[掲示板: めざせ100万語! -- 最新メッセージID: 25677 // 時刻: 2024/11/23(14:33)]
上へ | 前のメッセージへ | 次のメッセージへ | ここから後の返答を全表示 | 返答を書き込む | 訂正する | 削除する
お名前: jun http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/
投稿日: 2003/2/20(00:21)
------------------------------
杏樹さん どうもありがとうございます。
〉〉世界の宗教の中では一神教というのはきわめて例外的なもので、八百万の神とか、アニミズムとかいうほうがずっと普通なんだと思います。
〉そうでもありませんよ。イスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒を合わせると、世界の人口のかなりの部分を占めるはずです。
そうですね。でもその3つの宗教はともに旧約聖書的世界観なしには成立しなかったという点で、大きくみれば一つの宗教なんで(乱暴かな(^^))、宗教の数としては一神教的なものは少ない、例外的といえるのではないでしょうか?←滅茶苦茶な議論ですね(^^)。
〉〉英語(欧米語)には主語が必須であるというのは、一神教と深くかかわっているのではないかと思うのですが、違いますでしょうか?
〉〉多神教であるローマのラテン語には主語は必須ではないですよね。
〉〉八百万の神の日本語では当然「日本語に主語はいらない」ということになるわけです(そんな題名の本が去年でたような)。
〉ラテン語も英語もインド・ヨーロッパ語族です。ラテン語に主語がないのは、動詞の活用を見れば主語が特定できるからです。人称によって動詞が変化するので、主語を特定しなくては動詞が使えません。主語は「ない」のではなく「省略されている」のです。スペイン語も同じ理由で主語を省略します。
昔一学期だけやったラテン語で、amo amamus なんたらというのをやったように思います。ただ省略できるというのと、省略できないというのでは決定的な違いがあるということはないでしょうか? ラテン語などではむしろ ego amo (すみません。ラテン語全然知らないので、I love のつもり)などというのは例外的いいかたで、amo というのが普通だとすると、主語をあらわす人称代名詞が言語上必須である言語とはかなり言語意識が違うということはないでしょうか。でもスペイン語では省略されるとするとわたしの言っていることは、どうも根拠がないですね(^^)。
〉〉日本人が根本的に英語が苦手なのは、発想が一神教的でないからということがあるのはないかと思っていますが、考え過ぎですかね?
〉ミもフタもないお答えになりますが、インド・ヨーロッパ語は理路整然とした体系を持つ言葉です。それに比べると日本語はあいまいな部分があります。それは日本語だけの特徴ではなく、アジアの言葉にはそういうものが多いような気がします。中国語やインドネシア語などもあいまいで、理屈よりも感覚で理解するようなところがあります。
そこのところをぜひおききしたいのですが、日本語(あるいはアジアの言語)があいまいに見えるのはインド・ヨーロッパ語を基準に考えるからそう見えるのだということはないでしょうか? これまたいい加減なことを書きますが、学問的な文法体系が整備しているのはインド・ヨーロッパ語だけで、その文法体系から日本語をみるからあいまいに見えるのであって、日本語は日本語として明晰な言語である、ということはないでしょうか?(本当にいい加減なことを書いてすみません(^^))
〉ヨーロッパ人にとってもキリスト教はもともと外来宗教です。ケルト神話や北欧神話などキリスト教以前の神話伝説がありますし、そういった神話の神々を信仰してきたヨーロッパ人にキリスト教を広めるために、中世初期のヨーロッパでは土着の信仰や風習を取り入れながら布教が行われました。カトリックの聖人信仰など、私はほとんど多神教に近いと思います。
橋本治の「宗教なんかこわくない!」で、部派仏教と大乗仏教の違いを説明して、大乗仏教の方にたくさん拝む対象があるのは布教の過程で現地の神々を吸収していったからだ、だから大乗仏教は多神教の要素があるといっているのと同じようなことでしょうか? もっとも橋本治はキリスト教は現地の神を滅ぼしたのでそれがオカルトになって祟るのだといっていますが。
知りもしないことで、勝手なことを言ってすみません。
片岡義男氏の「日本語の外へ」に書かれている、日本人のしゃべる英語には主語という意識がないという話や、金武さんの「日本語に主語はいらない」がとても面白かったので、なんとなく思いつきで書きました。どうもすみませんでした。
▲返答元
▼返答