[掲示板: 〈過去ログ〉多読による外国語教育 -- 最新メッセージID: 1456 // 時刻: 2024/11/24(04:29)]
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たかぽん、akoです。しばらくここに返答できなくてすみません。
できるだけ、ここの掲示板主旨に沿うように、
でも、たかぽんに書きたい返答は端折らずに、なんとか書いてみたいと思います。
「多読による外国語教育」という観点で、この投稿を有益にできるとすれば、
それは、タイプの違う二人のタドキストが、
互いの相違点を認識しつつも、多読という方法の中で共存できる、という点、
つまり、多読という方法は、
異質な人間同士をも魅了するだけの広範な魅力と可能性をもった方法だ、
ということがわかる良い事例になるかな、といったところでしょうか。
ただし、成人同士の体験談が、
児童・生徒に多読教育をしている先生たちにどのくらいプラスになるかはわかりません。
投稿はたかぽんへの返答という形をとりますが、
人間の多様性という面では、成人も子どももないという部分があると考え、
多読教育関係者ではない者同士の会話の中にも、
子どもさんたちの教育に活かせる要素が文中にあれば、と願って書いています。
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たかぽん、このたびの呼びかけ、どうもありがとう!
わたしが初めてこの掲示板に投稿を始めた頃(3年前です)、
ちょうど1000万語を100万語ほど超えた語数を読んだ、というたかぽん(だったかな)の報告を読みました。
わたしは、そのころ酒井先生の『快読!』を読んだ直後だったから、
100万語という数字自体に驚愕し、「これから読むぞーっ」と思ってはいたものの、
それは、はるかな遠い目標でした。
だから、たかぽんが読了した11,111,111語は、私にはめまいを感じるほど神々しい数字でした。
それだけ大量に読んだ人にとって、英語ってどういう存在になっているんだろう?
自分の中で第二の母語になっているんだろうか?とか、
もはや外国語とは感じてないんだろうか?とか、いろいろ勝手な空想してました。
遠い前方を旅している縁の無い人物だと思ってました。
以前、わたしが10万語報告を書いた時、
あなたはその数値に奢ることなく、
異質な人間かもしれないわたしの多読報告について、公平な感想を書いてくれました。
その文脈はもちろん、わたしの多読体験への励ましであり、肯定でしたから、
わたしはすごく励まされたものです。
格別だったのは、それがわたしの10万語投稿へのお祝い投稿じゃなく、
別の掲示板でのことだった、という点。
1千万語も読んだ人が、わたしの10万語報告なんて読んでないだろうと思ってたから、
ますます嬉しかったんで、忘れないです。
あ、これ、だいぶ前のことだから、たかぽんは忘れてたってかまいません。
こういうことは嬉しかった方が覚えていればいいことだから。
今回いただいた言葉も同様です。
なんだか自分に秘められた才能があるかのような気がして有頂天になってしまいそうですが、
節度を失わない程度に、でも、思いっ切り喜んでます。
〉あ、それからakoさん。
〉akoさんの書く英語とか見てると、ほんとに、必ずしも語数ということではないんだなと思います。
〉いえ、皮肉で言ってるんでなく、本気で。
〉なんなんだろうなーこれは。akoさんの持ってるもので、私に無いものは何だろうか。
うーん、ここに返答するのは野暮なんだけど、
何が違うんだろうって改めて考えるのは難しいですね。
「たかぽんにあって、akoにない」ものが大量にあることも確実だし。
人間の多様性って、そういうものなのでしょう。
それに多様なタイプが集まる集団のほうが、サバイバルできるという話もあります。
いろんなタドキストがいてもいいようにね。
〉う〜む、なんだろう、なんだろう、と、なにげに考えています。(なにげにか!)
〉学べるところがあったら学びたい。
〉そういう目で見られてると思って、ひとつよろしく。 (威圧的?)
