[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(05:42)]
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お名前: ako
投稿日: 2008/10/16(01:36)
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極楽トンボさん、たぶん初めまして、akoと申します。
以下、本題部分のみの引用で、内容充実の前提をすべてカットして申し訳ありません。でも前提を十分に伺った上で、本題を読み、深く感じ入りました。
〉だから(やっと本題に入りますが)、多読三原則を守らなくてはならないけれども、多読三原則に縛られてもいけないという議論は、なんだか悟りをひらくためには、悟りをひらこうと思わないといけないけれども、悟りをひらくことにとらわれてもいけないという禅問答によく似ています。わたしの場合、心の自動分析和訳装置が作動することを抑えるうえで、多読三原則はとても重要な役割を果たしていると考えられます。しかし、多読三原則を金科玉条にしてしまうと、本を読みながら考えることができなくなってしまいます。
まさにその通りと思います。
掲示板でいろいろな体験談を読んでいますと、「原則」という言葉自体から、強制力を強く感じ取る人もいれば、最初から原則と適度な距離を置いている人まで、同じ日本語の解釈一つも、多様な受け取り方があるようですね。
でも読み続けて年月が経過していくうちに、皆さんそれぞれ、自分の体験から、原則との適度な距離の取り具合ができていくように思いますね。
〉多読三原則は、自由なタドキストの主体の形成に寄与するものと考えられますが、これにあまりとらわれてしまうと逆効果になる危険もあります。でも、目的到達のための方法って、何であれ同じ危険があるのではないでしょうか?とすれば、仏教の本を読むとよく出てくるあの有名な喩えが参考になるにちがいありません。ありがたい教えというものは、筏と同じで、向こう岸の目的地に渡ったらもう不要なんです。だからそんなものにとらわれてはいけないんです。わたしにとって多読三原則は本当に役に立つけれども、いつか不要になるときがきっと来るんだと思いながら、多読をずるずる続けている次第です。
「ずるずる」に大笑い。←自分が思い当たるからです(笑)。
いいですね。この筏の例え。
読ませていただいて、「守ー破ー離」を思い出しました。
芸事の世界でよく聞くのですが、そういったことが英語多読とつながってくるとは夢にも思いませんでした。
英語、と思って始めたことでしたが、続ければ続けるほどいろいろなことに通じるものを学べて、得るものがたくさんあります。そんなことも、多読好きの人とつきあいながら続けることの楽しみのうちです。
極楽トンボさんの投稿も、歌の才能といい、いつも面白くて楽しませて頂いています。
ありがとうございます。では〜
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