Re: 言語を理解する上で西欧思想の正確で実のある議論

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271. Re: 言語を理解する上で西欧思想の正確で実のある議論

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/19(01:27)

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主観の新茶さん、こんばんは。たかぽんです。

〉たかぼんさん、お返事ありがとう。
〉主観の新茶です。

〉私は、古代ギリシアから古代ローマ、中世ヨーロッパ、近代ヨーロッパを経て、現代まで連綿と続く「法と道徳、法と正義の関係など」についての西欧の「客観的な歴史的評価」についての通説を書いたのです。

そうなんですか。
古代ギリシアから古代ローマ、中世ヨーロッパ、近代ヨーロッパ、現代までって、
一貫しているわけではないと思いますし、それに大陸法、英米法など、地域でもずいぶん違うと思います。
特に中世から近代への転換期、啓蒙主義以後の考え方はガラッと変わっているのではないでしょうか。
私が学校で習ったところでも、近代法のひとつのメルクマールとして、「法と道徳との峻別」
というものがあったと思います。それは、近代主権国家というものの成立とともに、
「法の宗教離れ」が起こった結果ではないかと思います。

〉客観的事実としての歴史上の思想の把握=通説と、その好き嫌いを分けて、説明いただくと良いと思います。

はい、もちろんそうしているつもりです。
近代で法と道徳が分離されたはずなのに、法と道徳とがごっちゃになっているような考え方が、
今の西洋の法の考え方も説明する通説だとは、どうにも信じがたいのですが、
という疑問を呈しているだけです。

〉歴史的には、法と正義、道徳についてさえ、「通説」と異なる見解を有する思想家は、古代ギリシア、古代ローマの思想家にもいましたが、たかぼんさの指摘されるように、19世紀の法実証主義の人々も、法に正義(正義を通じて道徳を実現すると考えれば道徳でもよい。)という理念を包含させることを拒否しました。
〉法実証主義の人々は、「悪法もまた法である」と述べて、自然法思想を否定しました。
〉法実証主義の人々にとって、西欧の歴史としての理念は、通説のとおりだと認めざるを得ないとしても、上記の点で通説の見解には賛成できないと考え、理念の変更を主張しました。
〉しかし、西洋の理念の通説には、なれませんでした。

はい、ですから、前のレスでも申しましたように、近代法が宗教的権威から離れた結果、
何を正しい法とするかの拠り所を失ってしまい、それを「理性」や「一般意思」
などに求めたのだと思います。そして結局、「みんなで決めた」というところに
正当性の根拠を求めることになりますが、みんなで決めた以上は正しいのだからと、
それ以上の正当性の判断を放棄したのが、おそらく法実証主義で、それは
ワイマール憲法下のドイツにおいて採られていた考え方だったと思います。
しかし、第2次大戦後、ナチス支配の反省などから、あまりの価値相対主義、
法律万能主義はいかがなものかということになって、ドイツも実質的法治国家に移行した、
ということだと思います。つまり、みんなで作ったので一応正しいとするが、
憲法に照らして審査する余地を認める。
ですが、その際に、どういう法が正しい法か?の基準について、宗教的な道徳に
戻るという選択は行なわれていないと思います。戻れば中世に逆戻りです。
そうではなく、あくまでも根本的な「法」に照らすという行き方がとられていると思います。

〉たかぼんさんは、現在の気持ちとしても、西欧の通説に、必ずしも賛同できないという見解でもあり、日本人には、結構、多いとされています。
〉たかぼんさんの基本理念は、西洋の通説と違います。

いえ、そもそも、道徳と法を一緒くたにするというのが、西洋の通説であるというのが、
どうにも信じられないというか、ほんとですか?と思うだけです。

〉また、現代に視点を移すと、現代のように複雑な社会では、法と道徳がストレートに結びつかない分野が増加したという意識は、むしろ通説でしょう。
〉それは、西欧でも日本でも、言うまでもないことです。

あれ・・・
いや、現代だけでなく、中世から近代に移行する時点で、法と道徳を分ける、
というふうになったのではなかったでしょうか?

