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お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/19(09:42)
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主観の新茶さん、こんにちは。あらためまして。
やっぱり何かモヤモヤするので。
おっしゃるように、権利が正義の具体化であり、それゆえに、権利主張は正義の取り合いになる、
(どっちが「right」か)というのはわかります。
〉 したがって、法を実現することは、いつも必ずしも正義ではないという考えでは、ありませんし(西欧の基本理念では、法の実現は必ず正義です)、正義は、法とは、別のところにあるという考えもありませんし、
これもわかるのですが、
〉法は、お上が作ったから、守らされるのであって、正義とは必ずしも結びつかないという考えもありませんし、悪いことだと思うのは法を犯したからだが、なぜその法があるのか、理由がわからないというような言いぐさが通るという考えもありません。
〉 なぜなら、自分で作ったものという理念ですから。
ここがよくわかりません。
法が正義であるべき、というのと、実際に定められている法(実定法)が正義である、というのとは、
違うのではないでしょうか?
実定法が正義であると主張するとすれば、それはまさに法実証主義の主張ではありませんか?
(自然に『ある』はずの正義=法を、「自分で『作る』」というのも、よくわかりません。)
〉 この理念を捨てて、統治者、つまりお上が、勝手に、物事を進めていると言動するのでは、言語政策であれ、教育政策であれ、自分を否定した、責任逃れの、恥ずべき言動にすぎません。
でも、実際には、「法を自分で作っている」などという現実は無いわけですよね。
一国民にはなすすべもなく、法が作られ、有無を言わさず従わせられるのが現実です。
たしかに、西欧には、法は普遍的な正義に基づいたものであるべきであって、
単なるその時その時の政府の意向や何かが法であるべきではない、という意識が強い、
ということは言えるでしょうね。
だから、何が正義かについての議論が盛んだし、大統領選挙などでも、
あからさまな利益誘導ではなく、いかに自分が正義に近いかをアピールすることになる、
という面はあると思います。
何をするにも大義名分が重んじられる。
それに対して日本は、何が正義であるかの議論ははなはだ脆弱で、
結局は力の強い者に支配されるしかないんだ、泣く子と地頭には逆らえぬ、という意識が強い。
法が正義に基づくという意識も希薄で(そもそも正義が何かと深く考えないから)、
所詮は、時の権力者がお決めになって、従わざるを得ないもの、という意識。
西欧だと、それぞれ一人ひとりに、正義についての確信というか、強い観念があって、
実際の法がそれに則っているのか、と照らし合わせる意識が強いのでしょうね。
だから、「違う」と思えば、ごうごうと非難をするし、反対運動などもすると。
(そんな「参政」が有効であるというのは、大いなるフィクションかもしれないのですが。)
日本には、これと決まった正義の観念がそもそも無いので、実定法を正義に近づけるという意識は薄いが、
西欧では、法は当然に正義の化体であるべきという意識が強く、実定法を正義に近づけようとする意識が強い、
ということは言えるかもしれませんね。
〉 西欧では、法は、道徳を前提としており、道徳の一部が昇華したものが、法です。
〉 道徳及び倫理は、西欧の人たちにとって、自らが自分で決めたから、積極的に守る規範であり、道徳及び倫理は、正しいこと=正義であり、正義を具体化したのが、権利であり法であり、権利ないし法を実際に実現することは、正義であり、道徳そのものである。
どうも、「実定法は正義に基づくべき」が、「実定法は正義である」に、すり替わっているような気がします。
またいろいろ考えてみます。
ありがとうございました。
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