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お名前: 主観の新茶
投稿日: 2008/10/18(12:44)
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1 たかぼんさん こんにちは。(主観の)新茶です。
〉たとえば「権利」はrightの訳語ですが、これひとつ取っても外国人の理解とは異なります。
〉日本語の「権利」には、「自分勝手」みたいなイメージがありますが、rightには、
〉「法によって正しいと認められる」という意味が含まれているように思います。
〉(だから福沢諭吉は、「権理」と訳せと言っていたようです。)
2 以下は、西欧の基本思想の通説の記述です。
英語など言語理解の前提となる知見であるので、ここで述べて良いでしょうか。
西欧(アメリカ及びイギリスをもちろん含む)の基本思想のひとつは、正義を具体化した存在が、権利であるということです。
正しさ、つまり、正義が先に存在し、権利は、正義を化体した存在にすぎないという理念に導かれています。
権利は、「法によって始めて認められる」ものではありません。
権利は、普通の人間の本性=正義として、自然のうちにあるという、自然法の思想に、本来由来する。
正義は、また、道徳または倫理と同値であり、権利は、法と同値であります。
「法」と「正義」は、別個であるという考えは、ありません。
したがって、法を実現することは、いつも必ずしも正義ではないという考えでは、ありませんし(西欧の基本理念では、法の実現は必ず正義です)、正義は、法とは、別のところにあるという考えもありませんし、法は、お上が作ったから、守らされるのであって、正義とは必ずしも結びつかないという考えもありませんし、悪いことだと思うのは法を犯したからだが、なぜその法があるのか、理由がわからないというような言いぐさが通るという考えもありません。
なぜなら、自分で作ったものという理念ですから。
この理念を捨てて、統治者、つまりお上が、勝手に、物事を進めていると言動するのでは、言語政策であれ、教育政策であれ、自分を否定した、責任逃れの、恥ずべき言動にすぎません。
全ての政治活動は、法に依拠しなければならないから(法による支配)。
西欧では、法は、道徳を前提としており、道徳の一部が昇華したものが、法です。
道徳及び倫理は、西欧の人たちにとって、自らが自分で決めたから、積極的に守る規範であり、道徳及び倫理は、正しいこと=正義であり、正義を具体化したのが、権利であり法であり、権利ないし法を実際に実現することは、正義であり、道徳そのものである。
以上について、わかりやすい文献があれば、将来、紹介します。
3 正義の実現が権利であり法であるという理念の理解を前提として、ちなみに、補足説明として、言葉の由来(語源など)の上で、考えます。
権利は、right英 das Recht独 le droit仏の翻訳語です。
これら西欧語の原語は、「まっすぐ」を意味する「好感度の高い言葉」であり、そこで、「まっすぐは、正しい=正義」が派生し、中世になって、改めて法を考えるとき、「正しい意味だから、正義をも意味するrightを、法という意味にも転用しよう」ということになって、rightは、法の意味を始めて具有するに至った。
rightが、「右」の意味を具有するのは、さらにその後のことである。
なお、原語reht(何を原語とするか、または原語の品詞によって、単語のスペルは、異なるから、別のスペルもある。ここでは、説明の便宜上、ドイツ語の動詞の過去分詞形を載せています。)に関連したラテン語を原語とし、di-という接頭辞がついた英語directは、「まっすぐな」という意味があります。
翻訳には、新造語と転用語があります。
転用というのは、元の意味は、西洋語の原語と、微妙に又はかなり違うけれども、新造語を考案するまでないとして、改めて違う意味に使うようにしようと意図されたものです。
権利は、中国古典から存在した言葉の転用語です。
権利のうち、権は、力を意味し、利は、利益を意味します。
中国の元来の権利思想は、力により利益を取得することであって、その力が、正義に基づくことは、必ずしも要求されていません。
明治期の翻訳者達は、漢籍に通じ、かつ西洋の思想書を読んで訳すのですから、もとより、その違いを、当然に良く把握していました。
以上の参考文献として、
(1) 翻訳語成立事情 柳父章 岩波新書 1982年
(2) 翻訳語としての日本の法律用語 古田裕清 中央大学出版 2004年
(2)は、簡潔で正確な文章。西洋思想の学者であり、法律の学者ではない。(1)は、入手しやすい。翻訳語の学者だから、社会科学の理解は、やや落ちるが、本質は、つかんでいる。
4 (1)の文献には、「自由」という言葉の説明もある。
自由は、freedom(又はliberty)英 等の翻訳語である。
自由も、新造語ではなく、中国古典の転用語である。
freedomの前半の原語fri-は、「仲間」であるが(参照・英語のfriend友達)、それは、「独立した個人としての集合体である仲間同士。責任観念を自覚した個人の集合体としての仲間達」という意味である。
