飾りじゃないのよ阿弥陀は

[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(03:30)]

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222. 飾りじゃないのよ阿弥陀は

お名前: たかぽん
投稿日: 2008/10/15(01:23)

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やっぱり、ちゃんと拝まないと。

あっ、極楽トンボさん、こんばんは。たかぽんです。

〉たかぽんさん、fionaさん、こんばんわ。連休中、出張してたら、掲示板がすごいことになっていてびっくりした極楽トンボです。もしかして雰囲気がわからずにズレたこと言っていたらごめんなさい。

ツリーが急激に成長しましたよねぇ。(ひとごとのやうに…)
でも、ぜんぜんズレたことおっしゃってないと思いますよ。

〉「日本語を介さず 好きなように読む」というのは、これまで多くのタドキストたちの多読観の最大公約数的なものだと思います。私の記憶では、ある著名なタドキストの「多読は、英語を英語として読めばよい」という名言が最も印象深いです。

うーん。深い言葉ですね。
(たぶん、私、理解できてないんだと思います…)

〉「英語を英語として読めばよい」とわかっていても、実際にはこれがなかなかできないわけです。わたしはいまだに、うかうかしていると心の英文和訳装置が自動的に発動してしまいます。

私も、以前は、ときどきありました。
今は、さすがに足かけ8年もやってるからか、英文和訳装置がはたらきません。
文章の意味はわかるんですけど、訳語は出て来ない。
学生時代が大昔のことになり、単に忘れてしまっただけだと思われますが…

〉日本語の読書の場合は、日本語の書物を(英語を介さず!)日本語として読めているわけです。英語の書物の場合は、英語として読めていないので日本語が介在してしまうのか、日本語が介在してしまうので英語として読めていないのか不明ですが、いずれにせよ英語の書物を英語として読めていないことにかわりないわけです。

でも、英語として読めている部分もあるわけで、それでいいんじゃないですか?
そのあたり、bumpyなのが、だんだん、なめらかになっていくと思いますよ。

〉それでは、どうやったら英語を英語として読めばよいのでしょうか?英語ができないから多読をやっているのであって、英語ができない人に英語が英語として読めるわけがないんです。英語を英語として読める人は、英語の書物を英語を介して、つまり英語でものを考えながら読んでいる人に限られます。英語を英語として読めと言われても、英語でものを考えながら英語が読めるようになった人にしかその言葉の意味が実感できないんじゃあ、単なる言葉遊びに過ぎないじゃないかと、ずっと思っていました。

英語を読んでるときでも、英語自体を読んでるわけではないですよね。
その記号が意味するものを読んでるわけで。
たとえば、seaとかskyとか聞いて、直接想起される風景があれば、それは十分、
他言語を介さず英語を読んでる、と言えると思います。
それがだんだんに、複雑な文章も、英語で直接わかってくるようになってくる、と。

〉それがいつのころからか、考えが変わってきました。いや、別に英語が読めるようになってきたってわけではありません。あいかわらずあっぷあっぷしてます。念のため。「英語の書物を英語として読む」の名言を吐いたその著名タドキストが、あるところで「多読は、何も考えないでただ読めばよい」というこれもまた名言を吐いておられるのを目にしてから私の考えが変わってきたのです。

なるほど。これまた深い名言ですね。(私、意味わかってるのか…)

英語読んで直接に意味がわかる、というのは、「考えてる」わけではないですよね。
There's a boy. つったら、そういうことなので、別に「考えて」わかるわけではない。
そういうことですかね。

〉最初は、その発言の意味がよくわからなかったのですが、たいへん気になったので、おりにふれてその意味を考えていました。そしたらだんだんわかってきました。つまり、英語の書物を英語として読むとは、英語の書物を何も考えないで読むことと同義なんです。冗談じゃない、何も考えることなしに書物を読めるわけがない!とお思いかもしれませんが、本当なんです。

いやー、本当だと思います。
「考えて」わかる、わけではないですよね。(わかってから考えたっていいけれど。)

〉われわれは英語でものを考えることができません。だから、英語の書物を英語を介して読むことができないように見えます。しかし、英語の書物を英語として読むことは可能だと思います。英語の書物を英語として読むとは、fionaさんがおっしゃるごとく、英語の書物を、日本語を介在させないで読むことにほかならないからです。つまり、日本語でものを考えないで英語の書物を読めばいいんです。すると、英語の書物を英語として読むことと、何も考えないで英語の書物を読むことが一致することになります。

そうですね。

(ただ、「英語でものを考えることができない」かどうかは、わからないなと思ってます。
 私、ときどき、夢の中で英語で激しく考えてることがあります。
 たまに英語をしゃべるときにも、日本語で考えてません。(だからすごく幼稚だけど…)
 なので、そういう回路ってできていくものじゃないかな?とか思ってます。)

〉われわれは日本語でしかものを考えることができません。だから、英語の書物を読むときに、思い切って何も考えないで読めばいいんです。日本語では何も考えないようにして英語の書物を脳内音読しているだけなのに、あらふしぎ、書物の内容がおぼろげながらわかってしまう。このとき、われわれは英語ができないなりに英語でものを考えながら英語の書物を読んでいるのではないでしょうか?

