[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2024/11/23(10:34)]
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お名前: fiddle
投稿日: 2004/3/12(11:52)
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道化師さん、こんにちは、
横から失礼いたします。
たこ焼さん、はじめまして、fiddleと申します。
いつもたこ焼きさんの話芸、楽しませていただくとともに、
中身の深さに感動しておりました。
英語の話ではありませんが、何故本が読めるのか、私も前からちょっと考えていました。
我が家には娘が二人います。今までの生活のなかで観察したところ、
A(高2)のほうは物語に共感する能力は高いが、中に出てくる言葉を暗記する能力が低く、
B(中1)のほうは中に出てくる言葉を暗記する能力は高いが、物語に共感する能力は低い、
という傾向があるのに気が付きました。
例えば歴史の教科書を読んでも、そこにAは物語を感じるのに、
Bにとっては憶えなければならない事実の羅列でしかなかったりするのです。
成績がいいのは、もちろんBのほうです。
ほとんどの学校のテストというのは暗記力を試すものですから。
でも、本を楽しむ力というのは圧倒的にAのほうが持っているように見えます。
そこで、私は本を読む力というのは、「共感能力」とか
「物語の構造(文法でいう文の構造ではなく)をつかみ取る力」ではないかと
推測していたのです。
Pという現象とQという現象が平面的に並んでいるのではなく、
立体的で、互いに関係しあっているのを直観できる力、
とでもいいましょうか。
(すみません、なんだかうまく表現できません。
口から先に生まれたようなだんなと口論すると、
「今の話を論理的に言ってみろ」
と言われていつも泣く泣く??引き下がっている、口下手の私です)
酒井先生のおっしゃる「物語の力」というのは、
言葉が、単語のみ、一文のみではなく、集合体となったときに持つ力と、
人間が物語を読むときにそこから感じ取る力と、
両方合わせもっているのではないかと思います。
〉言葉の最小単位ですので、「物語」を小さく切り刻んだ要素、
〉例えば、単語、孤立した文などはもはや言葉ではありません。
〉従って、これらをいくらインプットしても、脳の言語野は
〉それらを言葉としてなかなか認識しないのです。
詩という形式は、この限界のところでの文学表現といえませんか?
だからこそ、作り手にも読み手にも
より大きなイマジネーションが要求されるような気がします。
〉ところがSSS的多読だと、「物語」そのものをインプットするので、
〉脳の言語野はちゃんと言葉として認識して、
〉言語野の成長が促進されるのではないでしょうか?
〉いや、もう少し精密に表現すると、
〉「物語」のイメージが漂っている状態なら、
〉取り出した個々の語や文も、言葉として感じられるのです。
〉多読で覚えた語や表現が、生き生きとしているのは
〉そのような理由からではないでしょうか?
そうですそうです。
それこそ、私が多読をやろうと思った理由です。
現実は、まだまだ頭の中で日本語と英語とがせめぎあって
英語そのものを受け入れることの難しさを実感してしまうときが
多いのですが…
もっとたくさん読まなくちゃ!
まとまりがなくて申し訳ありませんが
これにて失礼いたします。
ではでは。
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