[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(05:54)]
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お名前: たこ焼
投稿日: 2008/11/2(12:59)
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みなさん、こんにちは。たこ焼です。
個人的意見であったので撤回はされましたが、
古川さんのご投稿(変更前の372)、拝見しました。
僕の疑問・質問に対して、とても明快にご回答されていました。
ですから、少なくとも古川さんには、先の投稿(366)で書いた疑問点について、
大きな誤解なく伝わったものと確認でき、ホッと安心することができました。
しかし、
古川さんのご投稿(変更前の372)やソレイユさんのご投稿(373)を拝見したところ、
「まりあさんのあの発言は強制力を持っている」という先の投稿(366)での前提は、
僕の単なる思い込み・勘違いなのかもしれない・・
という可能性に気付きました。
また、
僕の書き方が不明瞭だったのか、誤解された方もおられるようでした(379)。
そこで、これら点を考慮し、
僕の疑問点をここでもう一度書いてみます。
(ごめんなさい。誤解を避けようとするあまり、とても堅苦しい文章になっております。)
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SSSのサイトに限らないことだと思うのですが、
一般に、ネット上の掲示板に何か書き込む時には、
その掲示板を管理運営している人が定める投稿範囲に従うことが必須条件である
というルールがネットの世界にあるように僕には見えます。
ですから、
掲示板を管理運営している人が、ある投稿に対して、
「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」
と発言されたとしたら、(反論する機会が与えられる場合もあるかもしれませんが)
基本的にはそのまますぐに「はい、了解しました」と従うものだと僕は思っています。
(もしも不満があるのであれば、
投稿を受け入れてくれる他サイトの掲示板を捜してそこに投稿するなり、
自分で掲示板を開設すればいいだけのことです。)
しかし、もしも、
掲示板を管理運営している人ではなく、単なる掲示板参加者のひとりが
「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」
と発言されたとしたら、
もちろん十分に尊重はしますが(発言をしっかり受け止めてよく考える)、
熟慮の結果、その発言に従う場合もあれば、
従わずに「なるほど、そのような考え方もあるのですね」
というスタンスをとる場合があってもかまわないと僕は思っています。
つまり、
掲示板を管理運営している人の「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」には、
投稿を止めさせる強制力があるけれども、
単なる掲示板参加者の「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」には、
強制力はない、と捉えています。
掲示板を管理運営している人・・・
通常、個人のサイトでは、
「サイトの主催者」と「掲示板を管理運営している人」はひとりの同一人物であることが多く、
ついつい、SSSのサイトにおいても、
「サイトの主催者」=「掲示板を管理運営している人」
であり、
サイトの主催者の「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」には、
投稿を止めさせる強制力がある・・・
と思い込んでしまいます。
ですから、はっきりと確認したいのですが、
SSSサイトの主催者であるSSS英語多読研究会の3名の先生方、
古川さん、まりあさん、マリコさん、
の中で、
「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」というご発言に
強制力をお持ちなのは、誰なのでしょうか?
古川さんだけなのでしょうか?あるいは、ご3人、すべてでしょうか?
もちろん、掲示板管理責任者が古川さんであることは僕も知っており、
掲示板管理責任者としての古川さんのご発言には強制力があると了解しております。
しかし、他のお二方については、よくわからないのです。
まりあさんやマリコさんのご発言にも強制力があると思い込んでおりましたが、
これは僕の単なる思い込み・勘違いなのでしょうか?
そして、
もしも、複数の方がその強制力をお持ちなのでしたら、
強制力行使でのダブルスタンダードという事態を避けるためにも、
明快で統一した投稿ポリシーが必要だと思うのですが、それは何でしょうか?
