「いつの日か天才少女は道路脇の小学校でトイレを間違える」なんて冗談を犬は言わない

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250. 「いつの日か天才少女は道路脇の小学校でトイレを間違える」なんて冗談を犬は言わない

お名前: 道化師
投稿日: 2003/10/25(03:22)

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次のワールドカップ予選もまだ始まらないのに、熱くなってるサッカーフリークの皆さん、こんにちは。道化師です。
10月は私、サッカー月間になっているので続けて何冊か読みまして、下の二つのスレッドから得た疑問について、
引き続き「サッカーって、いったい何を書こうとしてるの?」と言う基本的な発想で、暗黙知からぼんやりと浮かんで来た
よしなし事を、上手くまとまるか解らないですけれど、書きたいと思います。

この書き込みは、主に以下のネタ元よりの情報を元に書かれていますので、
もし読む前に先入観念を持ちたくないとかお思いの方は、読まれない方が良いかと思います。
でも、「あの結末の意味はどうこう」と言うネタばれではないので、未読であっても、
読んだ時の楽しみをスポイルしてしまう事は無いと思います。
(本当なら、少々ネタばれでも、サッカーのある種の読書ガイドになれば良いなとも思うのですが。)

ネタばれ元一覧(みちるさんのリストより抜粋)
Wayside Schoolシリーズ全3巻
「Someday Angeline」
「Dogs Don't Tell Jokes」
「There's a Boy in the Girls' Bathroom」

■サッカーのストーリーは凡庸?

サッカーは、描いている世界、つまり子供達の日常の世界を描いているから仕方ない一面もあるのですけれど、それにしても意外な展開が有る訳でもないし、手に汗握るスリリングな展開も、ぐいぐい引き込むような謎・ミステリーも無い。
(そういうものがある作品としては、ダールの作品とかマーク・トウェインのトム・ソーヤやハックルベリィ・フィン、はたまたナンシードリューとか、マキシマムボーイが思い浮かびます。)
骨格としてあるのは、物語が始まるべき、ある状況とそれがどう解決されたかだけなんですね。
とってもシンプルで、悪く言うと凡庸とも言えるストーリーです。
その単純な構造の中に日本語で言うと「○○とかけて何と解く?××と解く。その心は△△」みたいな謎掛けの仕掛けや、
「ねえ?ちゃんとお風呂入った?」「入ったよ」「うわっ、こいつ『姉ちゃんとお風呂』入ったんだ」みたいなひっかけを入れて読者が飽きないようにして行くって言う仕組みだと思うんです。
じゃあ、何でサッカーが読者として想定している10才前後の子供だけでなく、私達のような大人が読んでも、引き込まれてしまう程の魅力があるのでしょう?
(ゲイリーのジョークが堪らなく好きだからとか、WaysideSchoolのシュールなナンセンスが好きって言うのもありだと思いますが、それだけじゃ無いでしょう?)
サッカーが何をどう描くから、私たちは感動するのか。
そんな事を、少し考えてみたいと思います。
(「面白くて、感動できればそれでいいじゃん。小難しく考えちゃ駄目」と言う野次が何処かから聞こえる・・・)

■WaysideSchool「子供はひとり?」

WaysideSchoolの1巻は、サッカーの履歴によると初めて書いたもののようです。
そのせいか、1巻はそれまでサッカーが蓄えたネタとトリックを平面的に(あれ?WaysideSchoolは立体的かな?)並べたと言う感が否めませんが、その中にその後サッカーの物語の中核となるだろうものの片鱗が伺えます。
皆さんご存じの通り、Waysidescoolは個性豊かな子供達が、多数登場します。
個性豊かと言うより、マンガ的キャラクターを与えられていると言った方が良いかも知れません。どの子供も、特徴的なひとつの性格や問題を与えられて、その範囲の中で行動します。乱暴な子はいつも乱暴者として登場し、人嫌いの子はいつも人嫌い。sillyな子もいつもsillyです。こうしたキャラクターを利用して、サッカーは笑い話や、読者へのひっかけ、ちょっと不思議な話等々を展開していくのです。

