本を投げるということ

[掲示板: 〈過去ログ〉本のこと何でも -- 最新メッセージID: 3237 // 時刻: 2024/11/24(12:37)]

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2586. 本を投げるということ

お名前: 極楽トンボ
投稿日: 2008/5/14(18:11)

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主観の新茶さん、こんにちは!

〉 私は、このSSSで、はじめて「本を投げる」という言葉を知りましたが、私には、この意味がよくわかりません。本や作家や本を読むのを投げるという言い方は、おそらく一般社会の用語ではないと思われます。
〉 「本を投げる」「本を読むのを投げる」とは、「仕事を投げる」とか、「思案首を投げる」という使い方と同種なのでしょうか。

SSS三原則の3番目、「つまらなくなったらやめる」のことですね。辞書を引かずに、わかるところをつなげて読み、それで読むのがつまらない本は、読むのをやめるということです。こういう洋書の読み方は、勉強法としては、それほど一般的ではないと思います。

〉 私は、同時並行的に複数の本を読む以上、途中で中断したままになる本が、相当数出現するのは当たり前であって、それを1週間後に再開しようが、1月後に再開しようが、1年後に再開しようが、はたまた、自然消滅的に読まなくなろうが、私は、「投げる」という概念を考えません。
〉 結果的に、途中で中断したままになる本が多数でますが、そんな当たり前のことを、悲嘆したり、悩んだり、「やっと投げることができた」と喜んだりすることはありえません。

ここで主観の新茶さんがおっしゃっていることは、読書が習慣になっているということを意味すると思います。いまはそれほど読みたいわけではない本を投げるなどということは、読書習慣のある人にとってはあたりまえのことなのだろうと思います。わたしも日本語の本は、読むことが自然消滅した本が本棚にいっぱいあって、数年もすると、古本屋などに処分されることになります。最近はあまり買わないようにしていますが。

本を投げることが問題化されるのは、英語学習の局面でです。日常的にしかもごく気楽に楽しく英語の本に触れることを習慣化することを第一の目的とするとき、読みたいけど現状では力が足りなくて読めない本は、さっさと後回しにしないとこの目的を達成できません。

日本語の読書と違って、英語の多読の場合、ずっとやさしい内容の書物を読むことからスタートしますから、こんなにやさしい内容の書物を読んでいるのに気楽に読めないんじゃあ、先が思いやられるとか、この程度のものが読めないんじゃあ悔しいとか、余計な雑念が発生しがちなのです。これは、英語の勉強が実利につながっており、純粋に趣味の領域で楽しむことができないからだろうと思います。本が投げられないと悲嘆に暮れたりするのは、こういうわけなのです。

それが証拠に?、多くのタドキストの人々は、読んで楽しくないのに、その本を投げることができないのは、英語を学習するという気分が抜けないまま多読をしていることの証拠のようにみなすことが多いように思います。タドキストの人たちのように、英語の書物を楽しく読むことが習慣となっている人たちにとっては「本を投げること」など当たり前のことで、(不射の射じゃないけど)達人になると意識すらしていないかもしれません。

わたしは、SSSの掲示板を通じて、外国語の勉強は、外国語を使う時の自分の人格を作り上げる作業のような印象を得ています。だから、できれば、日本語での人格形成と同じように、効率だけを重視するのではなく、楽しい英語体験を豊富にすることによって自分の英語人格を形成したいような気がします。しかし楽しい英語体験というのも抽象的でよくわからないし、一方で効率を求める気持ちも強く、どうしていいかわからずいらいらします。ただいんちき多読といんちきシャドウイングでお茶を濁しています。

主観の新茶さんは、わたしのような雑念から解放されておられるようなので、うらやましいかぎりです。


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