好きなようにって、難しいよね。

[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/24(05:43)]

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215. 好きなようにって、難しいよね。

お名前: こるも
投稿日: 2008/10/14(11:41)

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極楽トンボさん、こんにちは。
たかぽさんでも、fionaさんでもないですが、こるもです。

ところで、100万語通過のスレに書かれていた、「わたしは投げたことがない」
に、大受けしてしまいました。
あちらに書き込めないんで、こちらで言わせてもらいます。
やっぱり、面白い方ですねえ。

〉たかぽんさん、fionaさん、こんばんわ。連休中、出張してたら、掲示板がすごいことになっていてびっくりした極楽トンボです。もしかして雰囲気がわからずにズレたこと言っていたらごめんなさい。

いやいや。
なかなかドンピシャリ、だと思います。

以下、切断しながらですが、ごめんなさい。

〉「日本語を介さず 好きなように読む」というのは、これまで多くのタドキストたちの多読観の最大公約数的なものだと思います。私の記憶では、ある著名なタドキストの「多読は、英語を英語として読めばよい」という名言が最も印象深いです。

ほほう。
そんな言葉があったんですか。

〉「英語を英語として読めばよい」とわかっていても、実際にはこれがなかなかできないわけです。わたしはいまだに、うかうかしていると心の英文和訳装置が自動的に発動してしまいます。

わたしもうっかりすると、日本語訳しそうになります。
それを「まあまあ」となだめて、先に進むようにします。

〉それでは、どうやったら英語を英語として読めばよいのでしょうか?英語ができないから多読をやっているのであって、英語ができない人に英語が英語として読めるわけがないんです。英語を英語として読める人は、英語の書物を英語を介して、つまり英語でものを考えながら読んでいる人に限られます。英語を英語として読めと言われても、英語でものを考えながら英語が読めるようになった人にしかその言葉の意味が実感できないんじゃあ、単なる言葉遊びに過ぎないじゃないかと、ずっと思っていました。

なるほど。
確かに「それができるようだったら、苦労しないよ」ですね。

〉それがいつのころからか、考えが変わってきました。いや、別に英語が読めるようになってきたってわけではありません。あいかわらずあっぷあっぷしてます。念のため。「英語の書物を英語として読む」の名言を吐いたその著名タドキストが、あるところで「多読は、何も考えないでただ読めばよい」というこれもまた名言を吐いておられるのを目にしてから私の考えが変わってきたのです。

ほほほう。
なかなか深いお言葉を吐く方ですね。
「なにも考えないで読む」って、どないやねん。

〉最初は、その発言の意味がよくわからなかったのですが、たいへん気になったので、おりにふれてその意味を考えていました。そしたらだんだんわかってきました。つまり、英語の書物を英語として読むとは、英語の書物を何も考えないで読むことと同義なんです。冗談じゃない、何も考えることなしに書物を読めるわけがない!とお思いかもしれませんが、本当なんです。

えええー!
冗談じゃないっすよ?

〉われわれは英語でものを考えることができません。だから、英語の書物を英語を介して読むことができないように見えます。しかし、英語の書物を英語として読むことは可能だと思います。英語の書物を英語として読むとは、fionaさんがおっしゃるごとく、英語の書物を、日本語を介在させないで読むことにほかならないからです。つまり、日本語でものを考えないで英語の書物を読めばいいんです。すると、英語の書物を英語として読むことと、何も考えないで英語の書物を読むことが一致することになります。

なるほど。
わたしも、英語で物を考えながら、本を読んでいるわけじゃないですね。
夕飯なんにしよう?とか。 ああ、掃除しなきゃ、とか。

〉われわれは日本語でしかものを考えることができません。だから、英語の書物を読むときに、思い切って何も考えないで読めばいいんです。日本語では何も考えないようにして英語の書物を脳内音読しているだけなのに、あらふしぎ、書物の内容がおぼろげながらわかってしまう。このとき、われわれは英語ができないなりに英語でものを考えながら英語の書物を読んでいるのではないでしょうか?

おおおー。
すごいじゃないですか。

〉私がこのように考えるようになったのは、ORTを体験したことにもよります。ステージの低い方は、何も考えなくても楽しく読めます。ステージ6を読んでいるときに、わたしはある変化を感じました。あたかもそれまで回転していなかった水車小屋の水車がゆっくりと動き出すような印象でした。わたしの心の和訳装置が動き出したのです。

この水車小屋のたとえが、なんだかいいなー、と思って。
感心する場所を、間違っているかもしれませんが。

〉体の中に英語がたくさん蓄積したら、いつかこころの水車が回って英語の書物を英語で分析できるようになるかもしれない。そうなったらいいなと思います。いま思いついたけど、そういえば難しい中国語を読んでいるとき、たまにやさしい中国語に置換しながら読むことってあるよなあと思いました。たぶん、英語の堪能な人はそうやって英語の書物を読んでいるのではないでしょうか。

英語は堪能ではないですけど、自分の場合を考えてみました。
たまにですけど、「和訳はできないんだけど、内容はわかる」ことがあります。
このときは、分析はしていないと思う。
あと、英語を話しているときに、日本語で考えてしまうと、うまく出てこない。
なんとなく「言いたいこと」をぼんやりと思い浮かべて、それにあった英語を探す方が、うまくいく。
日本語が入って来ちゃうと、それに引きづられてしまう。
だから、英語の人と英語のみで話しているときはいいんですが、
他の日本語の人に「〜って、英語でなんて言うんですか?」とか聞かれると、もうだめ。
たいがい答えられないし。

体に英語がたまってくれば、英語の回路ができてくるんではないかな?と、勝手に思っています。
今はまだ、回路もちゃんとしていないし、スイッチもうまく入らなかったりするのでだめだめなんですが。
期待は持っています。

〉だから(やっと本題に入りますが)、多読三原則を守らなくてはならないけれども、多読三原則に縛られてもいけないという議論は、なんだか悟りをひらくためには、悟りをひらこうと思わないといけないけれども、悟りをひらくことにとらわれてもいけないという禅問答によく似ています。

うまいですねえ。この表現。
わたしも「多読って、禅問答みたい」と、常々思っていました。

〉多読三原則は、自由なタドキストの主体の形成に寄与するものと考えられますが、これにあまりとらわれてしまうと逆効果になる危険もあります。でも、目的到達のための方法って、何であれ同じ危険があるのではないでしょうか?

そうかもしれませんね。
自分が変化すると、関係性も変化してしまう。
自由になるためのツールだったのが、束縛になってしまう。

〉とすれば、仏教の本を読むとよく出てくるあの有名な喩えが参考になるにちがいありません。ありがたい教えというものは、筏と同じで、向こう岸の目的地に渡ったらもう不要なんです。だからそんなものにとらわれてはいけないんです。わたしにとって多読三原則は本当に役に立つけれども、いつか不要になるときがきっと来るんだと思いながら、多読をずるずる続けている次第です。

この、筏のたとえも、うまい。
いつまでも、しがみついていては、だめってことですね。

たぶん、そう遠からず不要になるのでは?
と、予言しておきます。予言者こるも。

でもあんまり気にしない方がいいかと思いますけど。

それではでは。


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