しかし、私が注目したいのは、上で述べたその後のサッカーの描く事になるものの中核、つまり、話の中で子供達が見せる一瞬の真実、リアルな心情の描写の部分なんです。読んでいて読者が「うん、確かにそんな風に感じた事がある」と思える部分です。こういう部分の心情の表現の仕方、つまり読者への伝え方が、サッカーは実に巧みです。
(いかに現実の世界を鮮やかな切り口で見せるかが、短編小説の魅力だと私は考えています。そう言った意味ではサッカーは本質的に短編作家なのかもしれません)
例えば、前の女の子のピッグテイルを引っ張ってみたくて仕方ない少年の心情。いわゆる「解っちゃいるけど、やめられない♪」ってやつです。誰にでも、心当たりがある筈です。
また別の例だと名前を間違えられたまま、なかなか本当の事を言いだせない少年。こんな経験、誰にでも一度や二度ありますよね。他にも、ムシャクシャして、ボールを見にすれば手当たり次第に遠くに蹴飛ばしたくなる少年の気持ちの時だって思い起こせば必ずあるし、周りの子がみんな嫌で仕方なくて、誰とも話したくない、みんな不幸な目に逢えばいいだって思ってる少女の気持ちだって、理解出来る。
ここに出てくる様々なキャラクターの子供達の様々なキャラクターは読んでる読者に思い当たる節のある心情ばかりだと思うのです。この心当たりのある思い、思い当たる節がある気持ちを描くと言うのが、読者に自分の事のように感情移入をさせて、共感させて読ませるサッカーの大切な手法だと思います。

サッカーは自分自身のヤードティーチャーの経験を生かして、その時に出会った子供達の事を思い浮かべながら、waysideschoolを書いたと言っています。多分、子供達がその時々に見せる感情や行動、個性なんかをひとつひとつ思い起こして、それを物語に仕上げていく段階で、曖昧な部分や分かりにくい部分を削ぎ落として単一のキャラ、マンガ的キャラに仕立て上げていったのだと思います。だから、出てくる子供達のキャラクター自体は、現実には居るはずも無い(フリークともモンスターとも言える)存在です。

でも、先にも書いたように、その子供達がその与えられたキャラで感じる「思い、心情」は、私たちの経験の中に誰にでもある一瞬の思いをサッカーの見事な筆さばきでスパッと切り取った、誰にでもある共通の「思い、心情」なのだと思えるのです。だから、Wayside Schoolは20数人の多彩な子供達を描いているようでいて、実は一人の子供が持つ多様な側面、つまり読んでいる読者の子供の持つ様々な側面を「君だって、こんな思いした事あるだろう?」という問いかけの形で描いているのだと思うのです。

その証拠に、3巻の最後に心の声を聞ける代理教師が聞いている子供達の心の声は、どれも皆一緒です。みんな同じような事を悩み、同じような事を思っています。だから、この代理教師もひとつの方法で、教室全体をシラケさせる事が出来た訳です。サッカー自身も、最後にこの事を読者に伝えたくて耳3つの代理教師を登場させたのだと思います。
(きっと最後に改心したこの代理教師は、その特殊な能力を良い方に使いだして、誰よりも素晴らしい先生になる事でしょう)

このように考えてくると、サッカーが敢えて「一階に一教室、30階建」と言う奇妙な設定にしたのも、30人を描いているのではなく、実は一人の30の側面を描いているのだよというメタファーに感じてしまうのは、考えすぎでしょうか?

■「Someday Angeline」アンジェリンはフリークとして描かれているのか?

サッカーの公式HPによると、WaysideSchoolの1巻の次ぎに書かれたのが、この作品と言う事で、サッカーにとっては最初の長編(?)と言えるかと思います。サッカーが初期に書いた事もあり、サッカーその後に確立していく手法が、まだこの作品では、未完成な語り口となって現れています。
例えば、「と思った」という心象の叙述が、主人公のアンジェリンだけでなく、父親にも、友人のゲイリーにも現れます。
(ミスターボーンにもあったかな?)

それよりも、もっと大きい「サッカーらしくないなぁ」って言う描写に、アンジェリンの担任の先生の描き方があります。
完全に悪者ですよね。共感の余地の無い悪者を、WaysideSchoolのマンガ化されたキャラのミセス・ゴルフならいざしらず、シリアスな形で書いて、読者のハラハラドキドキを誘い読ませると言うのは、サッカーが多分言いたいであろう事と矛盾する描き方で、この作品の後では、放棄する方法です。
(相手がどんなに意地悪でも、どこかに理解し合える所があるって言うのが、その後、サッカーが繰り返し書くモチーフですから)

そんな事はさておき(良い話には違いないのですから)、
サッカーは果たしてアンジェリンをどのように描きたかったのかが、私の今ここでの感心事です。

サッカーの初めての長編と言うこともあり、「どう読者を惹きつけるか?」に自信が無かったのでしょう。アンジェリンを「天才(=フリーク)」として描いています。そして、作品を通して読者に伝えたい事、「自分って何?」と言う疑問に集約される自我の目覚めの頃の少年少女達(とばかりも言い切れませんが。私などいまだに時々、こんな事を考えますから)の「心の葛藤、悩み」を読者に伝わり易くするためにも必要だったのでしょう。筆力、描写力が足りなければ、平凡なキャラクターの平凡な悩みに終わってしまいますから。でもその後、筆力を高めたサッカーは、同じテーマをより「何処にでも居る普通の子供」の問題として描いていきます。
(マービンとか、Holesのスタンレーなんかは、周りの子供達のキャラクターの方が際だっていて、主人公は読者と等身大の姿に描かれています。)

