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3217. Ry0tasanへ,多読に関心ある人々に。酒井邦秀氏の本と「多読」への評価。
お名前: 主観の新茶
投稿日: 2018/4/22(19:03)
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Ry0tasanへ,多読に関心ある人々に。酒井邦秀氏の本と「多読」への評価。
1 酒井邦秀氏(以下「酒井氏」という)の三部作は,約10年前ころ,読んだ。一作目は,1996年の初版である。二作目は,1998年の作品である。10年前,まだ最後の著作は,出版されていなかった。最後の作品は,2009年の出版直後に読んだ。
2 酒井氏の著書に,鈴木孝夫氏の名前が出てくる。一作目,「どうして英語が使えない」の76頁に出てくる。酒井氏は,鈴木孝夫氏の本を何度も読んだことがあると推察される。
3 鈴木孝夫(以下「鈴木氏」という)は,著名な言語社会学者である。英語と日本語の異同を論じた文献は,多い。岩波新書にも,4冊の著作がある。鈴木氏は,「ことばと文化」を書いている。1973年5月21日初版発行である。酒井氏の著作より20年以上前の著作である。この「ことばと文化」岩波新書の34頁以下においてであるが,ことばは,必要性に応じ,出現する例として,日本は,水と湯と氷を,ことばとして区別する旨説明する。日本は,水と湯と氷の3分割で,区別する方が便利な文化を形成した。英語は,waterとiceの2区分である。水と湯の区別がない。区別したければ,hot water,cool waterと形容詞を追加する。それどころか,マレー語は,air一語しかない。air一語で,水と湯と氷をまかなう。区別したければ,マレー語の形容詞を追加する。酒井氏は,鈴木氏の本に想を得たとは,一言も触れていない。
4 鈴木氏いわく,英語でも,waterで,お湯を意味するときに,使っている。別に,hotを付けると,はじめて,お湯の意味になるわけではない。waterは,情況(状況)次第で,水にも湯にも使い分けられる。waterは,情況次第で,水にも湯にも使い分けることは,前掲鈴木氏34頁以下に書いてある(紅茶の葉にwaterを注ぐ例)。もっとも,waterだと,水と湯を包含するから,話し手が,お湯のつもりでwaterと言っても,聞き手が,ときに,状況判断を誤り,水と間違えることがあるだろう。しかし,英語文化は,それでよいのだ。それに比べ,日本語は,お湯と言われて,水と誤解するということは,ときに思い込みの聞き間違いが,ないとはいえないかもしれないが,英語に比し,極端に少なくなるといえるだろう。日本の文化は,そうでなくてはならぬのだ。
5 鈴木氏の本には,触れていないが,他の本を参照すると,日本は,四季の移り変わりに恵まれ,温泉も多い。間違わないように区別するために,水と湯との区分が生まれた。「湯,もってこい」と言えば,たいていは,水と間違えようがない。逆に,牛や亀の例は,英語の概念の相対性が,多く必要なことを示す。
6 鈴木氏は,化学式でH2Oの区別(お湯,水,氷など)について,当初,概念の切り分けの恣意性を指摘するが,概念の切り分けの恣意性は,概念の相対性を表し,概念の相対性の存在は,意味(概念)の拡張性であると気がつく。概念の一見すると恣意的な分割は,結局,生活の便宜性(文化)であると結論する。
7 鈴木氏は,その指摘に続いて,日本語の唇と,英語のlipの概念の相対性について考察する(40頁以下)。英語のlipは,日本語の唇よりも範囲が広い。lipは,上下の赤い2つ部分だけでなく,口ひげのあたりを包含する。鈴木氏は,lipと唇の違いは,(著述の)数年前まで,気がつかなかったと主張する。
8 鈴木氏は,「日本語と外国語」という岩波新書1990年1月22日初版発行の147頁において,表記(書き方)概念の二重性又は音声(読み方)の二重性として,水とwater,頭とheadを例示する。鈴木において,水や頭が例に出るのは,なぜだろうか。私は,英語と日本語を論ずるに,身近な事柄を例題にとることから,しばしば英語を論ずる著書に,必然的に出てくる現象であると思える。もっとも,鈴木氏は,この本で,酒井氏のごとく,headと頭の異同を論じていない。
