「英語の本を読むこと」「本を読むこと」「読むこと」

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8828. 「英語の本を読むこと」「本を読むこと」「読むこと」

お名前: 道化師
投稿日: 2003/12/19(22:31)

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こんばんは、MTRさん、DKCです。
オッと、間違った。こんばんは、みちるさん、道化師です。
みちるさんは、この手のオチャラケには乗らない、
タドキスト硬派の最右翼でした。(笑)
(んじゃ、タドキスト軟派の最右翼はと言えば、誰だろう?
 まっ、私もその部類ではありますねぇ)

そうそうWEBマガジンの次号編集者は「MRKことマリコさんです」と
書いてあるのを見て、三文字ごっこもメジャーになったなぁと笑いました。
でも、サイトをあまり見ないでマガジンだけ読んでる人は、
「ミスターボーン」みたいに、
「マリコさんは女性なのに、何故ミスターケー?」
と誤解するのではないかと思ったのでした。(そんな人いない?)

余談はこの辺で、さて本題。

〉700万語通過しました!

唖然。もう何も言うことはありません。
おめでとうと言うのも陳腐な感じがして。(でも、オメデトー!!)
他にもいっぱいすごい人がいるけれど、
みちるさんは、なんか「迫力」があるんだよなぁ。

〉タドキスト大会の時に、しおさんと少しお話しできたのですが、そのときから
〉ちょっと自分の中での方向性が変わってきたように思います。

うんうん。しおさんには、何か人に訴える真摯な感じがありますもんね。
いくら話しても、何も残らない私とは大違い(笑)

〉600万語までは、いろんな本が読みたいなという気持ちが強くて
〉ちょっと無理しても、いろんな種類のいろんな本をという気持ちが
〉強くありました。

その一環が、「失われし時を求めて」?(笑)
冗談はさておき、何故
「ちょっと無理しても、いろんな種類のいろんな本を」
と思ったのでしょう?
この辺に以下の問題を解くポイントがある気がします。

〉だけど、しおさんに、児童書を読むことについてなどをうかがっていて、
〉その後に、ちょっとひまぞさんとも、そんな話をメールでお話ししたりして、
〉私にとっては、「英語の本を読むことは、英語の本を読むこと」なのだけど
〉しおさんやひまぞさんにとっては「英語の本を読むことは、本を読むこと」
〉なんだなぁと感じました。
〉なんていうのかな、理解度とか速度とかとはちょっと違った次元で、
〉自然さというのかな。

「英語の本を読むこと」と「本を読むこと」に違いがある訳ですね。
私は、更に「本を読むこと」と「読むこと」にも違いがある気がしてます。

〉そしてお二人とも、同じように、意味は分かるけどぎこちない難しい本では
〉なくて、しおさんの言葉をお借りすると「水を飲むように」自然に読めるような
〉易しい児童書をたくさん読むことによって自然さを身につけていらっしゃるんですね。

しおさんとひまぞさんは、そういう方法を取られたと言う事ですね。

〉「英語の本を読むことは、英語の本を読むこと」の表れのひとつみたいなこと
〉として、英語の本は数ページ読んだらだいたい「この本は結構易しいな」とか
〉「この本は難しい」とか思ったりしているんですよね。訳していなくても
〉明らかに、日本語の本を読むというのとは違っている部分がたくさんあって。

それは、そうですよね。
だって、ネイティブな言語でなければ、必ずそういう違いは残ると思うなぁ。

〉でも、よく考えると、自然に読めていたと思う本も何冊かあって、そういう本って
〉だいたいが体感レベル(というかYL?)3-4くらいの面白い本なんですよね。

その本はレベルが3.4だったから自然に読めたのか、
面白いから自然に読めたのか、どちらなのでしょう?

