[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/11/26(11:28)]
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お名前: 杏樹
投稿日: 2012/9/8(01:11)
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たかぽん、こんにちは。
あんまりほかの人を困らせるんじゃありませんよ。
〉〉〉〉〉辞書を引かなくても読める、というのは、身につけるといい感覚だと思いますが、
〉〉〉〉〉辞書を引かないほうがいいんだとか、さらには辞書引きが悪であるかのような
〉〉〉〉〉思い込み・信仰にまで到ると、やっかいだと思います。新たな心的束縛になる。
〉〉〉〉〉実際、辞書を引くことに恐怖感をいだいてしまっているような「タドキスト」さんも、
〉〉〉〉〉かなりおられますよね。
これはたかぽん自身のことではありませんか。だからこだわりつづけるのかな、と思います。以前、掲示板に大勢の人がいたときは、辞書に話になると「辞書は引いたらダメ!」という原理主義者がわらわら寄ってきて禁止したものです。しかも「そこまで言わなくても」というゆる〜い人が反論したりするとまたそこから反論の反論でエンドレス…みたいな大騒ぎになったものです。
でも今はそんなことはありません。辞書に関する質問があっても「絶対引いては行けません」なんて返事をする人はいません。そこまで「辞書を引いてはいけない」と思い混んでいる人は、最近ではあまり見ないように思います。
〉〉"英和辞典"は、引いても良い、引いた方が良いケースは、結構少ないと
〉〉思っています。
〉 どうでしょう。
〉 英語名人・達人と言われるぐらいの先生方は、大抵の場合、
〉 英和辞典をよく引いて勉強された経験をお持ちのように思います。
〉 英和辞典が悪いとは、一概には言えないのではないかと思います。
もちろん、英語の達人と言われる人たちは辞書も文法も一生懸命勉強しながら英語を身に付けたんでしょう。
でも普通の人は達人にはなれません。そこまでがんばって勉強はできません。英語の達人になれないから多読に救われたんですけど。
辞書をまめに引かないと英語は上達しない、と言われるのと、辞書は無くても英語は読める、と言われるのとどちらが英語難民にとって希望を与えるでしょうか。
〉〉そして、引くべきかどうかの判断も、最初は簡単ではないとも。
〉〉分からない単語は辞書を引かなければならないという思いこみの方が、
〉〉ずっと大きな問題だと思っています、英語の本を読めない人たちにとっては。
〉 それは、読む本が難しすぎるからではないでしょうか?
〉 うんとやさしくておもしろい本を読めば、あえて「辞書禁止」と言わなくても、
〉 辞書なんか引かずに本を楽しまれると思うのですが。(私がそうでした)
〉 私が思いますには、辞書を引けという「強制」と同じぐらい、
〉 辞書を引くなという「禁止」の害も大きいと思います。
たかぽんは「勉強」の弊害を軽く見すぎです。
英語の勉強の世界では、わからない単語はとにかく辞書を引く、辞書は引いて引いて引きまくれ、知らない単語は辞書を引かないと意味は分かるようにならない、それが常識です。そして多読にたどり着く前に、一生懸命勉強した人から、学校で挫折した人まで、誰もが「英語の勉強」の道をたどっているのです。そうして多読を知らずに、出会っても「そんなの勉強にならない」と思ってスルーして、相変わらず辞書を引きながら勉強している人も、ものすご〜〜〜くたくさんいます。英語の勉強のサイトを探したら、多読をしている人よりもはるかにたっくさん「一生懸命」勉強している人がいます。多読の方が英語の勉強としては「非常識」なのです。
「辞書禁止」の害は多読三原則を知らなければ起こりません。また多読をしていても、辞書を引いてはいけないのか疑問に思ったら、この掲示板に投稿すればその人の状況に応じてお返事がもらえます。
〉 「強制」も「禁止」も要らないんじゃないでしょうか?
〉 その人その人が、自分の感覚を信じて、楽しいと思う方向に行きさえすれば、
〉 それでいいような感じがします。
英語の勉強をしてきた人が、そういう境地になるためにまず多読三原則で読んでみることが必要なんです。
辞書を引くか、引かないかで論争してたら結論は出ません。本当は「辞書から自由になる」ことが大切です。しかし、自由になるためには、一度それまでの勉強法を手放す必要があるのです。
〉〉少なくとも私は、英語での読書をまだ楽しめてはいない人を想定して、
〉〉多読の話しをしていますので、多読中は辞書は引かないと言い切っています。
〉〉もちろん、多読指導の場合は、個々に対して行うので、言い方は
〉〉ずいぶんと変えますが。
〉 多読というのは、結局のところ、学校の先生などに取られていた主導権を
〉 取り返す方法だと思うんですね。
〉 まったく自由に、好きなようにやるんだ、と。
〉 その主導権のところに、酒井先生や繁村先生が入るだけの結果になっては
〉 いけないと思うんですよね。
〉 「依存先」が変わるだけではダメなんではないかと。
〉 なので、ヒヨコの段階から、強制も禁止もしない。
〉 「うんとやさしい本から読んだら、辞書なしでも読めておもしろいからやってみて」
〉 って言うだけでいいと思うんです。
〉 実際、私も、酒井先生の「学校英語反対」や「辞書禁止」が深層意識に染みこんでいたのか、
〉 いつのまにか辞書恐怖症、勉強恐怖症になってまして、スランプを経験しました。
〉 心の声は、辞書引いてごらん、勉強してごらん、と言っているのに、「酒井信仰」が
〉 強力にブレーキをかけるもんで、具合が悪くなっていたんですね。
〉 今までいろんな人を見てきて、そういう人もけっこういらっしゃるように思います。
やっぱり自分がそうだったからこだわるんですね。
結局そういう時はまだまだ辞書や勉強から自由になってなかったからじゃないですか。自分がそうだったからといって、多読をしている人みんなに「辞書は引いてもいいよ」と言うのは控えた方がいいでしょう。
辞書から自由になる道筋は人それぞれです。「実は辞書を引いてもいいよ」と言ってあげた方がいい人もいるでしょうが、言わない方がいい人もいます。私は辞書について質問してくる人がいたら、その人がどういう状況かを見てからお返事します。
多読の神髄は「徹底的に自分を信じることを思い出す」ことなら、それこそ「辞書を引いてもいいですよ」と言うよりも、どうすれば自分が好きなこと、やりたいことを自分で探していけるかを考えるようにアドバイスしてあげた方がいいんじゃないでしょうか。
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