9 headと頭の異同を論じた書物を示そう。頭(トウ)は,中国語で,首から上を指すことが多いから,headとほぼ同義である。こう指摘したのは,寺沢盾氏の著作「日本の文化」,岩波新書である。日本語の「あたま」は,①首から上を指すことのみならず,②頭髪の部分を指すと,同書は,指摘している。
10 頭を下げろと言えば,①を指す。頭を洗ってこいと言えば,②を意味する。頭に白いものが混じっていると言えば,②を意味する。③頭がよい,頭を使えという場合の「頭」は,頭脳を指す。3番目の意味である。比喩的には,④上司,頭領,⑤釘の頭,⑥船頭などといった使い方もある。headの比喩も,上司等の意味に使用するから,「あたま」の意味の拡張と類似性がある。しかし,headと頭の意味の拡張は,それなりに異なることが,わかろう。
11 顔とfaceになると,意味の拡張性の差異は,どうだろうか。ちょっと余論だが,論を展開してみよう。顔とfaceの意味の拡張は,headに比較し,差異が大きい。顔とfaceは,第1に,日英双方とも,目鼻口のある表面全体を指す。日本語の顔は,第2に,内面をも表す。「会合に顔を出せ」といえば,通常,審議に加われということである。もし嫌なら,「顔見せだけなら行く」と弁解せねばならぬ。英語の顔は,内面を表さぬ。surfaceという言葉が生まれるのも,表面性からである。「あいつは,あの組織の顔だ。」という場合,顔とは,組織の代表的人物を指す。英語では,faceを使えない。意味の拡張が,ずいぶんと違った展開を見せる例として,顔と頭,faceとheadは,かなり良い対照的な比較の例だろう。酒井氏は,顔と頭,faceとheadを論じたものはない。
12 酒井氏は,headは,首から上のみを指すと主張する。この主張は,上記の寺沢氏の見解とは,異なる。どちらかの見解が,間違っているのではなかろうか。
13 英語で「頭の髪の毛を刈ってきた。」という場合,headを使えば足りる。headのhairを刈ってきたと言わなくてよい(寺沢盾氏の著書,「英語の単語」,岩波新書)。headは,頭の髪の毛のみを指す概念としても使われる。そう考えると,酒井氏の見解が間違っているといえるのではないだろうか。
14 酒井氏は,waterだけではお湯の意味はなく,hotを付けると,はじめて,お湯の意味になる,coldを付けると,はじめて,水の意味になる,と主張する。これも,間違っているのではないだろうか。
15 酒井氏は,英語と日本語の一見同じに見える概念の相対性を説きたかっただけであるというかもしれない。酒井氏のその意図は,仮に良しとしても,例題が適切でなく,説明が間違っている。酒井氏の間違いは,「水は,waterではない」というような,詭弁ともいうべき思考方法に原因があると,私は,考える。単に例を適切に出さなかったのではない。酒井氏の思考方法は,通説的な専門家の見解との間に,本質的な違いがあるのではなかろうか。
16 酒井氏は,頭全体の日本語は,「こうべ」というが,死語であると主張する。しかし,鈴木氏の岩波新書は,頭全体の日本語は,元々,「かしら」というと述べている。酒井氏は,「かしら」ということばに触れていない。酒井氏は,不勉強ではないかという疑念が生ずるのは,やむを得ないのではないだろうか。
17 酒井氏は,headの「首から上である」という意味は,(著述の)数年前,はじめて知ったという論調であった。鈴木氏のlipの「ひげの部分も含む」と数年前はじめて知ったという論調に似通ったものを感じる。酒井氏は,鈴木氏の本を読んで,同じ論調の想を得たという疑いを払拭できない。
18 英語を大学でまともに学んだ者に,鈴木孝夫氏を知らない者はいないであろうし,酒井氏は,鈴木孝夫氏のことを,もちろん,知っていると書いているから,鈴木氏の著作を,きちんと読んでいると思われる。しかし,鈴木氏の著作を読んだとか,発想を得たというようなことは,書いてない。
