GRは,消費としての読書か,投資としての読書か,等

[掲示板: 〈過去ログ〉本のこと何でも -- 最新メッセージID: 3237 // 時刻: 2024/11/24(10:09)]

管理用 HELP LOGIN    :    :


上へ上へ | 前のメッセージへ前のメッセージへ | 次のメッセージへ次のメッセージへ | ここから後の返答を全表示ここから後の返答を全表示 | 返答を書き込む返答を書き込む | 訂正する訂正する | 削除する削除する

2658. GRは,消費としての読書か,投資としての読書か,等

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2008/6/19(01:15)

------------------------------

 GRは,消費としての読書か,投資としての読書か,等。
 極楽トンボさん、こんにちは、(主観の)新茶です。

1 一般に,読書には,(ア)消費としての読書と,(イ)投資としての読書がある。
  人は,消費する動機として,楽しみたいからということが多いと思われる。
  (ア)消費としての読書は,(1)その場の快楽,または,(2)「本を読む本」(講談社学術文庫:アドラーほか1名著;外山滋比古訳;1997年10月10日発行:以前に読むと言っていた本)が主張するように,生きている意味がわかったなど人格を陶冶する,次第に高まる快楽の2種類があります。
  (2)の場合,「朝に道を聞かば,夕べに死すとも可なり」というような内容の文字どうりの経験は,現実には,ほとんど起こりえないと思われます。
  (イ)投資のための読書とは,生産準備,平たくいえば,仕事に役立つことであります。
  これは,(1)直接役立つ場合と,(2)間接的に役立つにすぎない場合の2種類があります。
  消費のための読書は,教養と化した場合,これを尊重する相手に対してならば,生産に貢献することがあると思われます。
  この場合,読書は,消費及び投資を結果的に併存させたといえます。

2 幸福,幸せ,楽しい気持ちは,(ア)絶対的基準と,(イ)相対的基準があると思われます。
  (ア)絶対的基準は,(1)過去の先人または(2)将来の自分を尺度とし,(イ)相対的基準は,(1)昨日の自分または(2)今日の他人と比較します。
  絶対的尺度は,自己の設定により,甘くも厳しくもなります。
  相対的比較は,特に今日の他人を範とする場合,周りの環境に受動的に対処する限り,自己が設定するものではありませんから,甘いか厳しいかは,所与のものとなります。
  相対的基準は,甘い限りは,比較的楽しい気持ちになりやすいが,常に比較の対象となるという厳しさがあります。
  また,ヴェブレン的読書,つまり,顕示欲としての読書であるならば,流行に左右されるでしょう。
  絶対的基準は,自己に厳しい限り,そう易々と楽しい気持ちになり難いが,尺度に到達した場合には,自己または他者との比較ではないから,安心できるでしょう。
  もっとも,目標到達後さらに厳しい基準を自己に課した場合には,そう簡単に苦しさから逃れることはできないだろうと思われます。
  しかし,楽しさと苦しさは,1つの経験を多面的に考慮するならば,日常的に,併存し両立しうる事柄だと思われます。

3 読書の消費性,投資性と,楽しさとの関係は,一概にはいえないであろうと思われます。
  一例を示せば,絶対的基準は,余り厳しくないように自己設定し,間接的投資の効果もよしと満足し,「本を読む本」のような読書にも,それなりに共鳴するならば,楽しさ度は,逓増すると思われます。
  「情報及び知識の獲得」は,消費及び投資を問わず,行われますが,投資のための読書は,主として,高度に現代に限定された情報及び知識の獲得の意味合いがあります。
  また,それは,過去に蓄積された情報及び知識の獲得を暗黙の前提としているといえます。
  そこで,投資のための読書は,もし,これを消費のための読書でもあるという幻想を与えることができるのであるならば,楽しいという自己暗示も,決してまんざら嘘とはいえないと思われます。

4 GRは,果たして消費としての読書か,投資としての読書か。消費・投資の中のどれに該当するか。また,楽しい気持ちは,どの基準の下に感じているか。
  それは,一概には,言えないかもしれません。
  私はといえば,100万語から200万語の現在,CER2のみ全部読み直したところ,GRは,良い面が,いくつかあると思いますが,それを今伝える術は,必ずしも的確に行使できません。

5 と,極楽トンボさんの真意を慮りながら,以上のことを考えていましたら,たまたま,読書の消費財性・投資財性,さらに,幸福性について,「理系サラリーマン,専門家11人に経済学を聞く」光文社刊定価1000円:2008年5月30日発行の松原隆一郎氏の発言P72以下特にP79以下,中村達也氏の発言P228以下が目に留まりました。
  松原氏曰く,本を購入することは,通常,消費であって,勤労者では,経費で落ちることはありませんが,それとは別に,投資としての読書をせざるを得ない,という程度であったと思われるが,消費が投資に転化せざるを得ない例として,読書を挙げているのが,今日の時代の反映であると思われます。
  言い換えれば,私が,今日の時代の要請から,逃れていないということを示すにすぎません。
  一昔前なら掲げられた,教養としての読書には,言及されていません。
  中村氏は,また,「最新型のパソコンは,貧しかった時代の初めてのテレビほどうれしくない」と述べてもいます。
  これは,意味として,わかります。
  ただし,物心ついたときにテレビがあった多くの人にとっては,別の例を思い浮かべなければならないでしょう。
  中村氏は,幸せというのは,これからの時代は,「時間の豊かさ」であると主張しておられます。
  この「時間の豊かさ」の幸せは,絶対的基準にも,相対的基準にも,なりえましょう。
  物理的時間の確保の問題も,無視できません。
  われわれは,それら各場合の環境の中で,折り合いをつけることになると思われます。
                                                                         それでは、また


▲返答元

▼返答


Maintenance: SSS 事務局
KINOBOARDS/1.0 R7.3: Copyright © 1995-2000 NAKAMURA, Hiroshi.