どう多読につながるか?ということですが、私の考えはこう です。 英語多読は、要らぬ英語コンプレックスや英語への過剰な恐れを弛緩し、 健全な日-英米相互文化理解・異国間コミュニケーションの一助になり得る のかもしれない…。 これは、酒井先生が『快読100万語!』(ちくま学芸文庫)p.242-243あたりで 展開された、無意味なカタカナ語・(和製?)英語表記の氾濫や「漢語の横暴」 への批判にも通じる話かと思います。鈴木孝夫さんや高島俊男さんの著作を 愛読してきた私は、『快読100万語!』のこのくだりを読んだ時、喝采を叫び ました。 個人的感覚に過ぎませんが、私の場合は多読を始める前より、英語を恐れる 程度が多少なりとも小さくなってきたように感じてはいます(あくまで相対 的比較ですけど)。これは多読によって英語力が上がり自信がついたという より、多読開始前から比べれば英語が身近になったから、ということかも しれません。 理由その二をまとめますと、漱石以来の彼我文化の相剋を解いてゆく一助に 多読はなり得るかもしれない、ということです。そして、その相剋に苦悩した 近代人漱石への共感、というわけです。 「300万語通過本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由その三。 それは、英語と英文学を学ぶ意義についてです。 かつては欧米列強に追いつけ・追い越せの時代であり、英語を学ぶ理由はまず 明らかでした。今も、仕事上必要に迫られるなら、英語を学ぶ理由は明白で しょう。 では英文学は、と言うと——。 《一体かれらの国の文学の伝統においては、政治と文学とがそんなに分かれて いたものではなかった》「英文学と政治」『福原麟太郎著作集 11』(研究社) 英文学者・福原麟太郎は、1939年にこのように書いています。すなわち、 かつて英文学は、イギリス政治理解のためのインテリジェンスだったという わけです。まさに実学であったのですね。 しかし、別に政治家と渡り合うわけでもなく21世紀を普通に生きる我々には、 この用途は不要でしょう。多読でも、読むテキストは自分の興味ある分野・ 得意な分野・仕事で必要な分野、などがお薦めとされています。 まったくそれで構わない、むしろそれが健全・適切、と私も思っております。 ただ、それでも敢えて今、英文学を学ぶ意義があるとすれば、次のようなこと かと思うのです。 《現実はどこまでも強引に執拗に続いてゆく。決してピリオッドにならない。 理論や抽象的思考の一筋縄ではしばれない。それは漱石が『道草』の最後の行 で独語しているところであるが、あの悟りが英国人の悟りである。彼らは現実 家であるゆえに、よけい多くの現実の重圧を感じる。そのうるささと重みに 堪え兼ねて、それから逃げて一息つく方法を考える。そして、何とかして古い 過去の現実からの影響を振り捨てて、新しい現実と新しく取っ組みたい、それ が現実家の意欲でもある。彼らはそこで転身の術を次第に覚えてきた。それが ヒウマーであった。》「英国的笑い」『福原麟太郎著作集 11』(研究社) 「ヒウマー」は、ユーモアのことですね。英文学は、大人の文学・叡智の文学 だと福原麟太郎は言います。ゼロ成長時代、格差社会、と明るくない問題が 山積みな昨今の日本ですが、そんな厳しい現実と向き合ってゆくうえで、 英文学が教える智恵は今後有用かもしれない、と思ったのが、「300万語通過 本」に英文学者・夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由その三です。 もっとも、英文学と言っても多様でしょうし、日本文学にも例えば落語などは 「ヒウマー」たっぷりに現実と渡り合う智恵が詰まっているでしょう。あるい は、福原麟太郎のイギリス伝統主義への憧憬は、今となっては差し引いてみる べきなのかもしれません。また、英文学を学ぶにしても日本語訳で十分、と いう正論も当然ありえます。 というわけで、理由その三は、かなりこじつけっぽい面があることは否めま せん(笑)。 とまれ、「300万語通過本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由を まとめますと——、 1.多読の原点である漱石への敬意 2.日本の近代化に関わる我々と同じ問題に悩んだであろう漱石への共感 3.現実を生きる智恵が詰まっているとされる英文学を学んだ先達漱石への追慕 となります。 以上、300万語通過本に英訳『坊っちゃん』を選んだ理由でした。 なお、上記で多読に関して述べたことは私の個人的雑感であり、「多読はかく あるべし論」ではまったくありません。また私は大学は理系ですし、英文学に ついて全くのド素人の戯言でございました^^;)。 それでは皆様、今後ともよろしくお願いいたします。 泊義
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