19 私は,平成18年初頭ころに,このSSSホームページを知ったから,ゆらい,10年となる。酒井氏の三部作は,上記のように,当初,読んだ。それなりに,なるほどと思ったことも,少なくない。私は,この10年間,言語学や英語学のような本をも読んだが,主たる読書は,政治・経済をはじめ,その他の文化にあった。したがって,酒井氏の著作を批評するため,読書しているのでは,もちろん,ない。もっとも,私は,仕事上,文章を書くから,ことばというものに興味を持っていることは間違いない。私は,いろいろな本を読んでいくうちに,今読んでいる,この著書の著者の見解からいわせると,酒井氏の三部作の内容が間違ったことになるなあと,頭にちらついたときが,再三,何度も,あった。
20 その間違ったことになるなあと指摘できる,酒井氏の思考の箇所は,結構,多い。指摘するのは,私の仕事ではないし,趣味でもない。酒井氏自身,他の専門家から無視されていると,どこかで述べていた。無視されている酒井氏を,私が掘り起こして指摘することにも,私は,価値を感じない。
21 話を酒井氏と似たことを述べるRy0tasanに移そう。私が投稿した際,なぜか知らぬが,Ry0tasanは,私の投稿の話題とは関係なく,①haveは,所有の意味がないこと,②goldは,yellowであること,③ヨーロッパ大陸とイギリスでは,思考が異なることなどを教えてくれた。前二者は,そのころ,Ry0tasanが,あちこちのネットで,書いていた。
22 私は,Ry0tasanについて,これらは,全て正確性を欠く表現であると感じたが,そのときは,正確に反論できないと思って,反論しなかった。反論というのは,きちんと著書を読んで,論拠をつかんでから,書くものと相場が決まっているからだ。良心的ならば,論拠が必要である。私は,その後,いろいろな本を読むうちに,Ry0tasanへの疑問の答えが,いろいろな本に書いてあることを知った。
23 最近の本を示そう。寺沢盾氏が,2016年11月出した中公新書の「英語の単語」という本を見よう。ここには,Ry0tasanとは,全く異なる見解が,詳細に書いてある。haveが所有の意味を有する本動詞に過ぎなかったが,意味の拡張をしてきた経緯が書いてある。この本を読んで見たまえ。さらに,Ry0tasanの投稿部分を読んで見たまえ。正否がわかるであろう。
24 色についてであるが,ヨーロッパ中世に有名な「色の紋章」という本を紐解くと,すでにヨーロッパ人は,goldは,yellowの一種であると気がついていたことがわかる。goldとyellowは,どこが違うかといえば,lusterが違うとは,20世紀に入らないとわからない。現代人でも,goldとyellowの違いを知っている人は,多くない。物理化学の問題でもある。Ry0tasanの専門であるマーク・トエインを読むと,Ry0tasanが,goldは,yellowの一種であるとヒントを得た経緯がわかる。もっとも,マーク・トエインは,別の著作を読むと,当時の色の科学に追いついていけなかったから,色についての認識が,17世紀的であることがわかる。色の根本の理論について,認識が不十分というか,間違っている。
25 イギリスとヨーロッパ大陸諸国とに違いがあるとすれば,大陸諸国同士の違いと同じ程度の違いしかないといった方が正確であろう。美術,建築(町並み),音楽,医学,自然科学,政治,法律,経済,哲学(思考方法)等,イギリスを含めたヨーロッパ諸国は,まず,その類似性に着目するべきである。
26 余談かもしれないが,イギリスのニュートンは,プリズムを使用し,色を分化し収斂させたところ,ドイツのゲーテは,ニュートンに対抗し,色の心理性を考察した。基本は,ラテン語等の文献にある。ヨーロッパは,近世に入る前,ギリシア及びローマからの諸科学を徹底的に考察し直した。そのよって来るゆえんは,大陸におけるイスラム勢力の駆逐に伴うイスラム文化との接触であろう。そのイスラム文化の勃興は,ビザンチン文化に基づく。ビザンチン文化は,ローマのラテン文化に帰着する。ラテン語文化は,滅ぼしたはずのギリシア文化に支配された。ギリシア文化は,それ以前の文化の影響を受けた。そういう大づかみの歴史認識は,正当な思考を身につける上で,重要である。
27 話をRy0tasanに戻そう。Ry0tasanは,happyの反対語は,unhappyではなく,sadであると主張する。しかし,日本語で,幸せの反対語が不幸せであるように,また,幸福の反対語が,不幸であるように,幸せないし幸福という意味のhappyの反対語は,不幸せないし不幸の意味であるから,unhappyであって,全然,おかしくないし,楽しい,うれしいの意味のhappyの反対語は,悲しいの意味で,sadであるにすぎない。