〉しかし、ここでの問題は、脈々として生きている西洋の基本理念は何かを把握することです。

もし、そのような法と道徳を同じとする基本理念があったとしても、
近代・現代には断絶した、ということになりそうですね。

〉一般的に、西欧にいうところの道徳、正義及び法などについての「歴史」において、書籍で通説として説明されているのは、(1)西洋人は、法を、理念と見ていること、(2)理念とは、現実の世界で努力して実現すべき理想状態であるということ、(3)古代ギリシア、古代ローマ、中世ヨーロッパ、近代ヨーロッパ、現代ヨーロッパの法の制定とその運用と人々の日常の法意識とを歴史的に調べていくと、西洋では、正義の実現が法そのものであり、道徳の昇華が法であると考えられてきたということです。

正義の実現が法、とは言えると思いますが、その「正義」について、近代以降は少なくとも、
法的正義と道徳的正義は分けられる、とされてるんじゃないでしょうか。
道徳と法を直結させない、というのは、もう何百年前に克服された課題だと思います。

ちょっとここで、刑法ですが、昔使った教科書を引っ張り出してみます。
(前田雅英『刑法総論講義』第3版)

「西欧近代の刑法は,それ以前の旧体制下の刑法を乗り越える形で形成された.
中世の刑法の特色は,干渉性,恣意性,身分性,苛酷性の4点にまとめることができる。
まず,中世においては,法と宗教・道徳が未分離であったため,法律が個人の
内面生活にまで深く干渉していた.・・・」(p.17)

また、近代革命に非常に大きな影響を与えたとされるベッカリーアの『犯罪と刑罰』について、

「彼は啓蒙主義哲学を基本に,社会契約論により国家の刑罰権を基礎づける.
そして(1)社会・市民の利益の外形的な侵害のみが犯罪たり得るとして干渉性を批判し,・・・」(p.18)

そして、西欧近代の刑法理論の基礎を形成した学者の一人、カントについて、

「法は個人の道徳には干渉し得ないとして,刑罰の干渉性を厳しく排除した.
カントの刑法理論の第一の特色はこの刑罰の干渉性の排除から導かれる
法と倫理の峻別にある。」(同頁)

さらに、近代刑法学の父と称されるフォイエルバッハについて、

「彼はカントの「法と倫理の峻別」の考え方を受け継ぎ,権利侵害のみが犯罪であるとして
干渉性を批判した(権利侵害説).」(p.19)

このように、法と宗教・道徳との分離は、近代でとっくに終わっているのではないかと思います。

ただ、「道徳」を国家秩序維持のための倫理と読み替えるならば、
その倫理から法は生まれている、と見る余地もあると思います。
ヘーゲルについて、

「ヘーゲルの刑法理論の第二の特色は,カント,フォイエルバッハが重視した
個人の利益に代え,国家の利益を強調した点にある.国家を「理性と倫理そのもの」
と規定し,国家は刑罰を加えることにより法と正義を回復するとしたのである.」(p.20)

ただ、この場合の倫理も、近代国家を前提とした国家倫理であって、
宗教を基盤とした道徳とは違います。法から「干渉性」を排除するというのは、
共通認識であろうと思います。

〉文献2をも、参考に読んでみて下さい。
〉たかぼんさんの疑問も、あらゆる意味で、氷解すると思います。

はい、また、読む気が起きたら、読んでみたいと思います。

〉もし、たかぼんさんが、著書を読んだ上で、また、投稿されるのであれば、歓迎します。
〉基本理念が、通説に変更されるのであれば、・・・・・。

あ。いつ読むかわからないので、いま投稿してしまいます・・・
ほんとに通説なのかなぁ・・・(笑)
それとも、近代に法と道徳が分けられたっていうのは、日本の法学者だけが言ってる、
特殊な学説なのかなぁ。

〉最後に、英語学習に関係ないと思われる方もいるかもしれないので、少し論考の主題を移しますが、たとえば、ホーソンの緋文字は、道徳=法=正義の強烈な精神的束縛を前提とする小説と理解することが可能であり、英語の小説を読む場合には、西洋の思想・理念の正確な把握が必要ともいえるでしょう。

そうなんですか。
「罪と罰」なんかはどうなんでしょうね。

それでは。
ありがとうございました。


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