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お名前: Kyuwi
投稿日: 2005/8/8(22:57)
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今日買ってきた本(和書)の中に洋書の読書に関する文章があり、
自分が先週から始めた多読とのタイミングの良さと内容の符合に、
思わず「うんうん」とうなずきながら読んでしまいました。
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文科を志望していたので外国文学を読み始めた。邦訳でなく、英語で読みたい。但し英語で書いた英文学は六ずかしくて歯が立たない。独逸、露西亜、仏蘭西等の作品の英訳は割りにらくに読める。後に独逸語を教わってから、英吉利の物を独逸訳で読んだら、矢張り本来の英語で読むよりはやさしく読めた。
しかし、六ずかしい、やさしいと云う事は、私共に取っては実に截然と区別する事が出来るが、漱石先生は英語で書いた物のあれは六ずかしい、これはやさしいと云う区別はよくわからないと云われたのを、じかに聞いた事がある。
そう云えば私共でも、特別な場合を除き、新聞や雑誌の日本文が、あれが六ずかしい、これはやさしいなどと思った事はない。漱石先生の英語では、云われた通り差別はなかったのだろう。
私は努めて英訳の外国文学を読んだ。直読直解で、後へ引っくり返したりしない様、何何するところのそれは、と云う風に関係代名詞に引っ掛からない様にと心掛けた。
それで大体面白く読める。そうして一作読み終る。読んだつもりなのだが、どうもぼんやりしている。私の語学力では、直読直解は少少無理だったのかも知れない。
【内田百閒『忘却論』(ちくま文庫・内田百閒集成6より)】
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先日観た、『Finding Forrester』(邦題:小説家を見つけたら)にも
文学を読むのが日常である、ブロンクスの高校生(16歳)が出てきて、
彼の部屋にはチェーホフだとか三島由紀夫の英訳されたペーパーバックが
平積みされていました。羨ましいなあ。
さて、負けじと多読に励まなくては。
日本語以外の本も読めるようになるのは本当に楽しいですね、
たかだか始めてまだ数日だというのに、HAPPY READINGの効用を
ふつふつと実感しています。こちらの掲示板に書かれている皆さんの
文章を読んでも、その事を本当に感じます。毎日の読書がより楽しくなる。。
〜P.S.〜
上に引用したエッセイは、次の文章で終わります。当時、法政大学で独逸語を教えていた著者が、学生から「先生そんなに詰め込まれても、じきに忘れてしまいます」と訴えられ
構わない。覚えていられなかったら忘れなさい。試験の答案に書くまで覚えていればいいので、書いてしまったら忘れてもいい。しかし覚えていない事を忘れるわけには行かない。知らない事が忘れられるか。忘れる前には先ず覚えなければならない。だから忘れる為に覚えなさい。忘れた後に大切な判断が生じる。語学だけの話ではない。もとから丸で知らなかったのと、知っていたけれど忘れた場合と、その大変な違いがいろいろ忘れて行く内にわかって来るだろう。
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