お聞きしたいことは、以上です。
僕の質問の目的、要するに一番大事なことは、
「強制力行使において、ダブルスタンダードに見える状況が
起こりえないような仕組みを作っていただき、それを明示していただく」
ということです。
ですから、例えば、
古川さんのみが強制力をお持ちということでしたら、
強制力行使のダブルスタンダードはそもそも起こりえないでしょうから、
古川さんが明言される投稿ポリシーだけで十分となります。
その明言される投稿ポリシーが、
他の主催者の納得を得られているものかどうかについては
僕は問題にしていないつもりなのですが、了解があったほうがいいのかもしれません。
さてさて、
このような投稿、必要だろうと強く思うから投稿しているだけで、
書いていても全然楽しくないし、読んでも全然楽しくないでしょうし、
そんな投稿を続けるのは僕の趣味ではありません。
少なくとも古川さんには質問内容が伝わっているようですし、
僕も仕事が忙しいですので、
この話題に関する僕の投稿は、これにて終了とさせていただきます。
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以下はおまけです。(^^)
たこ〉しかし、どちらのポリシーかによって、
たこ〉掲示板が動いていく方向性は大きく異なるように僕には思えるのです。
それぞれのポリシーでどう動くのだろうか?
という僕なりの予想を書いてみたいと思います。
眉にツバつけてごらんください。(笑)
あらゆる全てのものには二面性があります。
ですから、メリットだけでなく、デメリットにも触れることになりますので、
その部分だけを見るとあたかも批判しているように見えるかもしれません。
しかし、全体を見ていただければ、批判の意図が全くないことを分かっていただけると思います。
(一つの掲示板に共存できないだけで、
それぞれのポリシーは、両方とも理にかなった正しいものと僕は思っていますので・・)
ま〉 こういう読み方・本の選び方が良くないか?
ま〉 こういう方法を「併用」してはどうだろうか?
ま〉 という意見は歓迎です。でも「多読と多聴を一時的にやめて」
ま〉 といわれますと、多読のバリエーションではなくなりますから
ま〉 そもそもここで論じる意味を失います
ま〉 多読の掲示板なので、(少数意見も構わないけれど)多読の
ま〉 バリエーションの範囲でお願いします、と申し上げました。
ま〉 限界を示しただけで矛盾はないつもりですが。
まりあさんご自身の多読観にしろ、
まりあさんがご自分の頭の中で想定された
「参加者の多数が賛同する多読観、掲示板全体を集約した意見」にしろ、
「多読」に関して「あるイメージ」があるわけです。
そして、そのイメージは無限の広がりを持つわけでもなく、有限です。
なにも、まりあさんだけに限らず、みんなそういう有限なイメージの持ち方をしているのです。
まりあさんの投稿で言えば、「多読のバリエーションの範囲」「限界を示した」
という言葉に、イメージが有限であるという感覚が表現されています。
そしてこの投稿の例で言えば、
「多読と多聴を一時的にやめて」という行為が
そのイメージの範囲外と認定され、「論じる意味のないもの」とされました。
さてさて、
多読通信第30号の編集後記にも書きましたように、
[url:http://www.seg.co.jp/cgi-bin/kb7.cgi?b=sss-news&c=e&id=107]
僕は、「多読と多聴を一時的にやめて」という行為を有効な技であると思っていて、
「多読のバリエーションの範囲」の内に入れているわけです。
おそらく、僕が書いた編集後記のような投稿であれば、まりあさんも
「一時的中断」を「多読のバリエーションの範囲」の内と認定されると思います。
ところが、多読との関係があまり明らかにならない文章表現では、
「一時的中断」を「多読のバリエーションの範囲」の外と認定されるのでしょう。
これは、ダブルスタンダードでもなんでもなく、まったく一般的な判断で、
まりあさんだけでなく、僕を含めみんなそのように、内と外と認定するのだと思います。
注意していただきたいのですが、
ここでは「一時的中断」が内か外かを論じたいのではありません。
仮に、僕のあの編集後記が、まだこの世に存在しておらず、
「一時的中断」と多読との関係付けを、まだ誰もやっていない世界を空想してください。
(実際のところ、忘れ去られているので、空想しなくてもいいのでしょうが。笑)
一見、多読と全く関係ないように今は見えるかもしれないけれども、
