[掲示板: 〈過去ログ〉PBの掲示板(ネタバレ可) -- 最新メッセージID: 1182 // 時刻: 2024/11/24(09:34)]
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メメンティーアンな皆様、こんにちは。
いきなり横リプの道化師です。
メメント、数カ月前に1度見ました。
こんなに議論の湧く映画だとは、
その時は思ってもいませんでした。
だって、解り易かったんだも〜ん。
私もメメントを見始めた時は、
「倒叙型のミステリー映画なんだぁ」って思って見ていました。
で、最後まで見た時、
「あっ、ミステリー仕立てではあるけれど、
謎を解明して楽しむ映画ではなくて、
作者のメーッセージ性の強いプロパガンダ映画なんだぁ」
って、思いました。
そう考えると、この映画に込めた作者のメッセージは
わりとすんなり受け入れられました。
作者(監督であるのか、脚本家であるのか、原作者であるのか知りませんが)から
この映画に込められたメッセージって、
「誰の作為もない出来事(所謂、客観的事実)そのものと
(以下、便宜的に真実と書きます)、
語られる(=記憶される)出来事は
(以下便宜的に記憶と書きます)
いつも、誰によっても違い、
私たち人間には真実なんて物は存在しない。
いつも当事者によって、恣意的に、選択、脚色された
都合の良い記憶しか存在しない。
そして、その恣意的で歪められた記憶こそが、
私たちをとりまく世界そのものなんだよ」
って言う事だと思いました。
そう考えて、メメントを振り返ると、
妻はレイプで死んだのか、どうか、とか、
主人公は、真犯人を殺していたのか、どうかとか、
そういう出来事は、登場人物と同様、
観る私たちにも委ねられている映画だと思います。
だって、どんなに細かく検証的に見ても、
メメントの中に「真実」は描かれていないでしょうから。
出来事は、それを語る(記憶する)者によって、作られると言う事です。
こんな事を考えていたら、昔見た映画、
黒沢明の『羅生門』を思いだしました。
この映画もひとつの出来事が、語られる者によって、
全く違うと言う映画でした。
黒沢明と言う監督は、
日本人には珍しく青臭いメッセージ性の強い映画を作る監督ですが、
きっと『羅生門』を作った時の黒沢明の頭の中には
「あいまいで主観的な日本、合理的で客観的な西欧」と言う対比があって、
そのあいまいで主観的な日本の精神を描きたくて
『羅生門』を撮ったのだと、私は思っています。
今、それから数十年経って、
黒沢明が「合理的で客観的」だと思った西欧の精神も
自らの文明の持つ行き詰まり、閉塞感を感じて、
揺らぎ、客観性を疑い、真実を疑うようになって来たんだ
って事なのかも知れません。
ただ、人は疑ってばかりいても生きていけません。
自分の因って立つ所、生きる動機、そんなものが必要です。
それが、じゅんじゅんさんが上で皆さんに質問した(鋭い質問です)
>ここを読んでいる皆さんに質問です。
>レニーはまた新たな「ジョン・G」を探すと思いますか?
>私は、探すと思います。彼が殺されてしまわない限り、永遠に。
の答えになると思います。
作者、主人公は最後に、
「これから生きて行く上で、
生きていく動機、根拠が必要だと思った。
だから、妻を殺した犯人を探すと言う
記憶だけが残るように選択した」
と言う事だと思います。
主人公が、10分しか記憶が無い中、
真犯人を殺したんだと言う満足感に浸りながら、
あのような選択をする理由はありません。
「ふと気がついたら、満足感(達成感?)に浸っていた」
で良いのですから。
それを敢えて、主人公にあのような行動を取らせた所に、
作者の言いたい事があると思います。
相変わらず、笑いを忘れた道化師でした。
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