[掲示板: 〈過去ログ〉英語以外で多読を楽しむ掲示板 -- 最新メッセージID: 3292 // 時刻: 2024/11/23(17:50)]
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"柊"さんは[url:kb:3127]で書きました:
〉〉まあ、数百年に亘って、いろんな作者が、いろんな伝承など含めて寄せ集めたものだから、一貫性とかあまり期待してはいけない(というと福音派の非難を浴びそうだけれど)し、いろんな解釈ができるよね。
〉〉# 日本でいうと、古事記とか日本書紀に近いような。
〉まあ、そうですね。多分、その辺をあまりはっきり言わずに、正しいことしか書いていない風を装っているのが、気に入らなかったのかなと思います。「こう理屈をこねたら筋通りますよね?」みたいな、汗だくの感じがどうも。
書評システムの方に、「より大きな計画の一部として今の苦しみがあるというのも、実は聖書に書かれていないらしい」と書かれていたので、あちらで話しをするのも何なので、こちらで。
これは、たぶん、ヨハネ9章の、
『「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 』
の部分を指していると一般には解釈されていると思います。
『眼が見えない』のは『神の業がこの人に現れるため』という「より大きな計画のため」というのがすなおな解釈ではないかと思います。(いやそうではなくて実は違うという解釈も当然にあるとは思いますけれど。)
あとは、ヨブ書の全体が、それに近いこと
『サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 』という言葉に対して、その後ヨブがいろんな災難に遇う訳ですが、最終的にはメデタシメデタシになるところ辺りも、そうと言えなくもない。
なので、「実は聖書に書かれている」が普通の素直な解釈だと思います。
そうでない解釈は、「実は聖書を読んでいない」か「奇を衒って話題性を狙った新解釈」じゃないですかね。
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