物語の内容に戻って、サッカーはそういう意図を持って「天才」と言うキャラクターを与えたアンジェリンに
「私って何なのだろう?父親は私を天才と言うし、同級生はフリークと言う。私の何が他の子供達と違うと言うのだろう?他の誰とも較べようがない私の何が違うと言うのだろう?私は他の何者でもない私自身ではいけないのだろうか」と悩ませます。つまり「他の何者でもない自分っていったい何?」と言う悩み、一言で言い換えると「自我」について考えさせ、その解決に物語を進めて行きます。
この物語の進め方には、二つの捉え方があるように思います。
ひとつは「アンジェリンは、同級生も言うようにフリークであり、アンジェリンはそう言われる事に傷ついているけれど、でも、自分が人とは違う事は確かなのだし、そのフリークと言われる部分も含めて、自分を許し受け入れていく」という捉え方です。
もうひとつは「アンジェリンは、同級生からフリークと呼ばれているし、父親からも天才だと思われている。でも、私は天才でもフリークでもない、私自身なのだとアンジェリンは思っているし、サッカーもそう考えている」と言う捉え方です。
これは他者=読者がアンジェリンをどう受け入れるべきかという事について、
前者は「人は多様な個性を持っていて、それがどんなにフリークに見えようと、その人特有の個性なのだから受け入れていかなければいけない」と言う事になり、
後者は「人は例え、どんなに違って見えようと、それがたとえフリークであっても、違うと感じたあなた自身と同じような人間なのであり、それを差別排除しようとする事は、あなた自身の一部を排除しようとする自己疎外なのだ」と言う事になると思います。
こういう書き方をすると、私の意図はお判りなるでしょうけれど、後者がサッカーの言いたい事だと思うのです。
ただ、Someday Angelineでは、まだサッカー自身も、この部分をどう描けば良いか、思案しかねている所が見受けられ、どちらとも判断を付け兼ねるのは確かですが。
多分、水族館で周り全部を水槽に囲まれた時の心象風景や、海に落ちた時感じた心象などに、書き込みたいと思っていたのでしょうが、どうもハッキリしません。いま一つ、アンジェリン自身の心の中の思いが描き足りてないのです。これは、サッカーにしては珍しく女の子を主人公にしてしまった事に関係があるかもしれません。
では、どうして後者がサッカーの言いたい事だと解るのかと言うと、先程も書いたように、その後のサッカーの作品の主人公がより読者と等身大の少年になっていくことで、読者自身が主人公と同化して物事を感じ、思い、考えていけるように描いていくと言う方向性が見る事が出来るからなのです。

話が少し変わりますが、私がこの「Someday Angeline」に少し不満を感じるのは、アンジェリンの死んだ母親への思いがあまり描かれていない事です。うっすらと記憶が残る母親、そして今自分が苦しみ悩んでいるときに一番理解を示してくれたであろう母親への狂おしい程の思慕が本来ならあってしかるべきだと思うのです。そして、世界の調和の中で、全てを感じ取る事のできる能力を持ち、特に海の中に生まれる前からの記憶を感じ取る力を持つアンジェリンは、海に落ちて生死の境を彷徨った時に、海で死んだ母親の深い愛情の思念を感じ取って魂の救済をされると言う結末が欲しかったと思うのです。でも、これじゃ複雑すぎて児童書にならないかなぁ?

■「Dogs Don't Tell Jokes」ゲイリーは何故ジョークを言うのか?