28 どうしてこのような例を掲げるかといえば,Ry0tasanさらに酒井氏は,1対1の対応の思考を廃するといいながら,逆に,1対1の対応の思考に捕らわれていると思われる面が,多々であるためである。今回は,書かないが,機会があったら,他にも,1対1の対応の思考に拘束されている例を示そう。なお,酒井氏らは,「対応」という用語を使用するが,正しくは,「一致」「合致」などという意味に使用しているから,「1対1の一致(合致)」などと言い換えるべきであろう。
29 概念の相対性を考えるならば,democracyを民主主義と訳すのは,むしろ,正しい。「主義」とは誤訳であるというのが,Ry0tasanの見解である。私は,democracyを民主主義と訳すに至った経緯及び結果は,いくつかの書物があるのを見つけた。経緯及び結果は,首肯し得るに足る。当時の中国,日本,欧米の宣教師の相互関係があった。irrational numberを無理数と訳するのも,むしろ,正しい。明治の初期に,irrational numberを無理数と訳するに至った経緯は,桜井進氏の著書に書いてあった。私は,出版社を通じ,桜井氏に質問し,訳の由来の出典を確かめた。確かめたのは,今から数年前のことである。
30 酒井氏は,辞書を引くことは,毒リンゴを食べることであると主張する。辞書を引くと,有害であるという意味である。英語を引くと,英語ができなくなるということだろう。しかし,辞書の引き方,利用の仕方を知らないだけである。
31 酒井氏の著作ないしネット上の主張は,比喩が多い。しかも,長い文書で比喩を書く。酒井氏の比喩は,多くは,相手への非難の意味で使用する。しかし,酒井氏の比喩表現は,相手を非難するに,正鵠を射た攻撃ではないと思う。
32 酒井氏は,執筆の分量のうち,英語の学び方の執筆と比較し,比喩の部分の割合が,多いから,執筆時間のうち,英語の学び方の執筆よりも,比喩を考えついてこれを書く作業時間の割合が,相当多かったと推測される。
33 酒井氏の比喩は,相手方非難に適切な比喩でない。酒井氏の比喩部分を抜かした部分が,酒井氏が,酒井氏流の学習法を説いた部分である。
34 酒井氏の学習方法の部分は,それまでの英語啓蒙書に,すでに書かれていることの焼き直しに過ぎないことが多いと思われる。少なくとも,先学の教えに学んだことをきちんと引用して,記載すべきであるが,引用されていない。
35 酒井氏の様々な論述は,児童書や,推理小説等に偏っている。そのため,広い情報がない。偏見が少なくないし,教養が偏っているように思える。
36 酒井氏は,ステファン氏の理論に発想を得たと主張するが,ステファン氏の理論を詳しく論じたところがない。真実,ステファン氏の理論を応用したか,検証できない。また,日本語は,英語と言語の隔たりが大きい。英語と,ドイツ語やフランス語は,従兄弟や又従兄弟のような関係にある。しかし,日本語は,相当,言語の成り立ちが異なる。単に知っている単語から,日本語を推測するというやり方では,身につかないと思われる。
37 英語を身につけるとは,英語で思考しているということである。自分の脳の中に記憶として貯蔵されている日本語を,英語に当てはめてみても,それは,日本語で思考しているに過ぎないし,さしたる英語力は,つかないと思われる。辞書を使わない英語読みとは,所詮,我が身の脳に貯蔵されている「脳内日本語」に当てはめてみる作業に過ぎない。英語の一文を,日本語の適切な一文に訳すという作業をするのは,日本語と英語の彼岸ないし相違を知るためである。英語から日本語の意味を取るだけなら,左から右に,頭から,英語を日本語に変換していくだけでよい。
38 昔の私の高校時代を振り返ってみても,長文読解のテストや練習をするときは,頭から英語を読むだけで日本語の意味を取っていた。英語ができない人は,英語を読んでも,すぐに意味がとれない。行きつ戻りつ,日本語にしようとする。しかし,現代でも,高校生で,英語ができるという人は,頭から英語を読んで,その都度,日本語として理解しているだろう。それが,酒井氏のいう「多読」である。
