わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

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280. わかりやすく、おもしろい本。古田裕清 著 『翻訳語としての日本の法律用語』

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/20(01:31)

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主観の新茶さん、こんばんは。

やっぱり何が書いてあるのか気になって、おすすめの本、入手して少し読んでみました。(全12講中第3講まで)

おもしろい!

そしてまた、とてもわかりやすく書かれてますね。
(わかりやすいからおもしろいのか? ともあれ、)
いい本をご紹介くださって、ありがとうございました。

まったく、どこを読んでも「なるほど、なるほど」なのですが、特にこの部分に納得。


 欧州には自然法という考え方が昔からあります。これは「人間関係や社会関係,即ちしがらみ一般は,その自然本性上,必ず正義を実現する何らかの法則性に従っているはずだ。我々はこの自然本性上の法則性を認識し,この法則性に従って生きるべきだ。人間の作る実定法は,この法則性を実現するものであるべきだ」と概略できる考え方です。自然法思想は古代ギリシア末期のストア派に由来するものですが,やがてキリスト教の伝統に持ち込まれ,「我々が本性上従っているはずの法則性」は神が創造した法則と等値されました。これを明文化したものが実定法であるなら,法に訴えることはキリスト教の神への忠誠を証し,神への助力を願うことに他なりません。ホッブズやロックの近代自然権思想もこうした自然法思想の延長線上にあります。
 こうした自然法思想は日本ではなかなか受け容れられません。自然本性上従っている法則として平均的な日本人が理解できるのはせいぜい自然法則(古典力学や相対性理論,量子力学理論など)止まりで,法律もそうした法則性であるという考え方は馴染めないようです。これは日本が中国の法家思想(為政者が制定した法律を人民に課す,という考え方)の影響を長らく被り,実定法以上の超越的な法の存在を信ずる伝統がなかったためです。日本的な人間関係に自然本性があるとすれば,それはむしろ法律と対置される「しがらみ」です。この「しがらみ」を一種の「ことわり(理)」,「定め」と諦念して受け容れる精神風土なら,日本には昔からあるようです。(p.25-26)

ここでの「自然本性上従っているはずの法則性」は、イコール「実定法以上の超越的な法」であり、
イコール「あるべき法」で、イコール「正義」だと思いますが、
実定法をそうした正義に近づけようとする理想主義が、西欧の考え方にはあるようです。

"iustitia"や"Gerechtigkeit"と呼ばれる状態はあくまで理想状態であり,実現したかに見えたとしてもそれはほんの一時にすぎないでしょう。それにもかかわらずこうした理想状態を象徴として想定する,というところに,ヨーロッパ法文化の一つの基本特徴があります。こうした理想状態を理念として設定し,その理念を少しでも社会で実現したい。理念そのものに向かって社会を,現実を少しでも近づけたい。こうした力が,ヨーロッパではギリシア・ローマの昔から働いています。このことは,「法の目的は正義である」という文が雄弁に語っています。この文は,「正義」という理想状態が実在する,という強い確信と,その状態に社会を近づけたい,という固い意思とを,表しています。・・・
(中略)
 ・・・。同時多発テロ後に米大統領がビン・ラディン氏を念頭において"We need justice!"と叫んだ背後にも,この正義に関する理想主義が根付いています。
 では,「正義」と形容されてしかるべき状態は,具体的にどのような状態でしょうか。これに対する答えは拠って立つ正義論の中身によって変わってきます。また,その状態が国内の状態のことなのか,国際関係のことなのか,によっても答えが違ってきます。更に,「正義」の原産地であるヨーロッパ(アメリカを含む)では時代によっても答えが変わってきました。いずれにせよ,正義についての理想主義は,日本ではいまだに馴染みが薄い考え方かもしれません。「法はしょせん,人間が作ったものだ。紛争や社会問題が発生するたびに現行実定法が適用され,場合によっては法の欠陥が指摘される。新たな実定法の必要性が生じたら,法整備も行われる。その繰り返しが法と社会の歴史だ」という現実主義・歴史主義の方が,多くの日本人には性にあうようです。しかし,我々が明治以来導入してきた欧州起源の法文化は,以上のような理想主義を根に持っているのです。(p.15-16)

「正義」の内容はいろいろであるにせよ、その「正義」に、社会や実定法を近づけよう、
という考え方や働きが、西欧の法文化にはあるということですね。

したがって、新茶さんのおっしゃる、

〉法は、お上が作ったから、守らされるのであって、正義とは必ずしも結びつかないという考えもありませんし、悪いことだと思うのは法を犯したからだが、なぜその法があるのか、理由がわからないというような言いぐさが通るという考えもありません。

これは、「あるべき法」と実定法とを混同した言い方だ、ということになると思います。
実際に定められている法(実定法)が不当だ、とは、西欧の考えであっても
当然に言えることだと思います。
ただそこから先、実定法は正義にかなったものでなければならないからとして
正義に近づけようという意識が働くか(西欧の場合)、
「正義」について考える風土が無いため、実定法を正義に近づけようという意識は薄く(または、無く)、
基本的には諦念というか、せいぜい愚痴やため息で終わるか(日本の場合)、
の違いがあるということだと思います。
 
 
久しぶりに頭を使ったような気がします・・・
学生時代、何となく聞いていたようなことも、いろいろ思い出しました。
良い本を教えてくださって、ありがとうございました。
それでは。


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