そうだと思います。
正確に言えば、「考えてる」わけではないけれど、英語のまま「わかってる」んじゃないかと思います。

〉私がこのように考えるようになったのは、ORTを体験したことにもよります。ステージの低い方は、何も考えなくても楽しく読めます。ステージ6を読んでいるときに、わたしはある変化を感じました。あたかもそれまで回転していなかった水車小屋の水車がゆっくりと動き出すような印象でした。わたしの心の和訳装置が動き出したのです。いや、正確に言うとまだ和訳にも和訳のための文法的分析にも入る前の段階です。文法的分析を行うためには、その前に、英文のどの個所を分析すべきかを決定しなくてはなりません。この点は、おそらく、英語でものを考えながら読んでいる場合も、高速和訳しながら読んでいる場合も共通だと思います。わたしの場合は、和訳の前段階のこころの動きだと思います。

なるほど。わかる気がします。
私は和訳装置が動かないと言いましたが、和訳装置が動きそうになるような本を
無意識に避けているだけかもしれません。
和訳装置が動きそうになる本とは、「難しいけれど、どうしても細かく意味を理解したい本」ですね。

〉体の中に英語がたくさん蓄積したら、いつかこころの水車が回って英語の書物を英語で分析できるようになるかもしれない。そうなったらいいなと思います。いま思いついたけど、そういえば難しい中国語を読んでいるとき、たまにやさしい中国語に置換しながら読むことってあるよなあと思いました。たぶん、英語の堪能な人はそうやって英語の書物を読んでいるのではないでしょうか。

私、野球ルールについての本(英語)を愛読しているのですが、
ルールが生まれるにあたって、どういうことが起こったのか、というのが、けっこうややこしい。
読みながら、誰が何塁にいて、どうしてこうして、というのを、頭に描きますが、
そのときは、日本語で考えてるわけでも、英語で考えてるわけでもなく、イメージですね。

易しい英語に置き換えるというのもいいと思いますが、(John third, George first.とか)
直接イメージできたら、それでいいんじゃないかという気もします。

〉だから(やっと本題に入りますが)、多読三原則を守らなくてはならないけれども、多読三原則に縛られてもいけないという議論は、なんだか悟りをひらくためには、悟りをひらこうと思わないといけないけれども、悟りをひらくことにとらわれてもいけないという禅問答によく似ています。わたしの場合、心の自動分析和訳装置が作動することを抑えるうえで、多読三原則はとても重要な役割を果たしていると考えられます。しかし、多読三原則を金科玉条にしてしまうと、本を読みながら考えることができなくなってしまいます。

英語の本を英語のまま読めるようになるために、多読三原則は、とてもいいツールだと思います。
でも、ついつい、「読み飛ばしオンリー」にとらえられがちで、精読とか、英英辞書引きも
禁止されてるように解釈されてしまい、英語を読み慣れてきた人には、かえって、
きゅうくつな足かせになってしまう可能性がある、と思います。
多読三原則は、考えちゃいけない、なんて言ってないんですけどね。

〉多読三原則は、自由なタドキストの主体の形成に寄与するものと考えられますが、これにあまりとらわれてしまうと逆効果になる危険もあります。でも、目的到達のための方法って、何であれ同じ危険があるのではないでしょうか?とすれば、仏教の本を読むとよく出てくるあの有名な喩えが参考になるにちがいありません。ありがたい教えというものは、筏と同じで、向こう岸の目的地に渡ったらもう不要なんです。だからそんなものにとらわれてはいけないんです。わたしにとって多読三原則は本当に役に立つけれども、いつか不要になるときがきっと来るんだと思いながら、多読をずるずる続けている次第です。

何ごとも、とらわれすぎると、よくないですよね。最終的には、自分の心に聞いてみることですね。

それで、ちょっと気になったんですけど、私だけがわかってないのかもしれませんが、
多読三原則に則った読書だけが「多読」なんでしょうか?
なんか、そういうとらえ方が圧倒的なようなので、あれ、私ってヘン?とか思ってます。

要は、その言語の本をいっぱい読む、というのが「多読」ということではないのかと。
なので、もちろん、精読と多読は対立するものでなく、精読も多読のうちに入る。
そんなとらえ方のほうが、「多読」の幅がひろがって、自由になれるような気がするんですけどね。

もちろん、少なくとも最初は多読三原則に従って読んでったほうがいいとは思うんですが、
それも中には「合わない」って人もいるでしょうし。
英英辞書まるごと読みました100万語報告、なんてのも聞いてみたい気がします。
(無理することないと思いますが。)

要は何でもいいんだ、英語を直接読んじゃうんだ、たくさん、てのが多読、ってほうが、
おもしろいと思うんですけどね。
(もちろん、多読三原則に従って始めるほうがよいとは思います。しつこいようですが。)

ただ、「英語ができる」ようになるには、ほんとうに多読が良いのか?っていうのは、
かなり早くから疑問に思っているところではあります。
やっぱり、最初は音からみっちりと、そして、コミュニケーションを通じてのほうが、
いいんじゃないのかなぁ、なまじ文字から入ると、頭でっかちになるというか、
コミュニケートできる英語へとすくすくと育たないのじゃないかなぁ、と。

でも、これはウンウンと頭をふりしぼっても、解決しない問題なので、
私の場合は、心が好むことを、好きなようにやっています。多聴、多読。
自分が何を目的としてやっているのか。もし、本当に英語に堪能になりたかったら、
英米人に生まれていると思うので、それが目的ではないようです。(わかりませんが。)
まぁ、何か、こうなりたいというものがあるのでしょう。そこへの道を、
自分の「好む」という感情が教えてくれていると思うので、それに従って、
へえ、どこへ連れてってくれんだい?てな感じで歩んでいます。

とまあ、あー、レスのふりして好きなことたくさん書いてしまいました…
てきとうに読み流してください。(って、ここで言っても遅いな…)

それではそれでは。


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