39 酒井氏の主張する「多読」は,英語を読んで,前に戻らず,その都度,脳内日本語により,意味を翻訳しているという作業である。しかし,私は,酒井氏の「多読」は,漢語である「多読」の本来の概念に違反すると思う。なぜなら,多読とは,多く読むことに過ぎないからである。辞書を使わないかどうかは,多読の概念とは関係がない。
40 読者は,あるいは,冒頭から,私が,いろいろな例を挙げた理由がわからなかったかもしれないので,改めて述べておく。酒井氏のやり方に従うと,幅広い知見や教養とは,無縁となりがちだということである。児童書の内容について,知っていて悪いといっているのではない。それも,教養の一つである。しかし,政治や経済,又は政治経済に基づく歴史,さらには,日本や世界の歴史,絵画や音楽の状況や歴史,現代の社会の問題点の把握,その対策への知識,そういった様々な情報を欠如するようなら,意味がない。酒井氏の英語学習方法は,そういった情報を欠如しがちな人生の処世方法,人生の生き方であると思うのである。また,酒井氏の英語学習方法,ひいて人生への訓話は,正しい専門的な情報の取得に興味がない生き方であると思う。
41 このSSSへの閲覧開始から10年にならんとし,SSSの閲覧回数は,ずいぶん,減った。私にとって,見る価値は,激減したからである。しかし,今後,ときおり閲覧することも,また,あろう。
42 投稿当初から,私の投稿は,酒井氏ないしRy0tasanから,厳しいご指摘を受けたものである。私の見解とは,氷炭相容れぬものをお感じになったのであろう。なぜだろう,私は,私の意見を書いているに過ぎないのに,と思った。私は,どうして,投稿の初っぱな,はじめから,批判を受けねばならないのだろうと,私は,当時,そう思ったものだ。しかし,事実,私は,ここ10年,いろいろ,学ぶうちに,酒井氏ないしRy0tasanの見解とは,人生への取り組み方を含め,氷炭相容れぬものがあったと思わざるを得ない。酒井氏ないしRy0tasanが,私に批判的であったのには,第六感のような勘が働いたのだろう,訳があったのだと,今なら,首肯しうる。
43 もっとも,私が初投稿する当時まで,多くの人が,酒井氏ないしRy0tasanから,たとえば,文法談義をすること等について,手厳しいご批評を受けて,投稿からの撤退宣言を述べるなどして,撤退していったものだ。そして,二度と現れなかった。現在まで,二度と投稿してこないのだ。撤退した方々は,もうSSSの投稿を見ないのだろうか。それとも,まだ何割かは,見ているのだろうか。
44 私は,当時,文法談義をしてはいけない等のやりとりがあったとは,つゆ知らず,投稿を始めてしまった。そして,私くらいだろう,今も,ご批評を受けても,撤退せず,なおも,批評を跳ね返す批評精神をもって,再批評を差し上げているのは。
45 私は,当時,よほど,悔しかったのだろう。その悔しさは,間違っていることを言われたと直感したのに,きちんと専門的な文献を摘示し,理由を付けて,すぐに反論できなかったことに由来するのだろう。
46 今日現在の私の見解は,英語の大学の先生と言ったって,英語の基礎知識に関してさえ,ずいぶん,良い加減なことを言う人もいるもんだということだ(たとえばhaveには,元々,所有の意味がないし,現在も,所有の意味はないなど)。また,英語の先生といえども,小説等につき英語と日本語とを変換していたこと以外の知見は,余り存在しなかったり,間違った知見を持ったりしているのは,むしろ自然であるのに,当該英語の先生は,英語ができるという意識から,自分の様々な認識や知見が間違っていることに気がつかないのであるということだ。
47 私は,馬齢を重ねたにすぎないから,様々な分野について知見不足であることを承知している。仮に努力や勉強を重ねた人がいたとしても,人間というものは,様々な分野について知見不足であるだろう。知見不足を補うのは,努力と勉強である。現在の知的水準を見極めて,専門知識を習得することである。少なくとも,間違った知識は,間違っていると見抜く力を養うことである。酒井氏は,その著書及びネットでの発言において,努力や勉強は不要であると主張している。この点も,私と異なるところである。
以 上
追記。
