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お名前: じゅんじゅん http://junjun.peewee.jp/
投稿日: 2008/1/7(12:40)
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杏樹さん、こんにちは。
お久しぶりのじゅんじゅんです。
(さいきん、こればっかり)
以下、わたしの感じていることを書いてみます。
〉一連の投稿を見て、いまごろレスをつけても…と思いましたが、新規投稿にしてみました。
〉そぼくなぎもんを抱きましたので…。
〉それは
〉「樽にたまる、ってどういう状態のこと?」
〉です。
〉樽からあふれるイメージを描くと、ペラペラ話したり、スラスラ書いたり「発信」することをイメージしてしまいます。でもそれが多読の目的でしょうか?「樽」を問題にすると、それだけの量をためることが多読の目的になってしまうような気がします。
わたしは「発信」することとは思いませんでした。
杏樹さんがどなたかのお返事で書いていたように、
「読んだ語数は減らない」っていうのと同じです。
読んだ語数は減らないのだから、
読んだ分だけ、というか触れただけ英語がたまる。
わたしの「樽にたまる」イメージはこんな感じです。
※ちなみにわたしは「樽=わたし」です。
※触れた分だけ、わたしの中に英語という言葉が降り積もり、たまる。
〉私は日常的に英語は必要ありません。話すことも書くこともほとんどありません。もともと英語はあまり好きではないので、そんなに話したいとか書きたいとかいう野望も持ってません。だいたいロマンス本とはいえ大人用のPBが勉強もしないのに読んでる、ということ自体フシギな現象なんです。でも読んでるだけでは自分にどれだけの英語の蓄積が出来たのかよくわかりません。
だからこれも、どんどん杏樹さんの中にたまっていき、
オトナ用のPBも読めちゃった!ってことだと。
そして「蓄積」と「たまる」は
ちょっと感じが違う気がしています。
(って、ほとんど言葉遊びな領域ですが)
すごい昔話なんですけど、以前、SSSサイトのトップページに、
「中1修了の文法と基本単語200語知っていれば、
どんな人でも多読を始められます」
って文章あったんですよね(正確ではないけど、大意はこんな感じ)。
これすごいショックでした。
快読100万語を読んで、こうやって英語に触れてみたいと思い、
本に案内されるままこのサイトにやってきたのに門前払いされたようでした・・。
(いまは「中1修了程度の基本的な語彙を知っている人が」になってますね)
でもどうしてもはじめたい、こうやって本を読んでみたいと思い、
中1修了の文法は見なかったことにして(爆)、
単語200語というのは(基本単語って何ですかねー?)、
1〜100なら、見て分かるだろう。(これで100個)
1月〜12月なら、見て分かるだろう。(これで12個)
月曜〜日曜なら、見て分かるだろう。(これで7個)
四季だって、見れば分かるだろう。(これで4個)
あとは、あとは・・と自分の身の回りのものや、スーパーの棚みたり、
そして最後は四捨五入して、「えーい!これでいいのだー!」と
自分を説得(?)し、多読の世界に飛び込みました。
(これらを書ける、とは言いません。言えません)
(そして、その後大きく本末転倒して苦しくなるのですが・・)
で、いま思うのは(いまはスッキリしています)、
自分に英語が蓄積されたか?
基本語200語というのは分かったのか?
中1修了の英文法はどうなった?
と聞かれると、全くもって分からないのですが、
自分の中に英語がたまってきてるか?と聞かれたなら、
「どんどんたまってます!」って答えられます。
こうなると、日本公開前の海外ドラマ(当然字幕なんてありゃしない)なんかも
みたい気持ちだけで観ちゃうんですよね。
分からないところはいっぱいあったかもしれないけど、
それがどこなのか分からないくらい面白かった!
(後に日本公開され家族と観たんですが、やっぱりどこが分からなかったか
分からないくらい、1度みたことのある知ってる話しでした。日本語、変?)
これ、杏樹さんと同じ、フシギな現象です(笑)。
でもこんな感じでわたしの中には英語という言葉が
降り積もるように、たまっているようです。
〉多読って自分なりに英語の楽しみ方を見つけることのはずです。私は読みたい本が読めたらそれでいいですが、シャドウイングをしている人もいますし多聴してる人も多書してる人もいます。自分なりの満足度が得られたら「一杯になった」と考えたらいいのかなーと思います。
うん。自分なりの楽しみを見つける、でいいんじゃないかな?
でも「いっぱいになった」というのはどうなんでしょうね?
自分なりの楽しみをみつけると、そこから派生して
また新しい楽しみをみつけちゃいません?(笑)
そうなると「いっぱいになった」とか「満足」っていうのは
測りきれないかなーと。
というわけで、その道のりそのものが楽しいって感じている(感じた)
ことが大事な気がします。
あと、先日のタドキスト大会で聴きくらべ?みたいなのをしたときに
聞くことは何もしていなかったのに案外聞けたって書いていたのは
杏樹さんでしたよね?(過去ログ見直さず書いてます)
これも例えるなら「たまって・あふれたー」なんじゃないかなあ?
(こんな風に、多読って自分でも測りきれない部分が多くあると思います)
〉「樽」に例えるならむしろ英語に対する要求度の大きい人ほど樽が大きくて一杯になりにくく、要求度が低いとすぐ一杯になるんじゃないかと思います。英語が「できる」ようになりたい、話せるようになりたい、映画を字幕なしで見たい、英文メールを書きたい、というふうにたくさん「なりたい」が多かったら樽も大きくなってなかなか一杯にならず、目標がもっと低かったら樽も小さくてすぐ一杯になるんじゃないでしょうか。
わたしが考える「樽」は上に書いた通りなので、
自分がいま楽しんでいれば、それらはわたしの中にたまっていくし、
その「なりたい」自分への道のりも楽しいと感じています。
そして、その過程こそが「できる」「あふれる」にも
繋がっているんじゃないかと。ゴールなんてないわけだし。
〉やっぱり「樽に穴が開いてる」というのはちょっとネガティブな考え方ですね。だから不安を感じる人もいるんです。「なかなか一杯にならない」と思う人は、「もれてる」んじゃなくて「樽が大きい」んじゃないでしょうか。
上からの調子とちょっと変わってしまいますが。
さいきん、「樽に穴があいている」って、
英語を言葉じゃなくって英語をお勉強として捉えている人たちへの
警鐘だったんじゃないかな?とも思っています。
多読って、パンダ読みとかキリン読みとかイロイロ技?はあるけど(笑)、
決してシステマチックなものではないですよね。
100人いれば、100人の道がある。
多読は英語を言葉として感じ、好きになる(イヤじゃなくなる)手段であって
多読は英語のお勉強の手段というのは違う感じがしています。
(「手段」っていうのはちょっと語弊があるんだけど)
そして辿りつく場所(やりたいこと?)もみな違うんだけど、
でも、どこか共有できる思いがあるような気がしています。
この「共有できる思い」って、お勉強では感じにくいもの
なんじゃないかなあ、とも思っています。
なので(?)、コラムの最後にあったとおり、
掲示板を読んだり書いたりして、多読を楽しんでいる人なら
何も気にしなくていいんじゃないかなあ?と思ってます。
ああ、うまくまとめられなくなってきました。
しかも大意ばっかりなような(爆)。
杏樹さん、今年もよろしくお願いします!
ではでは!
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