ききき、キンチョー。威圧的に見られてるとなると、こんな恰好でいるわけには…。(方向違う…)
…といった冗談、今日はこの掲示板では書きません。
酒井先生には、「語数だけじゃ非常に困ります〜」なんて書いたわたしですが、
自分に関し、自分なりに考えていることはあります。
語数を多く読もうとしてないわたしではありますが、
だからといって、わたしのゆっくり読みは、ぜんぜん確信でも戦略でもなく、
単純に、苦痛を回避した結果です。
わたし自身も、「量が解決する」という言葉は確信を持って賛同していて、
ハッキリとまとめると、こういう感じ↓です。
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読了語数量で得られるものがあるのは確実だ、しかし、さらに、
それとは別の要素として、多読には、
語数だけではないところで、得られるものがある。
(あるいは、得られるタイプの学習者もいる、としたほうが正確かもしれない)
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英語にまったく触れない日々(1ヶ月よまないことなどザラ)がありますが、
そういった中断期間があっても、読む力が落ちた感じがしないです。
自転車や水泳のように、長いこと中断して多少下手にはなっても、
たいしてできなく「ならない」ものってありますよね。
別に、選手ってわけじゃないんだから、高度なことができなくたっていい、
という意味で、です。
むかし、高校受験問題集で英語学習した時は、こういう感じになったこと、なかったんです。
(「大学」受験用じゃないってところはイタイのか?(笑))
学習をやめると、英語なんてどんどん忘れてしまって、
やってたことが無駄になった…、って感じだった。
これが今は違う。
すこし中断した後、久しぶりに英語読書を再開すると、
独特の浮揚感(急に上達したなぁという感じ)が得られたことがあります。
毎日毎日、頑張って英語を読み続けた期間には感じられない類の感じです。
(この3年間の中で、もちろん頑張って毎日よんだ時期もあるので、当社比です)
でも、わたし、いつまでも、こういう読み方をしていよう、と決めてるわけじゃないんです。
あくまで今の状態は、自分の過渡期の一局面に過ぎないのではないか、と感じています。
つまり、毎日読んでこそ上達感を実感できる局面も来るのではないか?と思ってるんです。
古代生物の進化の過程に、そういう時期がありませんでした?
アロマノカリス?とか出た頃。
長距離マラソンにおけるランナーズハイのようなもの、と言ってもいいかもしれない。
たかぽんは、そういう時期はありませんでした?
きっとあったんではないかと確信してます。
ふだんの投稿を拝見してればわかります。
わたしは今、語数ではない部分で得られるものを、先に得ている最中なんだと思う。
だから、今、得られるものは、今、十分に得たい。
一冊当たり語数の少ない絵本の多読から得られるものが楽しい。
「楽しい」というか、充足感があるんです。
そしていずれ、語数でこそ得られるものを得る時期が来ればいい、と楽観してます。
そのうち怒涛のように大量に、それこそ語数ひとすじー!という読み方をしたくなるかもしれない。もしかしたらある日突然。
たかぽんが酒井先生宛に引用されたDeepak Chopra氏の英文抜粋部分、
わたしには難しかったです。
知らない単語もあるし、文章も長くて一度で読めない。返り読みしてしまう。
内容は興味津々だけど、多読3原則の「投げ」原則発動です。
通常なら、「一度で読めない〜(泣)」とか「返り読みしてしまう〜(泣)」と表記したくなるところです。
でも、今、この文に「カッコ泣き印」をつけよう、という気持ちが起きなかった。
それは、わたしが、これまでの多読経験を通じて得てきた、
自分の新しい英語力に幻滅を感じてないからだと思います。
子ども時代に、少年少女世界文学を楽しく読んでいた時、
将来、大人になった時の自分の日本語力・読書力のことなど考えたこともなかった。何も考えず、楽しい読書をしてた。
それと同じ心境です。
これって、生意気でしょうか?
それとも、多読の効用を信じすぎている単なるお人好しなんでしょうか?
3年も経過してるのに、コイツ、この程度もロクに読めないのかー、と、
多読を開始したばかりの投稿参加者の人を幻滅させてしまうでしょうか?