48 誤訳について
Ry0tasanは,日本語訳は誤訳があるから,英語など外国語の原文を読む必要があると主張する。誤訳があったからと言って,どうってことはない。体系的知識,推理力,理解力などが備わっていれば,全体を理解するに妨げはない。だいたい,専門書は,誤植,誤字脱字が,少なからずある。ということは,専門書をきちんと読みこなした人は,わかるはずである。誤植,誤字脱字,ときには,論理がおかしい箇所,このようなものは,読み進めて行くにつれて,発見する。外国の専門書は,日本よりも,概して,誤植が多いと聞く。専門書ではなく,文学は,誤植というよりも,むしろ,純然たる誤訳になるだろう。しかし,その時代の時代背景,いろいろな分野の専門的な基礎知識があれば,誤訳を恐れるに足りない。不完全な理解で,原文を読むより,訳を読んだ方がよい。ある種の翻訳を読まないと,基礎知識がない人間のまま,大人になってしまう。そして,人生を終わることになる。日本語の専門書は,明治までは,なかった分野も多い。輸入された学問である。専門書の著者は,輸入された学問を,自分なりに咀嚼し思索し,日本語の文章にする。それも,一つの翻訳と言ってよい。英語には,聖書など,元々,英語でなかったものもある。誤訳を標榜する人は,聖書は元々英語でないと,知っているだろうか。翻訳がダメというのなら,英米人が,聖書を英語で読むことも,ダメになる。英米人の精神のかなりの部分は,聖書に由来する。英米人は,英語による聖書という借り物で,精神を形成されたことになる。そんな馬鹿な話はない。
49 unleanについて
酒井氏は,unleanを主張するが,定義がわからない。出てくる箇所を軒並み調べたが,書いてない。本に索引がない。索引のない本は,ダメである。料理でたとえて言えば,生卵が,unleanである。ゆで卵を生卵にすることが,unleanではない。ゆで卵を生卵にすることは,不可能だ。たとえば,mountainを川と覚えていたとする。しかし,山であったと知ったとする。そうすると,川と誤認していたことを忘れるわけではない。かつて,mountainを川と誤解していたという認識は,消えない。酒井氏の主張だと,誤解を洗い流すということであるから,あたかも,当初,「川」と誤解していたことを忘れるかのようだ。酒井氏のunleanという概念は,良くは理解できないね。定義できないね。。
50 語源について
酒井氏は,語源は,英語習得に役に立たないなどと主張する。酒井氏は,語源の著作がある渡部昇一氏を嫌っている文章を書いている。しかし,英語の約50パーセントは,ラテン語ないしギリシア語経由である。たとえば,compromiseと言えば,com,pro,miseと分解できる。comなど接頭辞の意味は,応用が利く。miseは,mitである。正確には,ラテン語で,mittoである。mittoは,missionなどいろいろなことばの語源となっている。comを付けると,commissionである。野球で,ミットと言えば,バットが思い浮かぶ。batである。comを付けると,combatであり,共に戦う意味になる。compromiseから,comを省くと,promiseとなる。酒井氏は,日本語の「約束する」と異なると主張するが,約束するという日本語を酒井氏が正確に定義し知っているとは思えない。compromiseは,私見によると,西欧社会の戦いの後の処理の仕方の歴史を理解する必要がある。代表的な意味としては,「妥協」である。しかし,西欧の社会で,compromiseの歴史が,どうであったかを知る必要がある。何らかの形で,相互に譲歩するという意味合いが多い。だから。「譲歩」などいろいろな訳が,適宜必要である。とはいえ,語源に照らし,「一緒に約束する」と理解できれば,間違えにくい。もちろん,語源から意味を直接正確に出現させるわけではない。そんなことは,百も承知でなければならない。原理をわきまえれば,mission impossibleではない。ここに,impossibleも説明すると,否定のinと,力のpot(pos)の複合体である。possumは,ラテン語である。compromiseから,中間のproを省くと,commitになる。私のcommitmentは,わかるだろうか。
51 児童書の歴史について
