本を読むこと。みちるさんへ。

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10025. 本を読むこと。みちるさんへ。

お名前: 道化師
投稿日: 2004/2/8(20:42)

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みちるさん、こんばんは。
みちるさんにけんかばっかり売っている宿敵のお兄さん(?はいらないね)道化師です。

〉えーと、これは、ペギーさんの300万語のご報告関連のやりとりの中から、
〉形を取ってきたものなのですが、その話とは直接は関係なく、そこから
〉生まれてきて、もう少し話し合えたらいいなと思ったことなので、
〉今までとは、切り離して新しいものとして受け入れていただければと
〉思います。
〉よろしくお願いします。

そうそう。切り離して貰えると僕も書きやすいな。
あの流れのままだと、何を書いてもどちらかの批判になりかねないし、
みちるさんといつも喧嘩ばっかりしてる僕にさへ、
みちるさんの書き込みは痛かったから。
でも、ちんおじさんの痛みとは違うんだけどね。
あの書き込みをせずにはいられなかった、みちるさんの心情が僕には痛かったんだ。
だから、ほぼ一週間何も発言できず、沈黙してた訳だけれど。
で、ペギーさんには今朝、そんなに悩んでいないで、みちるさんとは関係の無い問題として
どんどんTOEICの為の多読やLRをして悩まないで済む点数を取ったらって書いてきたんだ。
でも、みちるさんの言わんとしてる所は、みちるさんへのお祝いツリーで、
僕への一瞬のレス(すぐに消されてしまったレスの事ね)を読んだ時から、なんとなく感じてたんだ。
(全てを読んだ後でも、まだなんとなくかも知れないけれど)

ただ、ああいう反応は俗悪な僕に対してすれば良かったのにと思う。
あの善良なペギーさんには、ちょっときつかったんじゃないかなぁ。
だって、ペギーさん以上に僕は本を読むことは手段だと思っているから。
いや、ペギーさんはあんな風に書いてしまったけれど、英語も学びたい以上に、
本を読むことも愛していると思うなぁ。
サッカーなんかへの思いいれを見るとそう思う。
僕は、サッカーにしろ屁理屈こきの対象であれ、あそこまで思いいれは無いから。
その点で言えば、トオルさんのハッピーリスニング、秋男さんのハッピーウォッチングだとすれば、
僕はハッピー屁理屈ィングだなぁ。
それは、みちるさんも知っているよね。(笑)

僕は以前みちるさんに小説読みじゃないって看破されてしまったけれど、
今回のみちるさんの投稿で本読みでも無くなってしまった。
確かに本を読むのは好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと言うくらいで、
何よりも好きかと聞かれると、答えに窮してしまうからなぁ。
どんな時でも、本が一番読みたい訳じゃないから。
子供と遊びたい時だってあるし、映画(もっぱらビデオだけど)を見たい時もある。
妻と語り合いたい時だってあるし、彼女とデートしたぁーいと妄想する時だってある。(笑)
そんなしたい事の中のひとつだから、当然、みちるさんの言う量だってたかが知れている。
そりゃ、読もうと思えば例の「父」を4,5時間で読むし、「バカの為の読書術」なんかだと、
2時間弱って所だと思うから、年間通して100冊1000万語位(和書ならね)は読めると思う。
でも、そんなには読みたいと思わないんだ。それは上に書いたとおり、他にしたい事があるから。

でもって、だからたかが知れてる量しか読んでいない僕は、みちるさんの言う処の
読解力は身に付いていないんだと思う。
(れなさんの言う納得力と、みちるさんの読解力は同じでいいのかな?)
僕の読解力がどの程度なのかは、僕の「父」の感想文や、サッカーの感想文を読んでいるみちるさんなら解るよね。
あの程度しか読み取れないんだ。
だから、当然、僕には16万語でハリポタとか、50万語でダニステ (略して良いのかぁ?) は読めない。
でも、それはそれで不満はなかったけれどね。

そんな僕が「本を読む事」について、ああだこうだと言うのは、
おくがましいかもしれない。
でもね、いまだにみちるさんが、下の点に拘っているみたいだから、
あえて書いてみたいと思うんだ。

〉例えば、ビートルズ好きの人がいて、その人が、音楽の教科書に「yesterday」が
〉のったという話を聞くとしますよね。
〉「そんなー、教科書の曲になっちゃったらつまらなくなっちゃうじゃないかー」って
〉悲しくなる人って、結構いると思いませんか?

〉ひまぞさんが、書かれていたことも、ただそれだけなのです。
〉自分が大好きな「本」や「本を読むという時間」。
〉同じ思いを抱いている人とは、そんな思いを語り合いたい。

〉でも、そんな自分が大事にしているものや思いや時間が、
〉何かの手段としてしょうがなくと思っているのかな・・・。
〉そんな気持ちは、ちょっと悲しいのです。
〉「英語学習に、この方法でよかったのかな他の方法の方をやっていた方が
〉よかったんじゃないかな・・・。」
〉といわれると、「今まで、読んできた時間も否定されちゃうの?」
〉と、悲しくなっちゃうんです。。