〉いろいろな本が読めることよりも、「英語の本を読むことは、英語の本を読むこと」
〉から「英語の本を読むことは、本を読むこと」という風になりたいなというのが、
〉今は一番の希望です。

うーん。どうなんだろう。
多分、みちるさんと私とでは、そもそも日本語の「本を読むこと」が違いそうなので、
相互理解不能な所がある気がするけれど
(読書家のみちるさんと、非読書家の私と言う違いに現れている)
それでも、一度みちるさんに聞いてみたい事があったんです。
「何故、本を読むの?」って。

私の場合、解る本より、解らない本が好きと言う偏屈も在るけれど、
(そのせいで、我が家には訳の分からない本だらけ)(笑)
本を読むこと自体が目的ではないんですね。
それに、日本語の本だって意味の解らない言葉、解らない文がいくらでも在るんです。
(例えばヘーゲルを覗いた時に「契機」と言う言葉が、どうにも解らなかった)
それが、解らないまま時々、思い出したように「どういうことなのかな?」と思いながら、
年月を経て、ある日ふと「そうか、そういう事か」と解る時が在る。
これって、日本語でも「英語の多読」で解らない単語が解るのと同じなんですね。
だから、私にとっては元々「英語の本を読む」と言うことと、
「本を読む」ことに違いがない気がしてるんです。

それに、日本語だったら、(子供の頃から)決して読まなかった
ポプラ社の児童書のような物を英語で読んでいる訳ですから、
「英語の本を読む」「本を読む」の違いと言うより、
今まで読まなかった「違うジャンルの本」を読んでる感が強いのです。
そして、その先に私は(ここがみちるさんに異議在りと言われる所ですが)、
「この作家は何をどう考えて書いているのだろう?」
という目的(目標?興味?)を抱えて読む訳です。

だから、その本という作品を越えて作家の背景とか時代背景が問題になってくる。
こういう自問と思考の中では、もはや材料として読んだ本が英語であるか、
日本語であるかは問題にならなくなってくると思うのです。

ひまぞさんとはお話していないので解らないのですが、
しおさんとタドキスト大会でお話した時に、しおさんに
「どうして英語を学んでいるのですか?」と尋ねた所、
しおさんには確実に、その動機があったんです。
その動機の達成の為に英語も学び本も読んでいらっしゃる。

つまり、「英語の本を読むこと」も「本を読むこと」も材料であり、手段なのです。
だから、その材料であり手段である点で、日本語も英語も「本を読むこと」に
違いは無いのではないかと思うのです。

例えば良質な児童書を読んで「優しい心豊かな世界に触れる」事に動機が在るのならば、
「優しい心豊かな世界に触れる」事に、英語も日本語も無い気がするのです。

それが「本を読むこと」に目的があるかぎり、
「英語の本を読むこと」と「(日本語の)本を読むこと」のギャップは
埋められないのではないか?って言う気がします。
(あくまで気がするだけです。なんせ、200数十万しか読んでいない若輩者の考えですから)

〉そのためにはとレベル3-4の本も少し充実させたので、この後の100万語か
〉200万語はできるだけ自然に読めるような本をたくさん読んで、少しでも
〉より自然なことになっていくといいなと思っています。

私の好きな画家に佐伯祐三という画家がいます。(祐三って、この字で良かったかな?)
この画家がパリに留学したときにヴラマンクと言う画家に師事するのですが、
一生懸命学ぼうと書いた絵を「アカデミック!」と一喝されたそうです。

つまり描くと言うことは「学ぶ」事ではなく、「感じる」事だと言うことだと思います。
先程までの文脈で言えば、「描く」事は手段であり、「感じる」事に目的が在ると言う事です。

「読む」という行為も、これに近いものがあるのではないか?と思います。
だから、700万語も読まれたレベルにあるみちるさんだからこそ、
レベルに拘らず「楽しい読書」=「Happy Reading」だけを感じて貰いたいなと思います。

と、釈迦に説法をくどくど書いてしまいました。
自分自身はレベルに拘って読んでいる道化師でした。

ではであ。


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