某氏いわく,児童書は,児童書の歴史を知らなくても,読めると。しかし,読めるの意味が違う。児童書の歴史を紐解けば,児童書の構造及び機能が,より深化して理解できる。児童書の歴史を読んで理解しているのと,1冊の児童書を読んで理解するのでは,全然,概念が異なる。
52 fluent Englishについて
酒井氏は,fluent Englishを主張するが,よくわからない概念である。fluentは,ラテン語由来である。Englishは,angle+ishである。Englandは,angle+landである。この手の知識は,渡部昇一氏を読むと良い。酒井氏のfluent Englishは,おそらく,英語を左から右に読んで戻らないで,脳内日本語に変換するということであろう。
53 多読=語数を競う語数獲得競争について
別に競争しているわけではないという反論が聞こえそうである。しかし,私に言わせれば,多読は,脳内日本語に頼る語数獲得競争である。辞書を引かないとは,脳内日本語に頼るということだ。逆は,真ならず。「辞書を引かない」って,英語でなんと言うんだとなると,出てこない人もいるのではないか。この疑問は,「辞書力を鍛える」という書名の本に出てくる話だ。
54 英語ができるについて
英語ができるとは,英語で思考していることである。私には,もはやできない。できないだけでなく,ほかにやることは,いっぱいある。日本語の思考の世界で,基本的に生きていけばよいと思っている。買い物英語ができることや,道聞かれ英語ができることは,英語ができるという概念とは,違う。本の大衆化は,すぐれて,20世紀的であった。絵本というものは,すぐれて,20世紀的であった。英語の国の子供は,基本的に,誰も,それまで,絵本で,英語など覚えていない。お母さんや,お父さん,それに周りの人との現実の行動におけることばの応酬の中で,ことばを覚えていった。日本人の日本語も同じである。簡単な絵本から,だんだん,難しくしていけば,英語がおぼわるというのは,私に言わせれば,絵空事である。
55 日本語と英語+別の言語について
いくつかの本に,2カ国語では,まだ,おぼつかないが,日本語と英語+別の言語をやると,言語の構造が見えてくると書いてあった。確かにそう思う。私は,「日本語の歴史」というものに,興味を持った。同様の書名の本を,何冊か読んだ。現代の著者の本を読むだけでなく,万葉集以降これまでの古典を読むことは,人格形成に,また,やがて必ず死すべき存在の人間としての処世に,大事なことだと悟る。日本語の成り立ち自体も,おもしろい。日本語は,膠着語を特徴とするとされるが,屈折の要素を持つ。英語は,元来屈折語だが,屈折語の要素が激減し,語順に支配された孤立語となっている。屈折語とされるラテン語は,成り立ちが,ずいぶん異なる。孤立語とされる中国語も,屈折は皆無だが,膠着的要素はある。日本語の形容詞は,英語のverbの範疇にある。日本語の形容詞は,屈折する。英語の形容詞は,屈折しない。ラテン語の形容詞は,名詞と平仄を合わせて,屈折する。今述べたことは,基本中の基本で,大方の知るべきことであるが,知らない人もいる。知っていると,いろいろ悟るところがあって,おもしろい。
56 1分間に読む語数について
英語を1分間に何語読むという訓練は,ばかばかしい。本は,ある程度,何頁をどれだけの時間で読むと決めないと,はかどらないことがある。それと,1分間に何字数,読むとは,異なる概念である。本は,早く読む部分と,ゆっくり反芻しながら読む部分があって,場合によって,速度が異なるからだ。
57 多読という用語について
多読ということばは,昔からあったであろう。しかし,「私は,本をたくさん読むのが,趣味と言えば趣味である」,「彼は,読書家である」「日本人は,読書好きである」などと表現し,「多読」という表現は,使わなかった。現に,長崎玄弥は,1982年,「ペーパーバックが読める」を出版し,楽しく読む,やさしいものを読む,辞書を使わないなどと主張し,巻末に4つの難易一覧に分類し150冊を掲載しているから,酒井氏の原型とも目すべき著作であるが,「多読」という用語は,どこにも使っていない。長崎氏は,読書の重要性として,あらゆる分野について,入門書や概論を読むと,その著者が数十年たどってきた研究を,数日でのぞき見ることができると説く。教養ある国際人になることであると説く。
