文法学習の弊害はどんなに強調されすぎてもすぎることはない

[掲示板: 〈過去ログ〉多読による外国語教育 -- 最新メッセージID: 1456 // 時刻: 2024/7/1(02:19)]

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789. 文法学習の弊害はどんなに強調されすぎてもすぎることはない

お名前: 桜印
投稿日: 2005/10/28(03:16)

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can't too構文でタイトルを書いてみました(笑)
英語教師の間では読解力向上のためには文法学習が不可避であると信じられています。そのために本来なら文の意味・内容を理解し検討すべき教材であっても、センテンスを文法的に解剖して生徒にそれを解説して分析してみせる授業が行われてきました。
では、そうすることによって、生徒に文法的にセンテンスを解析する能力を身につけさせれば、生徒の読解力が自然に伸びたでしょうか?確かに入試の英文和訳に対応する能力は得られたかもしれません。(といっても、彼らはいつまでたっても律儀にwillは〜だろう 完了形は〜してしまったと訳し続けます。そうしないとバツにされるという恐怖心があるようです)多くの生徒にとって「訳せるけど内容はよくわからない」というのが現実のようです。
なぜこうなるのでしょうか?多くの生徒は受験参考書や教師の授業から影響を受けて、英文を、文法的に解剖し、それを日本語に移し変えることができればそこで満足してしまいます。
文法中心主義は英語教育においてかえって弊害となっていること、学習者の英語運用能力を阻害していること、これはなぜか?
やはり、文法を文法として、天下り式に知識として教わっていることが最大の原因と思われます。
多読による文法の習得は、知らず知らずのうちに学習者の内部に形成されるインプリシットな知識であります。このような知識の習得は非常にまどろっこしいもののように思われがちで、テストの点にはすぐには貢献しないものです。しかしこのような知識のほうが明示的な知識としてあたえられたものより英語運用能力と直結した知識です。この生きた文法の知識は、いわゆる精読よりも、そしてリスニングやスピーキングを直接行うよりも多読によってもっとも効果的に身につけることができます。ライティングは最低です。学習者にライティングを強制すること、とくに和文英訳をさせることは、死んだ文法知識を機械的に当てはめることを強制する愚行です。(続く)


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