これは、みちるさんのペギーさんへの反応の動機の根源だよね。
でも、どうして悲しくなっちゃうんだろう?
Yesterdayが教科書に載ったからと言って、yesterdayが良くない曲だなんて誰も思わないんだよね。
それをなんで、教科書に載ると悲しくなるんだろう?
大好きな「本」や「本を読む時間」を手段にしている人がいたとしても、
だからと言って、その人がみちるさんの大好きな「本」やみちるさんの「本を読むという時間」を
否定している訳ではないんだよね。
「英語学習で、他の方法をした方がよかったんじゃないかなぁ」と言ったからといって、
みちるさんの「読んできた時間」を否定している訳じゃないんだよね。
そういう風に言って迷って悩んでいる人は、その人自身が「読んできた時間」を否定しなきゃならないのかなぁと思って苦しんでいる訳で、みちるさんの「本を読むという時間」を否定してる訳じゃないんだよね。
なのに、なんで悲しくなっちゃうんだろう。

これは、冗談めかして、この前にも言った事と同じなんだけれど、
やっぱりこの悲しさの元は、教科書に載った事や、手段にしてる人がいたり、
他の方法に迷う人にあるんじゃなくて、みちるさんの方にあるんだと思う。

今、みちるさんは毎月100万語のペースで読んでいるよね。
みちるさんの報告だと毎分150語のペースで読んでいるんだよね。
単純に割り算すると、毎月6666分多読に割いていることになる。
これを30日割りにすると、一日222分。時間に直すと、約3時間40分。
これは大変な事だと思う。本当にその努力には敬意を表したいと思う。
一般社会人が仕事を持った上で、これだけの時間を費やすのは、
並大抵の事じゃないと思う。
でも、どんなに頑張って努力する人にだって、一日は24時間しかないんだよね。
仕事に9時間、「本を読む時間」に3時間40分使ってしまうと、
残り睡眠時間に6時間使うとなると、食事、入浴、身支度で残りの時間はもう殆ど無いと思う。
(現実には、以前説明してもらったとおり、休日を利用して調整しているんだろうと思うけれど)
でも、休日を利用していると言っても、
これはやっぱりあまりに多くのものを捨ててるんじゃないかと思うんだ。
「深く考えないようにして」と報告で(多分冗談だろうけれど)言っていたけれど、
みちるさんの中の何処かに「捨てている」「犠牲にしている」感覚はあると思うんだ。

この「捨てている」「犠牲にしている」感覚が「悲しみ」の元なんじゃないかと思うんだ。
でも、「捨てる」「犠牲にする」のはみちるさんも覚悟の上の事だろうから、
冗談で「拾いに行け」とは言っても、本気では言わない。

でも、SSSの掲示板上で少しずつ貯まってきた違和感って言うのがあったよね。
これは、ちょっとどうなんだろうと僕は思う。
この違和感は、英語の学習の種にしていると言う事じゃなくて、
同じ本を、みちるさんから言わせると片手間な感じで、
何を捨てる事もなく、何を犠牲にする事もなく楽しもうとしている人への違和感のように感じるんだ。
「何も捨てず、犠牲にもしないで、何をいってるんだろう」って言う感じに近いんじゃないかな。
もし、大切な「本を読む時間」を英語学習の種にしていると言う事ならば、
僕から見れば、遥かにみちるさんの方が「英語学習度」は高いと思う。

それに、みちるさんから言わせれば、ものの数でもない「捨てる」事だけれど、
僕が3ヶ月に100万語読んでいた時も、それなりに色々捨てて読んでいたんだ。
子供を僕が公園に連れて行く回数は見事に減ったし、
妻と子供が寝た後に、ワイン飲んでビデオ見て、ああだこうだ話してとか言う時間も減った。
でも、そういう時間の使い方は僕には半年でいっぱいいっぱいだった。
そういう時間を、それ以上の期間減らしてまで、同じペースの多読は続けられなかった。
これは単に僕の価値観なんだけれどね。
ただ、そういう「捨てたもの」の大切さも僕は感じるんだ。

みちるさんの「読む動機」は、聞いたから、ある程度理解している。
もしかしたら、本を読むことは、即ち生きる喜びそのものって、みちるさんは感じているんじゃないかな。
でも、それは違うと思う。
どんなに深い動機があっても、「本を読むこと」は生きる事そのものにはならないと思う。
本は、どんなに頑張っても生きる糧にはなっても、生きる事そのものにはならないと思う。
そして実際に生きる経験を積んでこそ、本を読んでより感じる事が出来るとも思うんだ。
出世競争を経験したり、目の当たりにしなければ、企業小説の本当の醍醐味は解らないだろうし、
(だから、僕は読まない)
恋愛をした事がなければ、恋愛小説の心模様を理解は出来ないだろうと思う。
(記号のように、「この二人は恋愛してる」という状況は理解するだろうけれど)
じゃあ、人を殺さなければ、犯罪小説は読めないのかと言われる事があるけれど、
自分が心の中にしまっている憎悪やその他の感情から類推しなければ、
やはり読めないと思う。

みちるさんは多読には「英語の力」と「読解力」が必要で、
「読解力」を養う為には、量を読むしかないと言ったけれど、
僕は「生きること」が読解力を養うと思う。
そうでなければ、かの有名な逸話、sakigoroさんには難しくて、
まりあさんには易しかったという本なんて在り得る訳ないのだから。

長くなってしまったけれど、僕は心からみちるさんが、捨てたものを取り戻して、
何も捨てずに同じ本を楽しむ人を見ても、悲しまずに一緒に楽しめるようになればいいなって思う。


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