語数でないところで得られたものの内容について、
わたしはこれまでずいぶんたくさん、こういう発見があった!という投稿をしてきました。
それらの自分の体験を思い出してみて、今、考えているのは、
「語数の量から得られるもの」と「語数でないところでも得られるもの」には、
あまり違いはないんじゃないか、というものです。
結局、同じものが身についていくんだと思ってるんです。
量で得られるものというのは、わたしにはまだ未体験ゾーンだけど、
それは、今、わたしが得ているものの延長線上にあって、
断絶したものではない、という気がするんです。
線路は続いているんです。どこまでも。
わたしの乗っている多読電車はスピードが遅い分、
(=年間読了語数が、掲示板投稿者の中では比較的少ない30万語)
周囲の風景の詳細がよく見えるっていうだけと思います。
それと、わたしは多分、自分の中の微細な変化を観察するのがすごく好きで、
それを書き記したくなる性分で、
車窓の風景(多読による自分の変化、発見)を、詳細に書きたくなってしまうんです。
書きたい時って、本が読めないです。
易しい英語本を読んで発見したものを観察しているほうが楽しい。
それを書くことが楽しい。
アサガオの観察記録つける楽しさです。(理科好きです)
これまでSSS関係でakoが出会ってきた印象では、
書くより読むほうが好き・ラク、っていう人のほうが多かったですが、
多読開始から特急に乗れる人は、そっちのほうがラクだったってことかなと思いました。
だからどんどん進んでいけばいいと思う。新幹線に乗ったっていい。
誰が一番先に遠くへ行けるかっていう競争って、正直、楽しいから。
でも英語学習は、団体戦で勝つためにしているレースではないから、
競争が面倒くさくなった時は、ぱっと切り換えて各駅停車に変更すればいい。
いつでも、どこからでも。
たくさん読んだ割には得たものが少ない、という人もいるかもしれないけど、
それってもしかして、一時的にホームに降り立ってみないと、
体感できないことなのかもしれないと思う。
動いている列車に乗っている時って、
列車の中にいる自分は静止してる、としか感じられないのに、
地面を基準に考えれば、乗ってる自分はものすごい速度で動いているはずだから。
わたしは、各駅停車を一駅一駅下りるのが楽しいだけかもしれないです。
「読むだけ」ってのをずーっと続けるのは苦痛だけれど、
読んじゃぁ書き、読んじゃぁ書き、って繰り返すのは楽しいです。
(もちろん「書く」というのは、英語を書くというだけじゃなく、
日本語で発見体験を書くことも含んで)
みな、到達したいと思う方向は、けっこう共通している。
ただ、到達するまでの経路や乗り物の種類が、多少ちがうってだけなんだと思いたい。
なので、この話をこの掲示板の主旨「多読による外国語教育」に応用するなら、
学習者の一人一人が、どんなことならストレスを感じないで外国語を楽しめるのか、
多読だけしたい、多聴は苦痛、という人もいるだろうし、
シャドウイングは苦痛だけど、聞くだけなら楽しめるっていう人もいる。
聞くだけより、シャドウイングが楽しいっていう人もいるかもしれない。
自分にはないが、○○さんにはありそう、といった個々の違いを、
感情的にならずに、
「わたしはアナタとは違います」なんて淋しい言い方をせずに、
人との違いが気になる時は、素朴な謎が発生しただけだと思って、
その違いをどう見つけていって、どう尊重し合えるのか、ということが大事になってくるんでしょうね。
ガンガン読んできたたかぽんが、
一度にスズメの涙しか読めないakoのようなタイプの人物と、
論争も摩擦も起こすことなく、こうして共存できているようにね。
では、たかぽん、いろいろ考えさせてくれるきっかけをくれて、
どうもありがとうございました。
自分はどうだと楽しいのか、自覚的になれたので、とっても満足です。
この満足感が、Happy Readingにつながります。
なので、やっぱり、基本にかえって、Happy Reading !
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