多読と関係付けられて有効な技に将来的には育ちうる可能性を秘めた行為
について書かれた投稿を
「多読のバリエーションの範囲の内だけ」という投稿ポリシーを採用した場合には
取りこぼしてしまう可能性があることに注目していただきたいのです。
一般的に、
何か新しいものは、既存のイメージの枠の外からやってくることが多いのです。
枠の外にあるのは、
役に立たない、有害、悪い、まったくの無関係・・
などと、切り捨てられて注目すらされない要素であり、
既存のイメージのいわば「影」なのです。
つまり、
新しい発見とは、「影」から価値物を拾ってきて、
既存のイメージへ付け加えることなのです。
(ついでながら、新しい発見のコツの一つは、価値観を逆さに見てみること。
とりあえず「影」に価値があると仮定してみることです。)
「一時的中断」程度の小さい技・工夫の発見なら、
「多読のバリエーションの範囲の内だけ」でも発見できる可能性は高いでしょう。
実際、一時的中断してもいいんじゃないか、というご意見は、
僕の編集後記とはまた独立に、ちらほらと散見できましたから。
しかし、
とりわけ新しいもの、コペルニクス的転換と呼ぶべきもの、革命的なもの、
現在の多読を超える多読・『超多読』のようなものについては、
「多読のバリエーションの範囲の内だけ」という投稿ポリシーを採用した場合、
発見・開発できる可能性はほとんどゼロと言ってもいいと思います。
真に革命的なものは、「影」からしか発見できないのです。
多読3原則がまさにそのいい例です。
3原則に出会う前、英語習得のイメージは、
「辞書を使って、分からないことを調べ、教材に食らいて遣り通す」
でした。
辞書を使うことはあまりにも当然で、
辞書を使わないで読むことに慣れておくことも必要、
という発想はあったけれども、
辞書を使わないで読むことで英語に対してもっと自由になれる、
という発想はまったくありませんでした。
分からないところを全て見つけ出して調べることはあまりにも当然で、
何を使ってどのように調べてどう覚えるか、
ということにしか意識が向かず、
飛ばすことが英語を言葉として感じる近道だ、
とは想像すらしませんでした。
苦しくってもやりとおす事があまりに当然で、
やりとおせない自分はなんて駄目なやつなんだ、
と自分を責めるばかりで、
自分を本に無理して合わせるのではなく、本を自分に合わせればいいんだ、
とは気軽に考えられませんでした。
つまり、
多読3原則は、その頃の英語習得のイメージの「影」の中にあったのです。
同様に、『超多読』は、そんなものが存在すると仮定すればの話ですが、
今の多読イメージの「影」の中にあるはずなのです。
今、酒井先生がこども式のサイトで何をされようとしているのか、
僕はあまり詳しくは知りませんが、ちょっとみたところ、
何らかの『超多読』を模索されているかのように見えます。
何か面白いものが見つかることを僕はとても期待しているのですが、
あそこのサイトでは発見・開発が困難であろうと予想される領域がひとつあります。
多読イメージの「影」の中の「英語学習」に関係する領域です。
こども式サイトにも「英語学習」に肯定的な方はもちろんおられるのでしょうが、
どちらかと言うと、SSSのサイトに比べて、
より否定的な人がより多く参加されているように見えます。
つまり、「英語学習」に関係する影がより深いのです。
深い「影」に下手に手をつけると調子がおかしくなる危険性もあるでしょうから、
価値物を拾ってくるのはとても困難なように思えるのです。
ですから、「英語学習」に関係する領域から価値物を拾える可能性が高いのは、
「多読のバリエーションの範囲の外でもOK」という投稿ポリシーを採用した場合での
SSSサイトの「英語学習と試験に関する掲示板」だと僕は思うのです。
おそらく、
古川さんが「外でもOK」という投稿ポリシーを出されたのは、
『超多読』発見・開発を意図されていたのではないと思います。
単に、今まで影となっていたところにも有益な情報はたくさんあるだろうから拾ってみよう、
ということだったのでしょう。
そして、その狙いどおり、たくさん有益な情報や新しい技・工夫が見つかるのでしょう。
しかし、それだけではなく、上記のような大発見の可能性をも、
「影」に触れるという作業は内在しているものなのです。
ここまでをまとめると、
投稿ポリシーを、「多読のバリエーションの範囲の内だけ」にするか、「外でもOK」とするかで、
『超多読』発見・開発の可能性がまったく異なる