以上は,平成28年に書いた。約2年前である。未投稿であった。
2018年4月6日
「どうして英語が使えない?」を読み返してみた。
1 英語と国家予算について
酒井氏は,国家による英語の教育に,予算を増額せよと述べている。私は,賛成しない。酒井氏は,予算増額の手段は,述べていない。私が思うに,酒井氏の見解は,税金を重くするか,税金の使い道を,別の使い道から,英語の教育に,振り替えよということになろう。私は,いずれも,賛成しない。
2 英語と日本語の文化の違いについて
酒井氏は,英語と日本語は,文化が違う,考え方自体,違うと述べる。酒井氏から,言われなくても,当然なことである。
3 英和辞書の不要性について
酒井氏は,英和辞書には,英語を日本語に訳するにおいて,日英の文化の相違を表現し得ていないから,英和辞書は,不要である(害毒ですらある)旨述べる。私は,英和辞書には,英語を日本語に訳するにおいて,必ずしも日英の文化の相違を表現し得ていないことには,基本的に,賛同するけれども,昔のことだが,高校1年ではじめて英和辞書を手にして以来,英和辞書には,英語を日本語に訳するにおいて,日英の文化の相違を表現し得ていないことは,当然の前提として思考していたから,酒井氏の辞書不要論ないし辞書害毒論には,賛同しない。英和辞書の存在は,広く国民全体から見れば,益するところの方が多いと考える。英和辞書に不適応な国民は,英和辞書を利用しなければよい。
4 英語と日本語の1対1の対応について
酒井氏は,語から文までの領域にわたり,英語と日本語の1対1の「対応」の弊害について論ずる。本書の冒頭から終わりまで,基本的に,1対1の「対応」という概念で,文を進めている。私は,対応という用語は,たとえば,費用収益対応の原則の会計用語のように,「費用」が「収益」に対応するとか,空が青いなら,太陽は,何だという答えに,「赤い」とするとか,ほかには,数学の集合論で使う対応の概念を考えている。酒井氏の「対応」は,例えば,天空を見た状態,つまり,空というものについて,日本語は,「空」といい,英語は,「sky」というが,日本語の「空」と,英語の「sky」は,違うか同じかということ,つまり概念の「一致」であるから,「1対1の一致」といわないと,間違っていると思われる。少なくとも,誤解させる。間違いとか誤解は,さて措き,日本語の「空」と,英語の「sky」は,違うということは,既に,古く,九鬼周造が,「いきの構造」で述べているし,いろいろな学問の専門書のどれかを紐解いていれば,概念の相対性について,早晩把握する概念であるから,わざわざ,酒井氏という英語の研究者に教えてもらうことではない,と改めて思った。
5 酒井氏の英語力と日本語力について
酒井氏は,一定の割合の人から見れば,英語力についても,日本語力についても,雲の上の人かもしれないし,長年英語の研究者であった以上,英語力について卓越なるものがあったと思われるが,私は,酒井氏の英語力と日本語力について,客観的に,余り評価すべきものではないと思う。
6 酒井氏の教養,素養,文化力について
酒井氏は,一定の割合の人から見れば,教養,素養,文化力のある人かもしれないが,酒井氏が自分で述べるように,既存の啓蒙書,教養書を軽蔑し,そもそも,若いころから,ほとんど,各種の啓蒙書,教養書を読まないから,教養,素養,文化力について,若いころ,つちかった知見と,その後の自らの経験及び思索で対処していると思われる。
7 酒井氏の本書の内容について
酒井氏の本書の内容は,中学や高校の学校の英語の教科書には,書いてないだろうが,英語についての各種の啓蒙書,教養書を見れば,書いてある内容ばかりである。酒井氏の切り口は,独特であるから, 各種の啓蒙書,教養書と,発想が異なっている。発想の異なりは,酒井氏の独特の思考方法に依拠するところが多い。また,酒井氏の著作は,各種の啓蒙書,教養書と比較し,比喩が多いが,内容は,薄い。酒井氏の比喩は,ほとんどが,批判の対象に対する批判に使われている。
以上を改めて,感じた。
以 上
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