[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2024/11/23(17:29)]
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お名前: KYO
投稿日: 2004/3/13(08:53)
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息子の住まい探しで、ここ2、3日ほど在宅していなくて、
皆さんの書き込みはざっとしか読めていません。
ですから、話の流れとうまくリンクさせられないのですが、
語彙をめぐる問題について自分が気づいたことを書いてみます。
未知語を数えるというときに、皆さんが文章を読んで数えているのに実はびっくりしたのです。
自分でも一応試しに一回数えたのですが、私の場合は、
読まないでざっと単語を見ていって「この単語は見たことがない」という単語を拾っていきました。
ある意味では知っているけれどこの文脈の意味で知らないとか、
イディオムやphrasal verb で組み合わさった句の意味がわからないとか、
それを言い出すと煩雑になるので、ざっと見て数えればいいと私は思っていたのでした。
息子に試しにやらせたときも、逐一読んでいるらしく時間がかかるので、
「読まなくていいのよ、単語のリストだと思ってどんどん拾えば」と言っていたんですね。
ところが、皆さん、文章を読んで、ものすごく厳密に判断しようとされてました。
そして、単語に着目すると、一つ一つの単語の意味をばらばらに取っていって
、文法で繋ぐような訳読的な読み方にもどる人がたくさんいる
そのことを皆さんの発言からわかってびっくりしました。
SSSの多読をやることで、やっとそのような訳読法的な読み方から脱していたのに、
私が「未知語を数えてみませんか」などと提案したために、
以前の読み方にもどってしまう、それで多読をしてきた皆さんから大きな反発を受けることになったのだろうと思います。
その時点でようやく私は気づいたのでした。
どんなに多くの人が訳読法的な読み方から抜け出るのに苦労されたかを。
カタカナ英語を洗い流すのに苦労されている人がたくさんいるとわかったときも
自分の不明を恥ずかしく思い、
すごく大切なことを気づかせてもらって本当にありがたかったのですが、
この語彙をめぐる問題でまた大事な気づきがあったのだということを感じています。
私自身は語と語を繋いで読むという読み方をしていません。
多分読みの最小単位は、単語ではなく句レベル(単語がいくつか組み合わさったもの)、
短い文なら文まるごとです。無意識に自動的にそうしていて、
この読み方以外の読み方は多分できないと思います。聞くときもそうです。
ひとつの単語の意味がわからないから、その文がわからないということはありません。
私にとってのわからないというのはどうしてこの文が書かれたのか、
書き手の意図が見えないという場合が一番大きいです。
私にとって読むということは、意味をとっていく際には句とか文レベルなのですが、
「読めた」と自分が感じるのは、段落やあるいはいくつかの段落のまとまりで、
書き手が言わんとしていること、物語なら何を語っているかがよくつかめているときです。
もっと大きくいえば、ひとつの文章の大きなまとまりで書き手の意図がつかめているかどうか
(小説ならストーリ全体)が見えるか見えないかがものすごく重要です。
書き手が読者のわからなさを喚起することで、
読者の興味を引っ張っていくようなストーリの語り方をしている場合などはそれに引っ張られていくのが楽しいです。
(たとえば恩田陸さんの一連の作品など)
読者を引っ張ろうとしている作者の意図がわかるので、わからなさがむしろおもしろいのです。
個々の単語で意味が不明の単語があれば、たしかに細かな点の理解があやふやにはなりますが、
文章レベルで書き手の意図や語ろうとしているものが読めているときはほとんど気になりません。
「ここは具体例をあげているらしい」とか「ここでは彼の言葉に対する彼女の反応を語っているんだな」
という理解でOKです。
物事の理解の仕方に、トップダウン(全体から細部へ)とボトムアップ(細部から全体へ)という二つの理解の仕方がありますね。
「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、
私の場合は「森が見えれば個々の木はそれほど気にならない」のです。
トップダウンの理解の傾向が非常に強い人間です。
個々の語を読んでいないので、文章の校正は非常に不得手です。
内容が読めているときは、「語が見えない」感じなのです。
私にとってすぐれた文章というのは、物語のイメージや作者の主張が頭の中に流れていって、
文字を介しているのに文字は意識されない状態をもたらしてくれる文章です。
下手な翻訳物などを読むと、字ばかり目立ってイメージが流れなくてイライラします。
たぶん個々の語を一つ一つ見ていくということと、
「読む」ということが私には非常に違ったことなのです。
英語を聞くときも同じで、英語ニュースで使われる単語や言い回しを拾おうとすると
ニュースの内容はさっぱりわからなくなります。
途中でニュースの内容に気持ちが向いてしまうと
単語が拾うことはすっかりお留守になります。
きっと私の場合は、内容を読み取りながら読むと、未知語を拾うことがうまくできないのです。
読まないで、単語をばらばらにに見るようにしなければ未知語が拾えないのです。
こういう人間は未知語を数えたって、平気です。読み方に影響を受けません。
きっとこういうことがあるので、多読で訳読法からようやく抜け出した方々に
「数えてみたら」と単語に着目するような提案すれば、
せっかく抜け出した方法に逆戻りさせる危険があることが私にはわからなかったのです。
訳読法的な読み方をどうして自分がしないのか、
たぶんそれは非常に早い時期に英語を英語のままで理解する回路を作ったからではないかと想像します。
英語から日本語に翻訳するときは、英語で理解したことを日本語でアウトプットします。
読めない文に限り、ばらして理解している感じです。
通訳するときはその傾向がもっと強くなります。
英語を聞いて理解した内容を日本語で話しています。
単語の置き換えのような作業とは無縁なのです。
もうひとつ、日本語で読んできた経験が私の場合は豊富です。
小さいときから今に至るまでずっと、読むことはある種「快楽」でした。
日本語を読んできた経験が英語にも転化しているということは以前から自分でも感じていました。
(教師として英語の読解問題の解説をするときに、
生徒さんが読めない原因のひとつは日本語の読み経験が少ないことにあることは気づいているのですが、
それを英語を教えるときに言っても仕方がないと思っていました)
「何がなんだかわからない」と自分の発言で書いたときは、
多くの人が訳読法に戻る危険があることは痛切に感じたけれど、
どうしてそうなるのかよくわからないという意味で書いたのです。
まだよくわかっているとは言えませんが、
この問題でとても大切なポイントに自分は突き当たったのだということは
おぼろげながら気づいたので、今後も考えていきたいです。
SSSの原則「わからないところはとばす」というのは、
自分が思っていたように簡単なことではないのだということは感じています。
トップダウンが主で理解している自分にとっては細部のわからなさは平気です。
細部が曖昧でもあまり気にせず読み進んでいけます。
でもボトムアップの理解の傾向が強い人の場合は、
きっとわからない部分をとばせば全体が見えなくなるでしょう、
またわからなさへの不安もずっと大きいはずです。
自分はこうです、こうですばっかり書いて、不愉快に思われる方が
いるかもしれません。その時はごめんなさい。今わかっているのはこれぐらいなので、
もっと考えが進めばちゃんと書けるかもしれません。
今我が家のコンピュータが不具合で修理に出し暫定的なものをしばらく使うので、
あまり掲示板がのぞけなかったり書き込めなかったりすると思います。
その点もあらかじめお詫びしておきます。
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