ということです。
じゃあ、大発見の可能性があるのなら、「外でもOK」の投稿ポリシーにすればいいじゃん、
とお考えになるかもしれません。
しかししかし、そう単純・簡単なことではないのです。
まず、もっともらしく『超多読』などと書きましたが、
こんなものが実際に存在しうるかどうかは、まったく不明です。
なんせまったく新しいものですから、その存在の予想すらできないのです。
いくら探せど、結局見つからない可能性は高いのです。
そして、大部分の「影」は、やはり相変わらず「影」のままなのです。
さらには、
いろいろなリスクが高まります。
「影」に触れるという作業には、どうしてもリスクがつきまとうのです。
「他人は他人、自分は自分」と割り切れる人でないと、疲れるかもしれません。
自分が「役に立たない、有害、悪い、まったくの無関係・・」と考えていることを
他の人がそばでやったとしたら、つまり、「影」に近づくと、
不快な気持ちやイライラが湧いてきたりしがちです。
すると、掲示板上での感情の行き違いからの対立など、トラブルの頻度が高まります。
(ついでに言えば、
「強制力行使の基準」について、僕が楽しくもない投稿をして、明示表現を求めたのは、
この辺のトラブル・リスクを少しでも下げようという意図でもあるのです。
「このような投稿はこの掲示板には投稿しないでください」という強制力行使は、
強力な火消しであると同時に、やりようによっては、きわめて破壊的な火種にもなりえますから。)
トラブルの頻度が高まれば、今までのSSSサイトの掲示板が持っていた
優しい雰囲気などが損なわれる可能性もあります。
掲示板がout of control気味に動き出し、
どういう内容の投稿が出てきて、どのように展開し、どこに行き着くか、
予想がつかないケースも出てくるでしょう。
(意図しないところへセルフによって連れて行かれる時と相似の感覚でしょうか。)
そして、そのような掲示板を見て、
多読の初心者・入門者が戸惑い、迷うこともあるでしょう。
ここまでをまとめると、
創造にはリスクがつきものであり、
「外でもOK」の投稿ポリシーは、冒険・挑戦的
ということです。
では、
投稿ポリシーを、「多読のバリエーションの範囲の内だけ」にするとどうなるでしょうか?
基本的には今までのSSS掲示板と同じということになるのでしょう。
つまり、上述のようなリスクは低く、安定感のある堅実なものとなるのです。
確かに、『超多読』は発見・開発できないでしょうが、
今の日本、『現在の多読』だけで十分に革新的でしょうから、
まずはその普及に努めるというわけです。
もしかすると、
どこか他のサイトで『超多読』は発見・開発されるかもしれませんが、
発見・開発された後なら、「多読のバリエーションの範囲の内だけ」という投稿ポリシーでも
掲示板に取り込めます。
さらに、
真に革命的な発見・開発などできなくても、
パンダ読みとか、シマウマ読みとか、今までの経験からすると、
そこそこ新しい技・工夫の発見・開発は十分可能でしょうし、
それだけでもかなり効果的であることが期待できます。
今の世の中、
「冒険・挑戦的」なものが「堅実」なものよりも、
ずっとずっと高く評価されるような風潮がありますが、
このあまりに偏った評価はおかしいんじゃないかと僕は思っています。
(例えば、バブル崩壊による経済危機。
下手に冒険・挑戦的なこと(株に手を出すとか新規事業拡大など)をせずに、
堅実に仕事を進めていた企業が日本にはたくさんあったからあの程度の危機ですんだ・・
ようにも僕には思えます。)
ここまでをまとめると、
「内だけ」の投稿ポリシーは、堅実・賢明
ということです。
ミカンの苗木を植えればミカンを収穫できるでしょうし、
リンゴの苗木を植えればリンゴを食べられるのでしょう。
2つのポリシー、
どちらも正しいけれど、得られる果実が違うのです。
以上、ざぁーーーッと書いてきましたが、
ほんとうにこのとおりに動くのか?
当たってそうな気もするし、なさそうな気もするし・・。よくわかりません。
掲示板を分けることでふたつのポリシーをサイト内に共存させる・・
というアイデアが、今ふっと湧きましたが、うまくいくかどうか? う〜ん、よくわかりません。
たとえ今さら「外でもOK」などを明示したところで、いったん萎縮した気持ちは戻らず、機会を逸した・・
ということになるのかも。う〜ん、結局そうなる?
ではでは。
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