基本的に完結している「Someday Angeline」に何故続編が出来たのでしょうか。それは天才を主人公にしてしまったがばかりに、読者と等身大の自我の葛藤を描くことが出来なかったサッカーの反省から生まれたのだろうと私は推測します。
この作品の主人公ゲイリーは、自我の葛藤、「僕って何?」(おや、このタイトルズバリの三田誠弘の芥川賞受賞小説がありましたっけ)と言う疑問に簡単に「僕はジョークを言うidoitさ」と言うアイデンティティーを持っています。しかし、このアイデンティティーを頑なに守ろうとするが故に、周りの人と上手く調和する事が出来ません。そして、ゲイリー自身もそれは承知の上で、周りの人と調和するよりもidoitであり続けようとします。
何故か?これは、この作品の中でゲイリーと父親が「タレントショーまでの間、ジョークを言わないでみたらどうだろう」という会話の中でサッカー自身が明確に解答を出しています。つまりは、「傷つきやすい生身の自分自身をidoitという仮面を被る事によって守りたい」と言う事ですね。守りたい相手は、勿論無神経な同級生からでもあるでしょうけれど、「傷つきやすい自分」を知りたくない自分自身からでもあります。それは自分自身の心に対して目をつぶる姿勢でもあります。
この事の象徴として、サッカーはゲイリーに「受けないジョーク」を言わせ続けます。「笑い」とは、自分が本当におかしいと思い、相手にそのおかしさがシンパシーとして(テレパシーじゃないですよ、笑)伝わった時に成立するものだからです。だから、自分の心に目をつぶり、自分の心を知らないが故に相手の共感に思いを馳せる事が出来ない状態で、「受けるジョーク」は言えないと思うのです。「受けないジョークを言い続ける事」は「自分の心から目を背け続ける事」なのです。だから父親は「もっと自分の心を見つめるように」とゲイリーに求めたのだと思います。

余談ですが、この「傷つきやすい自分の心」を守る為に何らかの固い殻を被るという話は、少年を描く小説には結構良くあるパターンのようで、私の少ない記憶の中でも、アーヴィングの「ホテルニューハンプシャー」出てくる熊のぬいぐるみを着続ける少女とか、大江健三郎が昔の社会党委員長だった浅沼稲二郎を刺殺した山口音弥少年をモデルにしたと言われる「セブンティーン」とかがあります。このセブンティーンと言う小説、大江作品の中でも秀逸だと思うのですが、残念な事に少年のプライバシーを冒してるとか言う理由で発禁になっているという話をどこかで聞きました。

話を戻して、ゲイリーの「本当の自分の心を探る葛藤」、自分探しの旅は、この父親との約束をするところから始まります。そして自分の心を見つめ続け、見つけた自分の心がMrs.Snitzerryなのでしょう。そして、自分の心を発見したゲイリーは、ジョークを聞く相手への共感を考えることが出来るようになります。(相手の具体的な対象として、同級生のJoeがどう思うか?と問い続けています。)
更についにはタレントショーで大受けのジョークが言えるようになった訳ですが、1位になった後、一人になって泣くゲイリーの姿は、知らぬ振りをしながらも傷ついてきた自分の心を発見し、無防備な状態になった赤ん坊のような一番正直な人の姿だったのだと思います。

■「There's a Boy in the Girls' Bathroom」ブラッドレーは何故モンスターになったのか?

「Dogs Don't Tell Jokes」でゲイリーは自らidoitになりましたが、「There's a Boy in the Girls' Bathroom」の主人公ブラッドレーは、カウンセラーのカーラとの会話の中で明らかにされるように、「誰かが彼をモンスターと言う、周りもそれに同調する、最後に彼自身も自分をモンスターだと思いこんでしまう」と言う更に悲しい状況をサッカーは設定します。しかし、その語られるブラッドレーの内面は、今までの作品の主人公の誰よりも、ごく普通の読者と等身大の少年です。「モンスター」と作者自身がネーミングして置いて、決してモンスターとは描いていないのです。誰でもが感じ、葛藤する事を、同じように感じ、葛藤しています。そこにより深く私達読者が読後に感動する理由があると思います。

物語の流れは、自分でもモンスターだと思いこんでいる少年ブラッドレーが、ゲイリーと同じように自らの心を探して見つけ、回復していく姿を描く事が骨格になっています。
ただ、この作品で私が気になるのは、「何故、ブラッドレーはモンスターになってしまったのか?」と言う事なのです。確かに先生や同級生との間に、困ったもんだと言う態度が頻繁に描かれます。でも、それはゲイリーがモンスターになってしまった後に、自らをモンスターらしく見せる為に振る舞っている演技なのです。その演技の中に自らを殻に閉じこめているのだと思うのです。何故、モンスターになったかは、結局この作品では描かれていないと私は思います。そのサッカーの与えた解答がマービン・レッドポストの2巻6巻になっていると思うのですが、いかがでしょうか?

■サッカーの作家としての成長

以上つらつらと書き述べて来たように、サッカーはどの作品でも、繰り返し繰り返し「自分って何?」と言う子供達が誰でも突き当たる問題を書いています。もう殆ど金太郎飴状態と言っても過言ではないと思います。サッカーもこの事は感じているようで、公式HPで、殊更「Holes」の作品としての仕上がりに満足しているのは、Holesがこの繰り返し描いてきたモチーフにプラスして、ストーリー性を加える事が出来たからなのだと思います。きっと、サッカーは今後、より面白いストーリーを備えた物語を書くストーリーテラーになりたいのだと思います。Holesの次の作品が楽しみです。


▼返答


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