[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 9999 // 時刻: 2024/11/23(11:28)]
上へ | 前のメッセージへ | 次のメッセージへ | ここから後の返答を全表示 | 返答を書き込む | 訂正する | 削除する
お名前: 道化師
投稿日: 2003/11/20(19:15)
------------------------------
こんにちは杏樹さん。
〉こういうことを話し出すとあれも、これも…となってしまいます。
あれもこれもは、私も同類です。
(私の場合は、茶化しや、混ぜっ返しが多いですが)
〉ただ、最近はネイティブ・アメリカンの立場から歴史を見直す動きがあります。「西部開拓」の時代は、インディアンは白人が「開拓」するのを邪魔する悪者にされてきましたが、近年になってやっと先住民の土地を奪っていたと言う認識が生まれてきたようです。
確かに、そういう話は聞きます。
例えば、生き残った少数のインディアンの子孫に、経済的特区を与えて、
そこで子孫はカジノを開き、莫大な利益を上げているとか。
でも、経済的恩恵を与えれば、贖罪すると思う所が、アメリカなんだなぁ。
なぜに、
「私たちは、世界でも数少ない深い精神世界を持つ民族・文明を地上から抹殺してしまった反省の上に立ち、今後あらゆる他の民族の精神を尊重し、また、民族・文明を侵害する行為に反対する」と言えないのかなぁ?
今のイラク問題に関わるイスラム文明への態度に見受けられるように、アメリカの態度はいまだに、何の反省も無く、多民族の精神・文明に尊重を欠いているとしか思えません。
〉日本人には「単一民族幻想」が根強いですから民族問題は大変理解しにくいです。しかし世界では「一つの民族、一つの国」という国の方が珍しいです。特に本当に少数しかいない民族がすぐ隣り合って住んでいて、外から見ると一体何が違うのかと思うようなこともあります。そういう時に民族を決定するのは最終的には「自己認識」なんです。自分は○×民族である、という自称です。
このお話から、私の思考は、日本国内の本当は存在する民族問題へ向かうのですが、あまりに繊細な問題なので、止めておきます。
〉ユダヤ人も大ざっぱに言えばそのようなものです。ユダヤ人の家庭に生まれてユダヤ教の教えに基づいて育てられるとユダヤ人です。ヨーロッパではユダヤ人は居住地が制限されており、ヨーロッパ人からの偏見や差別もあって簡単に交じり合うことはありませんでした。またそういったユダヤ人家庭では住んでいる国の言葉のほかにヘブライ語の聖典を読むことを教えられます。そうなると成人すると自分はユダヤ人である、としか認識できなくなるわけです。
杏樹さんのこのお話を聞くと、ナチス・ドイツのユダヤ人にした行為が、決して突出して現れたのではなく、ある歴史的必然があったのではないか?口をぬぐって皆押し黙っているけれど、欧米各国には、暗にそれを肯定する意識が当時あったのではないか?と思ってしまいます。
〉近年はヨーロッパでもそうした差別はなくなっていて(完全にはなくなっていない)、ユダヤの家庭でも厳密なユダヤ教の教育もなくなってきていますが、そうなると自分がユダヤ人であると思いさえすればそれがユダヤ人だということになるわけです。そして他の民族がユダヤ教に改宗すれば「自分はユダヤ人である」と言っても認めてもらえます。ユダヤ教に改宗してイスラエル国籍を獲得すれば完全に「ユダヤ人」になります。
これは、公の制度としての「ユダヤ人」の問題ですね。
知有蔵人や三都主が日本人であるような。
民族的アイデンティティーはまた別の問題のような気がします。
先日、「裸足の1500マイル」と言う、オーストラリアのアビリジニー同化政策による悲劇を扱った映画を見たのですが、現在、その同化政策によって、民族的アイデンティティーの喪失に苦しむアボリジニーが多いそうです。
ユダヤ民族は、この民族アイデンティティーを永年に渡って強烈に保持してきたと思えるのですが、これは逆に「被差別」を敢えて意図して選択してきた歴史でもあるように思えるのです。
〉数学者で大道芸人として有名なピーター・フランクルという人がいますが、この人はハンガリー生まれのユダヤ人です。数学に抜群の才能がありながら、ユダヤ人ということで進学に制限を受けて、そのため国外へ出たそうです。そして日本にまでたどり着いたわけです。第二次大戦を経てもなおヨーロッパにはユダヤ人に対する差別が残り続けており、そうした差別に会うと、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることを強く認識せざるを得ないでしょう。
私の思考は、ここから「差別の構造」に向かうのですが、
これも繊細な問題なので、止めます。
〉広島と長崎を持ち出しさえすれば、必ずしも平和を伝えることが出来る訳ではないと思います。広島・長崎に世界の首脳を集めるならば強い意志で反核・反戦を訴える姿勢が必要だと思います。慰霊碑の前でもアメリカに遠慮して献花のポーズだけとってはい終わり、さあイラクへ送る軍隊の配分を話し合いましょう、だとかえってむなしいです。
私は、日本の政府やメディアの今の広島と長崎の扱い方を理解しかねています。
戦争を起こしたバチとして、広島・長崎という惨事を招いたと感じているのか、
それとも、いくら戦争とは言え、無差別大量虐殺にあたる原爆投下したアメリカへの非難として、広島・長崎を語っているのか、解らないのです。
バチならば、もっと南京大虐殺を始めとする私たちの父、祖父達の罪を問わなければならないでしょうし、非難ならば、杏樹さんの言う通りもっと核保有国へ発言しなければならないでしょう。
多分、どちらともハッキリしない曖昧な中で、広島・長崎を扱っているのでしょうけれど。
でも、この曖昧さが、忘れてはならない経験を風化させると思うのです。
ならば、せめて、どんな形にせよ、新たな認識を生む行動を取り続けなければならないと思っています。
それが例えむなしい行為であれ、何かする事で人々へ新たな認識を喚起し、
次世代へ記憶を引き継がなければならないのですから。
以上、話が千路に乱れて、殆ど爆死状態の道化師でした。
ではでは。
▲返答元
▼返答