日本語と英語の距離

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11311. 日本語と英語の距離

お名前: 杏樹
投稿日: 2003/2/21(00:58)

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junさん、こんにちは。
お付き合いいただきありがとうございます。

〉昔一学期だけやったラテン語で、amo amamus なんたらというのをやったように思います。ただ省略できるというのと、省略できないというのでは決定的な違いがあるということはないでしょうか? ラテン語などではむしろ ego amo (すみません。ラテン語全然知らないので、I love のつもり)などというのは例外的いいかたで、amo というのが普通だとすると、主語をあらわす人称代名詞が言語上必須である言語とはかなり言語意識が違うということはないでしょうか。でもスペイン語では省略されるとするとわたしの言っていることは、どうも根拠がないですね(^^)。

ラテン語はamoと言えば一人称ですよね。二人称や三人称、複数になると変化しますよね。ということは、主語は省略したとしても、実際上の主語が何であるかを特定しなければ動詞が使えないわけです。日本語では主語がなければその場の状況や前後のつながりによって意味を判断することになります。しかしラテン語は動詞を見れば主語は一目瞭然です。一目瞭然なので「わかりきったことは省略する」のです。そこが日本語とラテン語の違いです。
ヨーロッパの言葉の多くは人称によって動詞が変化します。三人称単数現在にSをつけるだけの英語は例外です。フランス語やドイツ語は主語は省略しませんが、ヨーロッパの言葉の多くは動詞の活用が必須です。

〉 そこのところをぜひおききしたいのですが、日本語(あるいはアジアの言語)があいまいに見えるのはインド・ヨーロッパ語を基準に考えるからそう見えるのだということはないでしょうか? これまたいい加減なことを書きますが、学問的な文法体系が整備しているのはインド・ヨーロッパ語だけで、その文法体系から日本語をみるからあいまいに見えるのであって、日本語は日本語として明晰な言語である、ということはないでしょうか?(本当にいい加減なことを書いてすみません(^^))

インド・ヨーロッパ語が世界的に広く使われており、文法体系や言語同士の関係も研究が進んでいるのは確かです。そしてインド・ヨーロッパ語を基準にすると日本語があいまいに見えるという側面も確かにあります。
しかしやはりインド・ヨーロッパ語は理論的に構築された言葉であるのに対し、アジアの言葉は情緒的な面が多いように思います。例えば主語がない、ということについては主体がはっきりしないということになり、つまり上で述べたように前後の意味や状況を考えて意味を取る必要があるわけです。私はアジアの言葉をたくさん知っている訳ではありませんが、中国語を習い始めた時そういった感覚を持ちました。英語よりも「雰囲気」で解釈するような面が多いと思いました。また、インドネシア語をかじった時は言葉の構造や意味がヨーロッパ語のように明確ではなく、その場の雰囲気やニュアンスを重視するのでかえって習得するのが難しいように思いました。「接頭語」などというものがあって、どういう時に付けるのかというと、いくら説明を読んでもはっきりしません。使いながら感覚で覚えるしかないようでした。

日本人が外国語を習得するのが難しいのは、確かに学習法にも問題はあります。しかし日本語は世界でも孤立した言葉であるというのも原因ではないかと思います。インド・ヨーロッパ語は実にたくさんの言葉があり、その中でもラテン系やゲルマン系、スラブ系、ペルシア系など細かい分類があります。それらの相関関係は詳しく研究されています。その中の言葉同士では基本的な構造が似ている上、語彙も共通のものがありますから勉強しやすいはずです。

しかし日本語ははっきり同系統と言える言葉がありません。韓国語は構造がほとんど同じで単語を置きかえれば通用するぐらいだと言いますが、語彙が全く違うので同系統とは言えません。もし日本語と韓国語で同じような語彙があるならそれは昔中国から取り入れた漢語でしょう。
またトルコ語やモンゴル語も構造が似ています。しかし同系統と断言できるほど近くはありませんし、語彙も異なります。南インドのタミル語が日本語のルーツだという説もありますが、定説には至っていません。
ですから日本人は外国語を勉強しようとすると同系統の文法や語彙を見つけることができず苦労するのです。

「日本人は英語が苦手」というのは、単に学校で習った英語が使えないだけで、英語だけが特に難しい外国語というわけではないのです。100年以上前はフランス語が世界語の地位を占めていました。もしフランス語が世界語のままだったら、中学一年になったとたん不規則動詞や規則動詞の活用を丸暗記させられることになり、名詞が出てくるたびに男性名詞が女性名詞か覚えなくてはならず、もっと落ちこぼれが増えていたかもしれません。そうすると「日本人はフランス語が苦手」と言われていたでしょう。英語はヨーロッパ語の中では単純化されて入りやすい方だと思います。ただ、英語で困るのは発音でしょう。英語の発音は難しいですから。おまけにつづりと発音が一致しないのでつづりや読み方を覚えるのが大変。
ヨーロッパ語で発音が簡単なのはスペイン語とイタリア語です。母音が日本語と同じで五つしかありませんし、つづりの通り読めばいいんですから。ただRの巻き舌ができないとつらいです。

〉 橋本治の「宗教なんかこわくない!」で、部派仏教と大乗仏教の違いを説明して、大乗仏教の方にたくさん拝む対象があるのは布教の過程で現地の神々を吸収していったからだ、だから大乗仏教は多神教の要素があるといっているのと同じようなことでしょうか? もっとも橋本治はキリスト教は現地の神を滅ぼしたのでそれがオカルトになって祟るのだといっていますが。

宗教というものは広がっていく過程で現地の信仰に左右されるものです。仏教も中国では中国風に解釈されましたし、その中国仏教が日本に入ってきたので、日本の仏教はもともとの原始仏教と大きく変わってしまっているのです。

キリスト教はもともと中近東の宗教です。ローマ帝国でも最初は迫害され、後に国教になりました。しかしゲルマン人がローマ帝国を滅ぼして西ヨーロッパにやってくると、ローマ・カトリックはゲルマン人に布教を始めることになりました。またもう少し後には北欧でバイキングが暴れ出します。こちらにも布教を行うことになります。その際、布教がしやすいようにゲルマン人の土着の信仰や風習を取り入れていったのです。ですからヨーロッパではいろいろな国や地域で独自の風習やお祭りがたくさんあります。現地の神は滅ぼされないで、形を変えてキリスト教の衣を着せられて残っているのです。

また、カトリックの聖母マリア崇拝や聖人崇拝ももともとのキリストの教えにはないものです。キリスト教では偶像崇拝は禁じられているのに、マリア像や聖人像を作ったり聖人の遺骨や遺物を拝む聖遺物崇拝が行われました。マリア崇拝は地母神崇拝に通じますし、聖人崇拝は偶像崇拝であり多神教に近いです。この聖人にお祈りすれば病気が治る、とか、商売繁盛する、とか。神話伝説の神々の像が聖人・聖女に置き換えられていった結果です。

長々と講釈をしてすみません。


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