停滞の一般理論

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10722. 停滞の一般理論

お名前: 極楽トンボ
投稿日: 2008/3/15(12:25)

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すべての停滞者の皆さん、極楽トンボです。

停滞研究を呼びかけたら、思いのほかたくさんの人の賛同とそれぞれの停滞経験を語っていただきました。ありがとうございました。多読にいろいろあるように停滞もいろいろあるようですね。自分の停滞体験だけに頼って停滞を考えることには限界があると痛感した次第です。そこで、停滞の一般理論を構築してみようと試みました。

わたしの停滞は、本に接しても本との関係が全く築けない、とにかくふとんにくるまって寝るしかないような取り付くしまのないものでしかありません。それでわたしは漠然と、停滞→読み飛ばし的多読→精読的多読のような発展段階を思い描いていましたが、そんなに単純なものではないようです。

酒井先生がおっしゃるように「中には幸運にも停滞と思わないほど自然にやってきて、停滞だったときがつかないうちに回復している場合」があるわけですこれはわたしには実感としてよくわかりません。「でもやっぱり停滞はやってくる」、つまり停滞は必ず回帰するという指摘もありました。こっちはよくわかります。

杏樹さんのおっしゃるように、読書力のアップが実感しにい「万年レベル3」感覚に陥ってモチベーションが下がる、というのもおもしろいです。わたしから見れば、順調に語数が伸びているのでまったく停滞しているように見えませんが、本人の主観では停滞なわけですね。

優輝さんのおっしゃる停滞も、わたしには予想外でした。だって、レベル2-3のGRを二ヶ月読んだら、次にレベル6のPBを読むという読み方を繰り返しておられて、一見いったいどこが停滞なのだろうと羨ましく思ってしまいますが、お話をよく読むと、まぎれもなく停滞こそがこのパターンの繰り返しの原動力になっているということが理解できます。

rfujiさんの報告では、停滞のときにしか体験できないことがあること、「読める本と、読めない本の嗅覚が鋭くなり、いつもは手にとらなかった本を楽しむことができた」というようなことがあるわけです。停滞には決して暗黒面しかないのではなくて、多読に対する積極的はたらきが停滞にそなわっているというわけです。停滞って奥が深いと思いました。

つまり、私以外の報告から判断するに、多読には常に停滞がはたらいているのであって、タドキストにとって停滞は何ら特別な状況ではないことがわかると思うんです。

停滞は、多読のある段階を指すものではなく、多読活動あれば必ずどこかで多読にそのはたらきを及ぼすようなもので、それなくしては多読活動そのものが成り立たないものであると考えた方がよさそうだと思いました。つまり、多読活動を根底から支えるはたらきが停滞という領域であると考えてみようと思います。名づけて停滞界。基本的には、本を読んでもよそよそしい感じがして、とりつくしまがない、本と自分が互いに排除しあうような領域です。

わたしは200万語でつい最近読み飛ばしの術を覚えたばかりです。停滞が発展段階の一段階でないとすれば、この読み飛ばし的多読の世界も単なる発展段階の一段階と考えたのではおもしろくありません。あくまでもわたしの想像ですが、酒井先生だってスーパータドキストだって、常に精読的多読を行っているわけではなかろうと思うんです。日本語で新聞を読んでいる時みたいに、読み飛ばしているときもあると思うんです。しかも、一冊の本を読むときに、頭から尻尾まで同じ調子で精読的多読を行う場合はまれで、読み飛ばし的多読も同時に併用されているのではないでしょうか。また、一時的に読み飛ばしがうまくはたらかないことだってあるでしょう、そういう時は停滞界のはたらきの関与が疑われます。停滞のはたらきの一切関与しない多読がありえないように、読み飛ばし的多読の関与がいっさいないところで精読的多読がはたらくとは想像しにくいのです。読み飛ばし的多読は、実際には大量に読み飛ばしているにもかかわらず、物語の引力に引っ張られて本との一体感が想像的に保たれている領域だと思います。停滞と精読的多読の双方との関連を保ちつつ読み飛ばしのはたらきを及ぼす領域、これを名づけて多読界。

ここから先は、わたしには想像するしかない世界であると同時によく知っているおなじみの世界でもあると思います。つまり精読界です。読み飛ばし的多読では、どうしても物語の細部がどうしてもぼやけます。また、単語や文章のニュアンスをいちいちとらえることはできません。これができるのは精読的多読の働きなのだと思います。ところで、この精読的多読のはたらきが機能不全を起こして硬直してしまった精読が、われわれがどっぷりつかってしまった構文分析読みにほかなりません。一字一句ゆるがせにしないで読むというのが旗印ですが、硬直してしまって、英語を英語のまま読むことができなくなっている、つまりここに停滞界の関与が疑われるわけです。この場合、酒井先生の「停滞は必ず回帰する」という指摘は、停滞が分析読みという形で回帰したことを意味すると思います。どうして精読しようとすると、英文和訳読みになる危険があるのか、うまく説明できるような気がします。

多読という活動は、停滞界、多読界、精読界の三領域の結びつきからなっている、とひとまず考えてみた次第です。ラカンのまねなんですけど、詳しい方、私の思い付きを改良してみてくださいませんか?ところでこの話題、この掲示板でやっていいんでしょうか?


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