-domは、「勢力範囲」「〜の世界」である。
独立した人格の集合体の範囲及びその行動可能な世界が、本来のfreedomである。
ところで、個人が自由放縦に権利を主張すると、他人の自由放縦を犯すこともあり、まずいことが起きる。
そこで、各人の自由を、仲間との契約(contract)により、幾分か制限し、その残り(residual)をもって、freedomの概念とした。
つまり、西洋にとって、自由とは、本来、残り、残余物であるといわれる。
この残余概念が、西洋のfreedomの本質である。
もちろん残余物といっても、それは、理念としてのものの言い方であって、その内容は、広い。
自由は、他人の権利を侵さないという責任を併有した概念である。
中国古典の自由は、これと異なり、「放縦」の意味も包含し、しばしば「自由という概念のはき違え」があった。
自由という言葉は、明治以前は、民衆に流行して、使用された言葉ではない。
翻訳者達は、freedomの翻訳語として、「自由」以外もいくつか考案した。
しかし、言葉というものは、いくら為政者が力んでも、国民=民衆が使用しなければ、日常用語には、使われない。
今日でも、政治、経済、法律等の社会科学、化学、物理等の自然科学の用語は、一般国民が、広くは使用しないものもある。
freedomとその訳語は、明治初期から、民間の啓蒙者達も、盛んにこれを奨励した。
そして、「自由」という訳語は、むしろ、翻訳語として適当ではないという危機感も強かった。
「自分勝手も許される」「放縦でよい」、「勝手でしょ」、「何をやろうが自由だろ」、という意味で、民衆が使う危険があったから。
freedomには、自分勝手という意味はないし、何をやろうと許されるという意味もない。
だから、ほかの翻訳語も、いくつも考案した。
しかし、日常会話でも、自由のみ、翻訳語が生き残った。
「自由」のみ訳語が生き残ったのは、民衆が使ったから。
そして、民衆の使用する「自由」という用語は、「他人の権利を侵さない責任を合わせ併有する、残余物を意味する概念」としてではなく、「自分勝手が許される」「本来、人は、何をやろうが許されるはず、それが自由である」などとして理解されることがあり、実際にその意味で言動する輩も、また、多くいたのである。
5 以上のような説明が、学問としての通説です。
以上は、学問としての通説を記載したものであり、私の単なる意見を記載したものではないことに留意されたいが、私というフィルターを通じて説明していますし、わかりやすくするために、説明を省略した部分もあります。
説明を省略した部分には、わかりやすくするために正確性を少し犠牲にした事項もありますし、通説的理解と一見異なるかに見えるような内容を回り道して説明しなければならない事項もあります。
したがって、上記の書籍は、本項の言葉の由来の部分などを、わかりやすく詳細に説明している中で、本質的事項も一部説明しているから、参照されると、内容が深まった論議ができると思われます。
societyを翻訳した新造語「社会」なども、両著書とも、説明しています。
6 たかぼんさんが、私の200万語の報告に投稿されたことには、大変感謝します。
返事をしていないので、気になっています。
ただし、消耗から充電に移行していないので、今更、返事は、遅いといわれるかもしれませんが、充電できたら、遅ればせながら、200万語の返事を書きます。
acha758さんとの「スポーツ及び英文法の規則の異同論争」において、たかぼんさんが、「規則とは、禁止規範及び命令規範に違反することのみを指す。違反には、法律または法律類似の制裁がある。」という非常に狭い定義を採用していることを明示しなかったから(それに気がついて皆が議論していない。禁止規範等の定義は、今は省略する)、たかぼんさんの定義に従う限り、たかぼんさんの言い分は正しいが、その定義のみが規則の定義ではないと正当に喝破すれば、むしろスポーツと英文法に同じ類似点を見いだそうというacha758さんの問題意識の方が、17世紀に始まる国民国家成立後を考えるにしても、国民国家成立以前の国家(古代国家を含む)を考えるにおいても、有益であると思っていますが、そういうことなども気になるが、書く気になるかどうか。
論争の当時は、SSSの投稿をそんなに見ていなかったから、気がつかなかったが、気がついていたら参加し、acha758さんの見解を応援したと思う。
今回の投稿は、たかぼんさんの主張が、間違っていると述べたいがために、投稿したものではありません。
通説的見解を考慮した、実のある議論を望むために書いたものです。
反対説や、一人独自説も、未来の通説になる可能性は、あるのですし。
特に、20代前後の人を中心に、社会科学であれ、自然科学であれ、正確な理論を身につけ、年上の人や外国人と議論できるように、成長してほしい。
それが、今後の社会で、年上の人のなすべき役割分担及び責務の自覚をも促すであろう。
以 上
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